第8話 愛と悲しみのスケルトン
朝、俺は鏡の前に立って、自分の胸を見た。
左側の、一本分の空白。
五日前の朝から、何も変わっていない。これからも、このままなら変わらない。
でも、今日は違う。
今日、俺は肋骨を返してもらいに行く。
昨日の夜。コボルトさん、とタコ男が言ったあと、俺はしばらく何も言えなかった。川辺がすっかり暗くなってから、ようやく出てきたのは、自分でも驚くほど普通の声だった。
「……明日、返してもらいに行く」
タコ男は、青い顔のまま頷いた。
「……俺も行く。俺がやったんだから」
それだけ言って、俺たちは別れた。
言うべきことは、決まっている。
「それ、俺の肋骨なんです」
鏡に向かって、小さく言ってみる。
コボルトさんは優しい人だ。事情を話せば、きっと返してくれる。驚いて、申し訳なさそうな顔をして、すぐに返してくれる。
それで終わる。
肋骨は戻ってくる。一本も欠けていない、全部揃った俺に戻れる。
そして、明日。
壁の予定表を見た。小さな丸が、明日の欄に付いている。
明日、今度こそ、俺はコボルトさんに言う。
好きです、と。
「コ、コボルトさん。前から、その……」
駄目だった。
やっぱり恥ずかしい。頭蓋骨の内側が熱くなって、俺は両手で顔を覆った。顎がカタカタ鳴る。一週間前と、何も変わっていない。
でも今日は、すぐに手を下ろした。
顔を上げる。鏡の中の自分を見る。
「……よし」
◇
待ち合わせ場所の橋のたもとに、タコ男はもう来ていた。
来ていたが、しおれていた。
何本もある足が、一本残らず、ぐんにゃりと地面に垂れている。目の下には、くっきりと隈ができていた。
「……眠れなかった」
「見れば分かる」
俺たちは並んで歩き出した。
会話はない。気まずい。昨日、あれだけのことがあった相手と、朝から並んで歩いているのだから当然だ。
広場へ向かう道の途中で、タコ男がぼそりと言った。
「……俺が、説明した方がいいよな」
「…………」
「俺がやったんだし……」
しばらく歩く。
「……言えるかな……」
タコ男の足が、さらに一段しおれた。
「言って」
俺は短く言った。
タコ男は、うう、と小さく唸った。
それきり、また二人とも黙った。仲直りをしたわけじゃない。許したわけでもない。ただ、同じ場所へ向かう用事があるから、並んで歩いているだけだ。
広場の入り口が見えてきた。
◇
朝の広場は、ほどよく賑わっていた。
噴水のそばのベンチに、コボルトさんがいた。
すぐに分かった。どんなに遠くからでも、あの耳と、あの尻尾は分かる。
コボルトさんは、両手で何かを持っていた。
白くて、細長くて、少しだけ曲がったもの。
尻尾が、ぶんぶん揺れている。
俺は、足を止めた。
まだ遠い。ここからでは、ただの白い骨にしか見えない。どこにでもある、骨。
一歩、踏み出した。
まだ、分からない。
また一歩。
噴水の水音が近づいてくる。
もう一歩。
――その瞬間だった。
ふっと、何かが胸の奥に触れた。
懐かしいような。くすぐったいような。自分の身体の中にずっとあったものが、外から呼びかけてくるような。
俺自身の、オーラ。
間違いない。
あれだ。
コボルトさんが両手で持っている、あの白い骨。
俺の肋骨だ。
六日ぶりの、俺の一部だった。
◇
コボルトさんが、顔を上げた。
俺を見つけて、ぱっと表情が明るくなる。
「スケルトンさん!」
いつもの笑顔だった。いつもの、明るい声だった。
俺の骨が、反射的に、嬉しい、と鳴った。こんな時なのに。
「おはようございます!」
「お、おはよう、ございます」
「あ、タコ男さんも! おはようございます!」
「お、おう……」
タコ男が、か細い声で返事をした。
