深く潜る
どうもはじめまして春と桜です。
初めての作品なのであたかかく見守って頂けたらなと思っています。よろしくお願いします。
圧迫しているおかげなのか、それともマルリが使い続けているキュアの効果なのか、熱感知で追っていたトーマスの腕から、先ほどまで感じていた熱の乱れが少しずつ弱まっている。少なくとも、出血の勢いは落ちてきているように思えた。完全に安心できる状態ではないが、今なら傷を詳しく確認する時間を作れるかもしれない。私はマルリの手が押さえている場所を確認しながら、次に必要なことを考えた。
「マルリ、私の目になってください。私が触れる場所を見て、傷の状態を教えてほしいのです。傷の幅、深さ、どこから血が出ているのか、それから傷の中に異物が残っていないかも確認してください。私が尋ねたことだけでなく、見ていて気づいたことがあれば、すぐに教えてください」
「私が……姫様の目に?」
「はい。お願いします」
「承知いたしました。私に分かる限り、すべてお伝えいたします」
マルリは押さえていた布を急に外すことはせず、私の指示を待った。出血している傷から圧迫を完全に解除するのは避けるべきなので、私は新しい布を用意させ、必要なときだけ短時間確認できるようにする。やがて庭師が持ってきた道具と布が揃い、私は触って形を確かめながら、使えそうなものを選んでいった。水だけで汚れを落とすのではなく、傷へ直接触れるものはできる限り清潔にする必要がある。ここに現代の滅菌器具はない。それなら、この時代でできる範囲まで感染の危険を下げるしかなかった。
「それから、針と糸のようなものはありますか?」
「裁縫用の針と糸でしたらございます」
「針は煮沸できますか?」
「はい、可能です」
「では、お願いします」
「水をお願いします。傷をこすらず、流してください。できるだけ汚れを外へ流します」
「はい」
マルリが煮沸して冷ました水を傷へ流す。私はその間、傷の縁へ触れたまま熱感知へ意識を集中させた。皮膚の裂け目から、その下に続く筋肉へ意識を沈めていくと、熱の分布が乱れている場所が浮かび上がる。まだ輪郭は曖昧だったが、意識を深く向けるほど、組織と組織の境目らしきものが少しずつ拾えるようになっていた。前世なら目の前に広がっていた術野を、今は触覚と熱、そしてマルリの視覚から組み立てていく。
「姫様、傷はかなり深いです。皮膚が大きく裂けています。その下の筋肉も傷ついていますが、完全に離れているわけではありません。出血は先ほどより減っています」
「分かりました。奥の状態は?」
「筋肉の奥に細い組織が見えます。何なのかは……私には分かりません」
「それなら触れません。分からないものを傷つける必要はありませんから」
私はすぐに判断した。熱感知でも、その細い熱の流れだけは他の組織とは違う形で感じ取れる。血管なのか、腱なのか、それ以外の組織なのか、今の私には断定できない。前世の知識があるからこそ、そこへ不用意に器具を入れる危険が分かる。必要な範囲だけを処置し、確認できない深部には手を出さない。それが今の私にできる、最も安全な選択だった。
洗浄が終わると、私は傷の周囲へ改めて指を添えた。熱感知へ意識を集中させ、今度は傷そのものではなく、その奥にある組織の位置関係を探る。もっと深く。意識を沈めるほど、ぼんやりしていた熱の境界が一瞬だけ鮮明になった。皮膚の下にある筋肉、その損傷した部分、さらに奥を走る細い構造が、ほんのわずかながら別々のものとして感じられる。
私は確かにその違いを捉えた。
この感覚を、もっと使えるようになればいい。
「マルリ、針と糸をお願いします。それから、針と鋏は煮沸してありますか?」
「はい。先ほど庭師の方が持ってきてくださったものを煮沸しております。糸はこちらです」
マルリから道具を受け取り、私は指先で一つずつ状態を確かめた。針の形や大きさは、前世で使っていた手術用のものとは比べものにならない。それでも、今この場にあるものの中から使えるものを選ぶしかない。糸も清潔な状態を保ち、使う直前まで汚れないようにしてもらう。マルリが準備をしている間、私はトーマスの腕を支えたまま、傷を閉じるための位置を頭の中で組み立てていった。
「糸を針に通してください。私には見えませんから、そこはお願いします。通したら、私の手に渡してください」
「はい。……できました。どうぞ」
