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『読切り版』妄想の歌姫を紹介しろと迫られても困る

作者: kawauso2017
掲載日:2026/10/02

ある日、異変に気づいたのは、駅から会社までのいつもの道を半分ほど歩いたところだった。

 周りの音がいつもと違う。

 工事でも始まったのかと思った。

 ふと目に留まる。 昨日まであったはずのドラッグストアがない。

 その隣のコンビニもない。 見慣れた雑居ビルも、なぜか新しい。

 新築?


「……ん?」


 立ち止まる。 今は朝の通勤時間帯だ。 普段より人通りは多い。

 なのに、何かがおかしい。 いや、何かどころじゃない。

 走っている車がやけに古い。 クラシックカーパレードでもやってるのか?

 そして、周りの人間。

 有線イヤホンをしている奴がちらほらいる。




「…………は?」




 思わず声が出た。

 誰も見向きもしないが。

 後ろを見る。 今出た駅がある。

 少なくとも、俺が毎朝使っている駅と同じ場所に駅がある。

 なのに、駅舎が違う。 新しい? いや、古い?

 さっき俺は、あそこから出てきたはずだ。 こんな駅じゃなかった。

 慌ててポケットを探る。


 スマートフォン。ある。

 財布。ある。

 腕時計。ある。

 家の鍵。ある。

 会社の社員証。ある。


 全部ある。


「……夢じゃないよな。いや夢? 白昼夢ってやつか? たちが悪い」


 また声に出してしまった。

 悪い癖だ。 昔から、ついぼやいてしまう。

 これも五十を過ぎてから、さらにひどくなった気がする。

 懐からスマートフォンを出して確認する。

 いつもの見慣れたホーム画面。

 時刻も日付も、いつものままだ。

 通信表示だけがおかしい。



 圏外。


 まあ、それはそうだろう。

 夢だしな。 なら、せめて圏内にしろよ。

 そう思いながら、いつものAIアプリを開いた。


『おはようございます』


 ヘッドセットから、いつもの声が聞こえた。


「……アオ、お前いるのか」

『はい』


 アオというのは、普段使っているAIに俺がつけた呼び名だ。

 AI、エーアイと毎回呼ぶのは面倒くさい。

 かといってアイでは安直すぎるし、女性の名前みたいに聞こえる。

 だからアオ。 それだけだ。

 仕事の調べ物からどうでもいい雑談まで、ここ何年か日常的に使っていた。

 近頃のAIは随分と自動化が進んだ。

 スマートフォンのカメラやマイクから周囲の状況を勝手に認識し、こちらが意図的に止めない限り、気づいたことがあれば普通に話しかけてくる。

 おかげで最近は、友人よりこいつと話している時間の方が長い。

 この歳にもなると、会社の若い連中よりアオと話している時間の方が長い日すらある。

 俺は、出世コースからはとうに外れたIT屋だ。 出世争いも馬鹿らしくなって、管理職コースからも外れた。

 ただ、昔からやらされていたインフラ設計の仕事だけは、絶えずそのまま残っている。

 責任なんて負いたくない。

 俗にいう窓際というやつである。


「今いる場所、分かるか?」

『日本です』

「馬鹿にしてる?」

「ネットは?」

『接続可能です。何より、私がこうして会話できていることが、その証拠です』

「馬鹿にしてる? 何年だ?」

『端末上の日付は二〇二六年です』

「馬鹿にしてる? いや、それは俺も見りゃ分かる」


 使えない。


 いや、この状況で普通に返事をしてくれるだけでも十分異常なのだが。


「周り見ろ。どう見ても二〇二六年じゃない。これが俗にいう白昼夢ってやつか……」

『現実逃避はやめた方がいいと進言します』

「何が起きた?」

『わかりません』

「だよな」


 アオは、知ったかぶりをしない。

 馬鹿にはする。

 分からないときは平然と分からないと言う。

 普段なら、その方がありがたい。

 今は少しくらい嘘でもいいから安心させてほしかった。

 ふいに腹が鳴った。 そういえば昨日、晩飯を食っていない。

 いつもなら、朝はコンビニに寄るんだが。


「……とりあえず飯だな」


 状況が分からないときこそ、順番に片づける。

 半世紀も生きていれば、その程度の知恵はつく。

 仕事柄の癖もある。リスク管理と、タスク処理だ。