コボルトさんは、待ちきれないという様子で、手に持っていたものを掲げた。
「見てください!」
俺の肋骨が、朝日の中にかざされた。
「昨日、タコ男さんにもらったんですよ!」
「…………」
俺は、何も言えなかった。
コボルトさんは、肋骨をうっとりと眺めた。
「すっごく良い骨なんです!」
「…………」
「形もいいし」
「…………」
「硬さもちょうどいいし」
「…………」
「匂いも!」
俺の肋骨が、絶賛されている。
好きな人に。
目の前で。
形と、硬さと、匂いを。
◇
コボルトさんは、肋骨を口元へ持っていった。
そして、しゃぶった。
ちゅぱ、と小さな音がした。
それから、かじった。
かじかじかじ、と嬉しそうに歯を立てる。尻尾が、さっきよりもっと激しく揺れている。
両手で大事そうに抱え直して、頬ずりまでした。
「えへへ……」
俺は。
自分の身体の一部を。
片思いしている相手が。
至近距離で。
心底嬉しそうに、しゃぶっている。
生まれてから今日まで、一度も経験したことのない状況だった。たぶん、この世界の誰も経験したことがない。
俺の顎が、音もなく、ゆっくりと開いた。
開いたまま、閉じなかった。
横で、タコ男が身じろぎした。
最初は、申し訳なさそうな顔をしていた。俺のほうをちらちら見て、足をもじもじさせて、いつ切り出そうかと迷っているようだった。
でも、タコ男はコボルトさんを見た。
揺れる尻尾を見た。
とろけるような笑顔を見た。
大事そうに抱えられた、骨を見た。
タコ男の顔が、少しずつ、緩んでいった。
しおれていた足が、一本、また一本と、ふわりと持ち上がる。青かった顔に、ほんのりと赤みが差していく。
自分の贈ったものが、こんなに喜ばれている。
タコ男の顔には、それしか書いていなかった。
やっぱり、嬉しいのだ。どうしようもなく。
◇
「コボルトさん」
俺は、口を開いた。
「はい?」
コボルトさんが、こちらを見た。
「それ……」
コボルトさんが、小さく首を傾げた。耳がぴこっと動いた。
嬉しそうな顔のまま。俺の肋骨を、両手で胸に抱えたまま。
横で、タコ男の身体がこわばった。
言えば、終わる。
それは、俺の肋骨です。返してください。
それだけ言えばいい。
コボルトさんは、きっと目を丸くする。
「えっ!? これ、スケルトンさんのだったんですか!?」
って。
それから慌てて、すぐに返してくれる。ごめんなさい、知らなくて、と何度も謝りながら。コボルトさんは、そういう人だ。
タコ男も謝る。さっきまでの青い顔に戻って、何本もの足を全部下げて。
肋骨は戻ってくる。
永久に欠けたままのはずだった胸が、元に戻る。
骨が全部揃った、本来の俺に戻れる。
全部、分かっている。
分かっている。
それでも。
コボルトさんが、本当に嬉しそうだった。
尻尾を振って、目をきらきらさせて、俺の肋骨を抱えて。今まで見たどの笑顔よりも、嬉しそうだった。
タコ男も、本当に嬉しそうだった。
自分の贈ったものを好きな人が喜んでいる。それだけで、世界中の幸せを全部もらったみたいな顔をしていた。
俺が今、一言言えば。
その二つの顔が、両方、消える。
◇
「……良い骨、ですね」
俺の口から出たのは、それだった。
タコ男が、ばっと俺を見た。
驚いた顔をしていた。何か言おうとして、口を開きかけた。
俺は、そっちを見なかった。
「ですよね!」
コボルトさんが、満面の笑みで頷いた。
「スケルトンさんも分かってくれるなんて、嬉しいです!」
そして、また嬉しそうに、肋骨を見つめた。
俺の肋骨を。
――ああ。
俺は、静かに思った。
もう、取り戻さない。
この骨は、もう俺の胸には戻らない。俺が、戻さない。
それから、もう一つ。
