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魔獣割烹「縁」  作者: まっしゅ@
魔獣割烹「縁」

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5/10

五品目 魔獣兎の淡煮

 暖簾が揺れたのは、火を落としてから少し経った頃だった。

 店の中にはまだ熱の名残が残っていて、鍋の余熱がゆっくりと空気にほどけていく。

 その静けさに、小さく声が差し込まれるように重なる。

 その声が、空気の層を一枚だけ動かしたような感覚があった。


「……まだ、大丈夫ですか」


 顔を上げると、入口にスーツ姿の男が立っていた。

 遅い時間に来る客にしては珍しくはないが、どこか落ち着ききれていない。

 呼吸の置き場が決まっていないような、そんな違和感があった。

 すぐに入ってくるでもなく、ほんの一瞬だけ暖簾の外で足が止まっていたのが分かる。

 その一瞬が、そのままこの店の中に持ち込まれているようでもあった。


「……うん、いいよ」


 紬樹がそう返すと、男は軽く頭を下げて中に入る。

 靴音はほとんどしないが、それは静かなのではなく、どこか足運びを意識しているような、少しだけ硬い歩き方だった。

 カウンターの前まで来てからも一瞬だけ立ち止まり、椅子に手をかけるまでにわずかな間がある。

 その間に、座る理由を自分の中で整えているようにも見えた。


 カウンターに腰を下ろしても、すぐには手を動かさない。

 ただ前を見ているだけで、視線の置き場を決めきれていないようだった。

 背筋は伸びているが、肩の力だけが抜けきっていない。

 その状態のまま、どこで力を抜くべきかを探しているような、不安定さが残っている。


「お任せで、お願いします」


 メニューは開かない。

 視線も落とさない。


「……分かった」


 それだけで十分だった。


 冷蔵庫から肉を取り出す。

 淡い色のそれは、一見すると癖のない獣に見えるが、扱いを誤ればすぐに表情を変える。


 魔獣兎。


 ストレスで硬くなる肉だ。


「……兎、平気?」


 包丁を手に取りながら、軽く聞く。


「はい。

 ……たぶん」


 少しだけ遅れて返ってくる言葉を、そのまま受け取る。

 その曖昧さも含めて、この場に置く。


「……じゃあ、これでいこうか」


 刃を滑らせるように入れて、筋を外していく。

 切り分けるというより、ほどいていくような感触だった。

 余計な力をかけないまま水に落とすと、低い温度の中でゆっくりと色が抜けていく。

 表面はほとんど動かないまま、内側だけが少しずつ変わっていく。

 その変化は見えにくいが、確実に進んでいる。


 急げば残るものがあることを、紬樹は知っている。

 急いだ分だけ、後に残るものが変わる。


「急ぐと、匂いが残るから」


 独り言のようにこぼすと、男が小さく反応した。

 言葉そのものというより、その間に対して反応したような、わずかな動きだった。


「……現場も、似たようなもんです」


 紬樹は頷くだけに留める。

 言葉を足さない方が、続くこともある。

 言葉を置かないことで、相手の中に残る余白が変わる。


 肉を軽く塩で締めて、少しだけ置く。

 すぐに触らない。

 その間に鍋を用意する。

 湯はまだ上げない。

 火を入れても、音が立たない程度に留める。

 温度は見えないが、確実に上がっている。


 男は、カウンターに肘をつくでもなく、ただ手を重ねている。

 その指先だけがわずかに動いている。

 その動きは無意識で、止めようとしても止めきれない種類のものだった。


「前は、外にいたんです」


 ぽつりと、落ちた。


「……ハンターの方」


「はい。

 今はもう、内勤ですけど」


 火を入れる。

 沸かさない。

 温度は抑えたまま、肉を静かに入れる。

 表面が騒がないように、ゆっくりと沈める。

 その動きに合わせるように、湯の表面がわずかに揺れる。


「危ないし、割に合わないし」


 男は、少しだけ笑う。


「だから、やめたんですけどね」


 灰汁が浮く。

 紬樹はそれを丁寧にすくい取る。

 濁らせないように、余計なものだけを外す。

 その動きは一定で、迷いがない。

 何を残して、何を外すかが、最初から決まっているかのようだった。


「……でも、離れると」


 男の声が、少しだけ遅れる。


「気になるんですよ」


 鍋の中は静かだった。

 泡は細かく、音もほとんど立たない。

 その静けさの中で、言葉だけがわずかに浮く。


「……そうなんだ」


 それ以上は言わない。

 言葉を足せば、形が変わる。

 形を変えないために、置くだけにする。


 香味は少しだけ。

 白葱と、生姜をひとかけ。

 入れすぎれば隠れる。

 足りなければ、そのまま出る。

 その中間に置く。

 その“中間”を外さないことが、この料理の軸になる。


「味、あんまり付けないんですね」


 男が鍋を見て言う。

 視線は肉ではなく、表面の動きに向いている。

 その動きの中に、何かを見ているようだった。


「……消さない方が、分かることもあるから」


 火はそのまま、低く保つ。

 動かさない。

 焦らない。

 鍋の中で起きていることは派手ではないが、確実に進んでいる。

 見えない部分で変わっていく。


 しばらくして、紬樹は火を止めた。


 男が顔を上げる。


「……止めるんですか」


「……うん」


 蓋をして、そのまま置く。


「入れすぎると、固くなるから」


 少しだけ間を置いて、続ける。