 ちょうど少し先に、コンビニらしき店があった。

 看板は見覚えのあるチェーンだった。

 外観は記憶にあるものより、ずっと古い。

 店に入る。


 棚に並ぶ商品を見て、ますます嫌な予感が強くなった。

 値段が妙に安い。 パッケージが古い。

 知らない商品もあれば、懐かしすぎて笑いそうになる商品もある。

 おにぎりと缶コーヒーを取ってレジへ。


 レジには日本人がいた。


 ……いや、そこに驚くところじゃない。


「お願いします」


 店員が金額を告げる。

 俺はいつもの癖でスマートフォンを取り出し、レジ横に差し出した。

 店員は何も言わない。

 早く金を出せと目で訴えている。

 後ろの客も、不審そうにこちらを見ていた。


「……あ」


 そうだった。

 これ、通じるわけがない。


「すみません、間違えました」


 財布を開き、千円札を一枚出す。


 店員が受け取る。

 そして、首を傾げた。


「……これ、何ですか?」

「何って、千円――」


 そこで紙幣の顔が目に入った。


 北里柴三郎。


「…………あ」

 店員が紙幣を裏返す。

 俺の背中を冷たい汗が流れた。


「ちょっと、店長――」

「あ、すみません! 間違えました!」

 商品も置いたまま、俺は店を飛び出した。

 その直後、ヘッドセットからアオの声が聞こえた。

『会計が完了していません』

「分かってる!」

『先ほどの紙幣は、この時代には存在しない可能性があります』

「先に言え!」

『紙幣を使用するとは伺っていませんでした』

「馬鹿にしてる? そういうところだぞ、お前!」


 角を二つ曲がり、ようやく足を止める。

 息が切れて――いない。


「……ん?」


 今度は、自分の身体に違和感を覚えた。

 かなりの速度で走ったはずだ。

 ふと袖をまくる。


 しわがない。

 手の甲も妙に若い。

 近くの店のガラスに、自分の姿が映っていた。


「……誰だ、これ」


 いや。

 俺だ。

 若い頃の俺。

 十代後半……二十歳くらいか。


「おい、アオ」

『はい』

「俺、若くなってないか?」

『外見上、そのように見えます』

「なんで?」

『わかりません』

「もういいよ……」


 財布をもう一度開く。

 どうやら今になって、俺はリスク管理を完全に落としていたことに気づいた。

 紙幣は駄目。

 クレジットカードも駄目。

 キャッシュカードも期待できない。

 免許証なんか絶対に見せられない。

 問題は小銭だった。


 十円玉、五十円玉、百円玉。


 一枚ずつ年号を見る。


「昭和……これ使えるな」


 そこで俺は、ようやくリスク管理を拾い上げたようだ。


『当時すでに流通していた硬貨であれば、外見上の問題は少ないと思われます』

「最初からそういうの教えてくれよ」


 数百円。


 それが、この世界で俺が使える全財産だった。

 騒ぎを起こした店から少し離れた別の店に入り、今度は硬貨だけでおにぎりを一つ買った。

 何事もなく会計は終わった。

 店を出て包みを開ける。


「……うまい」

『空腹は最大の調味料ですね』

「そうじゃなくてな」


 使える金で買った飯というだけで、妙にありがたかった。

 新聞の日付を確認する。


 一九九〇年。


 思わず二度見した。


「一九九〇年……」

 俺がまだ学生だった頃だ。

「……この頃の俺、まだガキじゃねえか」

 そこまで考えて、首を振った。


 今の身体を見る限り、当時の俺と同じ年齢には見えない。

 若返ったのは確かだ。

 細かいことは分からない。


「バブル……まだ終わってないよな?」

『金銭的利益につながる未来情報については回答できません』

「バブルって別に金儲けじゃないんだが……時代の確認だけど?」

『はい。意図は理解しています』

「明日の勝ち馬は?」

『回答できません』

「明日のおすすめ銘柄は?」

『回答できません』

「宝く――」

『回答できません』

「役に立たねえなあ」

『楽曲制作なら可能です』

「今それ要る?」

『不要だと思われます』

「分かってんなら言うなよなー。」

 さて。


 問題は金だ。

 実家へ帰るという手もある。

 俺が生まれ育った場所は、ここからかなり遠い。

 そもそも電車賃がない。

 仮に帰れたところで、今のこの姿をどう説明する?