手のひらへ針が置かれる。私はその細い金属を指先で確かめ、糸の張りを感じ取った。前世なら、器具を手にした瞬間には目の前の術野があった。今は暗闇しかない。けれど、長年にわたって繰り返してきた手技まで失われたわけではない。私はこれまで何度も患者の身体に触れ、何度も組織を扱い、何度も傷を閉じてきた。その経験を疑えば、今の私は何もできなくなる。
だから、信じる。
自分の技術を過信するのではなく、積み重ねてきたものを信じる。
「マルリ、私が針を入れる間、傷の縁を見ていてください。私が触れている場所と、傷がどのように寄っているかを教えてください。出血が増えたら、すぐに伝えて」
「承知しました」
私は傷の縁へ指を添えた。熱感知を深くする。皮膚の下へ意識を沈め、避けるべき細い熱の流れを探しながら、針を入れる位置を決める。必要な組織だけをすくうように、針先を進める。指先へ返ってくる抵抗と熱の境界を頼りに、慎重に針を抜いた。
「その位置で大丈夫です。傷の縁がきれいに寄っています」
「分かりました」
私は糸をゆっくり引いた。指先に伝わる張りを確かめながら、傷の縁が無理なく寄ったところで止める。結び目を作り、糸を整える。長年培ってきた手の感覚が、次に必要な動きを自然に導いてくれた。私は一針目を終えても気を緩めず、マルリに出血の変化を確認してもらいながら、トーマスの呼吸にも耳を澄ませる。
「トーマスさん、痛みはどうですか?」
「……痛いです。でも、大丈夫です」
「分かりました。無理に我慢しなくていいです。辛くなったら、すぐに言ってください」
私は次の位置へ指を移した。熱感知をもう一度深くする。さっき一瞬だけ見えたように感じた内部の輪郭を、今度は意識して探す。まだ鮮明ではない。それでも、傷の奥にある組織の位置を以前より細かく感じ取れる。マルリの声が耳元から届き、私はその情報を自分の感覚へ重ね合わせた。
暗闇の中で、傷だけが少しずつ形を持ちはじめていた。
私は針を持ち直した。二針目を入れる。マルリの声を聞きながら傷の縁を寄せ、糸を結ぶ。三針目、四針目と進むにつれて、手はすっかり落ち着いていた。熱感知へ深く意識を向けると、避けるべき場所が淡い熱の流れとして感じ取れる。私はその感覚を頼りに、必要な箇所だけを丁寧に縫い合わせていった。
「姫様、傷の縁がきれいに寄っています。出血も増えておりません」
「よかった……。もう少しだけですね」
最後の一針を終え、糸を結ぶ。マルリに傷全体を確認してもらうと、大きく開いているところはなく、出血もほとんど止まっていた。私はトーマスの手首へ指を添え、脈を確かめる。まだ弱さはあるものの、規則正しく打っている。呼吸も落ち着いていた。
「トーマスさん、終わりましたよ」
「……本当に?」
「ええ。よく頑張りましたね」
その言葉を口にすると、トーマスの手からふっと力が抜けた。ずっと痛みに耐えていたのだろう。私はその手を包むように握り、できるだけ穏やかな声で続けた。
「怖かったでしょう。痛かったですね。もう大丈夫ですよ。これから宮廷医師のところへ運びますから、今は身体を休めてください」
「……ありがとうございます、姫様」
「こちらこそ、頑張ってくれてありがとうございます。眠くなったら、眠っていいですよ」
「……はい」
トーマスは安心したように息を吐き、そのまま静かに目を閉じた。私は手首に指を添え、脈と呼吸をもう一度確かめる。眠りについたことを確認してから、そっと手を離した。
「そこの方たち、担架をお願いします。それから、腕を動かさないように運んでください。宮廷医師のところへ急いで。私の名前を使って構いません。リリアーナ・フォン・エーデルシュタインが処置をしたと伝えてください」
「はい、姫様!」
「すぐに向かいます!」
庭師たちが駆け出し、担架へトーマスを移していく。マルリも付き添い、傷を覆った布がずれないよう支えている。私は担架が動き出すまで、その場に立っていた。遠ざかっていく足音を聞きながら、どうか無事に宮廷医師のもとへ届いてほしいと願う。
やがて、庭の一角から拍手が起こった。
一つ、二つ。
それが次第に広がり、庭にいた人々が次々と手を叩き始める。私は驚いて顔を上げた。何が起きているのか分からず、その音の中に耳を澄ませる。
「姫様が……助けてくださった」
「よかった……本当によかった」
誰かの震えた声が聞こえた。
「血に塗れて、あんなに汚れているのに……まるで天使のようなお方だ……」