「……抜く時間も必要だから」


 鍋の中で、肉は静かに熱を受けている。

 火はないが、止まってはいない。

 目に見えない部分で、ゆっくりと変わっている。


 男はそれを見ながら、何かを飲み込むように息を吐いた。

 言葉にしないまま、何かを整理しているような時間が流れる。


「向いてないって、思ってたんです」


 紬樹は、何も返さない。


「怖いし、迷うし」


 声は小さいが、途中で途切れない。

 そのまま続く。

 その連続が、そのまま今の状態を表している。


 少しして、もう一度だけ火を入れる。

 温度を上げすぎないように、ゆっくりと戻す。

 肉を触る。

 弾力は残っている。

 だが、硬さは抜けてきている。

 完全ではない。

 そこまで持っていかない。

 その“手前”で止める。


 皿を用意する。

 深さのある白い器。


 肉を引き上げる。

 繊維が、ほどける手前で止まっている。

 その状態を崩さないように、そのまま器に置く。


 澄んだ汁を張る。


「……魔獣兎の淡煮」


 男は箸を取る。


 一度だけ止まるが、その止まりは迷いというよりも、流れを確かめるような間であり、そこからゆっくりと持ち上げる動きへと繋がっていく。


 それから、ゆっくりと口に運ぶ。


 歯に当てる前に、ほんの少しだけ力を抜き、そのまま自然に噛む動きに入る。


 そのまま噛むが、すぐには飲み込まず、一度だけ止まり、歯に残る感触を確かめるような間を挟んでから、もう一度噛むことで、そこでほどける。


 ほどけたあともすぐには飲み込まず、その変化を確かめるようにわずかに間を置いてから、ゆっくりと飲み込む。


 視線が少しだけ落ちる。

 その落ち方は急ではなく、ゆっくりとしたもので、そのまま皿の中に留まり、すぐには戻らない。


 すぐには言葉にならないが、言葉にしようとする気配だけがわずかに見え、それが形になる前に消える。


 もう一口、同じように運ぶが、今度は少しだけ深く噛み、そのまま止まりかけながらも完全には止まらず、わずかに力を抜くことで、その流れのままほどける。


 ほどけた流れのまま、自然に飲み込む。


 箸が止まるが、完全に静止するのではなく、その場でわずかに揺れるように動きが残る。


 皿の中を見るというより、視線が落ちたまま戻らず、その状態のまま次の動作へと繋がる。


 もう一度、持ち上げると、その動きはさっきよりも迷いが少なく、途中で止まることなく口まで運ばれる。


 噛む動きからほどける流れ、そして飲み込むまでが、今度は途切れずに繋がる。


 その一連の流れが繰り返される中で、少しずつ動きが整っていき、止まる時間が短くなり、噛む強さが一定になり、箸の運びも揃っていく。


 それでも完全ではなく、どこかに引っかかりが残り、その引っかかりを抱えたまま、動きだけが整っていく。


「……完全に柔らかくは、ならないんですね」


 紬樹は、小さく頷くだけだった。


 男はそのまま、もう一口食べるが、今度は噛む、止まる、また噛むという動きが一つの流れとして繋がり、そのまま飲み込むまでが自然に続く。


 少しだけ眉を寄せるが、その表情もすぐには消えず、わずかに残る。


「……なんで、こんな中途半端なんですかね」


 紬樹は、何も言わない。


 男は、もう一口食べると、今度は止まらず、そのまま噛み、ほどけ、飲み込む流れが途切れないまま続く。


 息を吐き、視線が少しだけ上がってから、また下がり、その動きと連動するように箸が動き続ける。


 迷いは消えていないが、それでも動きは止まらず、そのまま皿の中が減っていく。


 最後の一切れを持ち上げると、少しだけ見てから口に運るが、その一瞬の間は最初よりも短く、そのまま噛み、ほどけ、飲み込むまでが一つの流れとして繋がる。


 箸を置くが、すぐには立たず、少しだけ間があり、その間の中で呼吸が一度だけ深くなる。

 その呼吸に合わせるように、肩に残っていた力がわずかに下がり、その変化が遅れて全身に広がっていく。


「……ごちそうさまでした」


 声は、来たときよりも少しだけ揃っている。

 その声が出たあとも、すぐには動かず、言葉の余韻が自分の中に落ちるのを待つように、ほんの一瞬だけその場に留まる。


 立ち上がる。

 その動きは最初よりも滑らかで、無理に整えたものではなく、流れの延長で身体が動いたような自然さがある。

 肩の力は完全には抜けていないが、固まっていた状態からは外れている。


 会計を済ませる。

 その間も余計な言葉は交わさず、動作だけが静かに続いていく。


 暖簾の前で、足が止まる。

 外の空気が、少しだけ入り込む。

 その空気に触れたことで、店の中の温度との差がわずかに意識に上がるが、それを言葉にはしない。


 振り返らない。


 振り返らないまま、わずかに呼吸を整えてから、


「……また、来ます」


 それだけ言って、外に出る。

 その言葉も、決意というよりは流れの中で自然に落ちたものだった。


 扉が閉まる。


 店の中は、また静かに戻る。

 ただ、その静けさは先ほどと同じではなく、わずかに何かが通り抜けたあとの空気に変わっている。


 鍋の中には、まだわずかに熱が残っている。

 火は消えている。

 それでも、変化は止まっていない。

 その残り方は先ほどよりもわずかに穏やかで、ゆっくりと終わりに向かっている。


 紬樹はそれを一度だけ見てから、ゆっくりと片付けに戻った。

 その動きもまた、特別なものではなく、いつもと同じ手順で、ただ続いていく。

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