第09話_笑わなくていい方
「本人が嫌だったって言ってるんだから、もうそういう言い方しないで」
相原の声が聞こえて、教室へ戻りかけた足が止まった。
放課後の廊下。少し先にいるのは、あの日、相原の隣で笑っていた女子だった。
「でも榎本くん、あの時は――」
「私も笑ってた。だから、余計に」
向こうから来た生徒が二人の横を通った。
俺は教室の後ろの入口へ向かう。呼び止められたのは、その扉に手をかけた時だった。
「榎本くん」
相原がこちらへ歩いてくる。隣にいた女子は少し離れたまま、俺の方へ頭を下げた。
俺も軽く頷く。何かを面白く返して通る気には、ならなかった。
「今、聞こえてた?」
「少し」
「この前の話、冗談だったみたいに言うの、やめてって。返事も、ほかに話さないように言った」
相原は一度、視線を落とした。
「言うの、遅くなったけど」
「うん。分かった」
俺は扉から手を離した。
ごめんね、ともう一度言われる。返事を考えているうちに、教室の中で椅子を引く音がした。
「訂正してくれたのは、ありがとう」
そこまで言うと、相原が顔を上げた。
俺はその顔を見てから、教室へ入った。前みたいに話そうという話にはならなかったし、俺から始めることもしなかった。
鞄を取って廊下へ出る頃には、二人はいなくなっていた。
窓の外には、部活へ向かう生徒が見える。結人も先に行ったらしい。
俺はスマホの連絡を一つ確認し、昇降口へ向かった。
靴箱の前で、三輪が上履きをしまっていた。
「榎本。今帰り?」
「うん」
「じゃあ、途中まで」
並んで校門を出る。
学校から家へ帰る道で二人になるのは初めてだった。店から帰る時とは別の角で曲がり、普段は見ない側から彼女の通る道へ入る。
「明日のバイト、私たち一時からだよね」
「うん」
「午前中、家の用事頼まれて。十二時に出れば間に合うんだけど」
「そうなんだ」
三輪が俺の方を見た。
言いかけていた続きが途切れる。俺は自分の返事を思い返し、鞄を掛け直した。
「ごめん、聞いてる」
「うん。何かあった?」
角を曲がるまで、少し考えた。
何でもないと答えても、彼女はそれ以上聞かないのかもしれない。けれど、ついさっきまで別のことを考えていたのは確かだった。
「先週、嘘告されてさ」
三輪の歩く速さが少し落ちた。
「嘘の告白、ってこと?」
「うん。告白できるかって、友達とそういう話になったらしい」
俺も歩調を緩める。
道路の向こうで、自転車を押した人が店に入っていった。
「俺は本気にして、日曜に遊びに行こうって返した。そしたら笑われて、嘘だって」
三輪は前を向いたまま聞いていた。
「俺もその時は笑って返したんだけど。面白い話で終わらせたくなくて。次の日、そう言った」
「うん」
「さっき、その子が、一緒に見てた人にも言ってくれてた。冗談だったみたいに言うのやめてって」
相原の名前は出さなかった。
聞かれもしなかった。三輪は少し唇を結んでから、俺を見る。
「それ、聞いたあとだったんだ」
「うん。返事、雑になってた。ごめん」
「それはいいけど」
彼女はそこで言葉を切った。
俺は足元へ視線を落とし、また上げる。
三輪が鞄の紐を握り直した。
「私、日曜は行きたいよ」
俺を見る顔が、まっすぐだった。
「誘ったのは、その話を知らない時だけど。知っても、別に、行きたいのは変わらない」
「うん」
「……榎本は?」
プリンを見て迷っていた時の、三輪の返事を思い出した。
どこを見ているのかと聞かれて、俺も彼女の見ている物を聞いた。まだ画面でしか見ていないあの店で、実際に向かいに座ったら、何を話すだろう。
「俺も行きたい。楽しみにしてる」
彼女の顔を見て言った。
三輪は頷いた。俺から目を離す前に、口元が緩む。俺も、彼女が歩き出すまで顔を前へ戻せなかった。
次の角まで、二人で並んで歩いた。日曜、時計の下で待つなら、何分前に着こうか。
「俺、少し早めに行くと思う」
「うん。朝、寝坊しないでね」
「それは三輪もだろ」
「私は起きる」
言い切ったあと、彼女は少し考えた。
「目覚まし、二つかけるし」
「一つだと起きない?」
「一つ目で起きて、二つ目で布団から出る」
俺は笑った。いつも決めるのが早い人の、起きるのと立つのは別の話らしい。
俺も休日は起きてからスマホを見てしまうと話すと、それなら二つ目が必要だと返ってきた。
分かれ道で手を上げる。
三輪も手を上げ、また明日、と言った。
家へ帰ってから、日曜のアラームを一つ増やした。
二つの時刻が五分違いで並ぶ。十時に目が覚めても間に合うのだけれど、少し早く起きておきたかった。