壁の予定表の、小さな丸。
明日。
明日の告白も、もう、しない。
理由は、うまく言えなかった。言えないまま、それだけが、すとんと胸の空白に落ちてきた。
◇
「あっ」
コボルトさんが、広場の向こうを見て声を上げた。
俺もつられてそっちを見た。
鎧姿が、通りの向こうから歩いてくる。小脇に、自分の頭を抱えて。
デュラハンさんだった。護衛の依頼から戻ってきたところらしい。たまたま広場を通りかかっただけで、俺たちがここにいることも、何があったのかも知らない。
コボルトさんの顔が、さらに明るくなった。
さっきまでよりも、もっと。
「デュラハンさん!」
コボルトさんは、ベンチから立ち上がった。
俺の肋骨を抱えたまま、走り出した。
「見てください! 良い骨もらったんです!」
デュラハンさんが足を止めた。小脇に抱えた頭が、差し出された骨を見下ろす。
「へえ」
デュラハンさんは、少しだけ骨を眺めた。
「いい骨だな」
気づかない。
それが誰の骨なのか、デュラハンさんはまったく気づいていなかった。首ごと取れる種族にとって、骨一本はそこまで特別なものじゃないのだ。それに、まさか友人の肋骨が、目の前で犬系の女の子にしゃぶられているなんて、誰も思わない。
「ですよね! デュラハンさんにそう言ってもらえるなんて!」
コボルトさんの尻尾が、今日一番の勢いで揺れた。
俺は、少し離れた場所で、静かに崩れそうになっていた。骨が一本ずつ、ばらばらと地面に落ちていきそうだった。落ちなかったけど。
◇
「コ、コボルトさーん!」
隣で、タコ男が走り出した。
何本もの足をばたばたさせて、コボルトさんの後を追いかけていく。
「コボルトさーん! その骨、それ、俺が、俺があげた――」
コボルトさんは、デュラハンさんのほうを向いたまま、振り返らなかった。
楽しそうに、デュラハンさんに骨の話をしている。形がいいんです、硬さがちょうどいいんです、匂いも、と。
タコ男の声は、届いていなかった。
タコ男は、それでも追いかけていった。
◇
三人が、遠ざかっていく。
デュラハンさんと、その隣で嬉しそうに話しかけるコボルトさん。その少し後ろを、足をばたつかせながら追いかけるタコ男。
コボルトさんの腕の中には、白い骨。
俺の肋骨。
俺だけが、広場に残った。
噴水の音が聞こえる。
俺は、あの人と一緒には行かない。行けない。最初から、そういう話じゃなかった。
なのに。
俺の一部だけが、好きな人の腕に抱かれて、行ってしまう。
俺は、胸の空白に手を当てた。
風が、通った。
五日前の朝、街道の草地で感じたのと同じ風だった。
遠くのほうから、ゴブリンの声が、小さく聞こえてきた。
「号外! 号外! 連続骨盗難事件、いまだ解決せず!」
解決したよ、と思った。
解決して、何も戻らなかったよ。
遠ざかるコボルトさんの手の中で、白い骨が陽を受けていた。
骨は全部揃って、俺だった。
その一本が、好きな人と一緒に行く。
俺は、ここに残る。
胸の隙間を、風が抜けた。
俺は、小さく息を吐いた。
「……まあ、いいか」
少しだけ、間があった。
あんなに、嬉しそうだったし。
明日は、何の予定もない日になった。
後日。
ギルドではたびたび、胸に木の枝を一本差しているスケルトンの姿が目撃されるようになった。
時には枯れ枝。
時には青々とした枝。
そして、ある時は――
バラだった。
(了)
スケルトンです。
本日、私の物語はたぶん完結しました。
骨の件は……まあ、いろいろありました。
ところで、『妄想の歌姫を紹介しろと迫られても困る』という新しい連載物語が始まりました。
歌姫さんは、骨が全部揃っているのでしょうか。
少し羨ましいです。