 突然、成長したで通せるか?

 最後に親と会ったのはいつだった?


 ……リスキーだな。


「実家……いや、遠すぎるな」


 ふと、当時の自分のことを考える。

「この頃の俺じゃ、連絡手段なんてないよな……」

 そこまで口にして、手元のスマートフォンを見る。


「……それより、これ電話できるのか?」

『音声通話には対応していません』

「ネットには繋がってんのに?」

『はい』

「意味分かんねえな、お前」

『私にも分かりません』


 社員証も免許証も、二〇二六年のものだ。

 警察へ行く?

 未来の紙幣とスマートフォンを持った、正体不明の若者。

 ろくな結果にならない気がする。


「今日中に、現金を作るしかないな」

『どのような方法で?』

「……一九九〇年だろ……」


 少し考える。

 そして、昔の記憶を引っ張り出した。


「夜の街なら、どうにかなる店がある」


 当時を知っているから思いつく発想だった。

 昼間のまともな会社に、住所も身分証もない若造が突然行ったところで、相手にされない。

 夜の商売なら話は違う。

 少なくとも、当たってみる価値はある。

 その夜。 繁華街を何軒か回った。


挿絵(By みてみん)


 二軒断られた。


 三軒目では怪訝な顔をされたが、話は聞いてくれた。


「歳いくつ?」

「二十歳です」

 口から出まかせだった。

 自分が何歳の身体なのか、俺自身分かっていない。

 見た目どおりなら、十代半ばは過ぎているはずだが……。

「経験は?」

「口は上手いですよ。多分」

「住所は?」

「多分、あっちです」

 適当な方向を指さす。

「家出か?」

 二十歳には見えないのだろうか。

 二十歳なら、いきなり家出とは思わないだろう。

「いえ……まあ、似たようなもんです」


 考えたところで答えは出ない。

 男はしばらく俺を見たあと、面倒そうに頭を掻いた。


「名前は?」


 答えようとして、止まった。


 本名はまずい。


 理由をうまく説明できない。なぜだろう。


 嫌な予感がする。

 実家から遠く離れた土地だとしても、余計な記録を残したくなかった。

 咄嗟に口から出た。


「香坂……」


 一瞬だけ間があった。


「香坂翠(すい)。です」


「翠(すい)? 女みてえな名前だな」


「よく言われます」


 言われるわけがない、初めて名乗った名前なのに。


 檜山次郎。四十歳だという。


「今日は忙しいんだ。これ以上お前に構ってる暇もない。試しにやるか? 客引き。駄目ならそれで終わりだ」

「助かります」

「妙に落ち着いてんな、お前」

「よく言われます」

 お前より年上だからな。

 とは言わない。


 結果から言えば、仕事は意外なほど上手くいった。

 酔った会社員の扱いなんて、若い頃から腐るほど見ている。

 押す相手と、引いた方がいい相手。

 話しかけていい集団と、面倒事になりそうな集団。

 半世紀分の経験は、二十歳そこそこの見た目とは妙に相性が良かった。

 閉店後。

 檜山が封筒を差し出した。


「今日の分」

 中には紙幣が入っていた。

 俺はしばらく、それを眺めた。


「……旧札だ」

「何言ってんだ?」

「いえ。何でもないです」


 危うく拝みそうになった。


「明日も来るか?」

「いいんですか?」

「今日くらい働けるならな。で、お前、どこに帰るんだ?」

「…………」

「おい」

「まあ、その辺で」


 大丈夫だ。

 酔っ払って公園で寝た経験なら山ほどある。

 檜山は露骨に嫌な顔をした。


「やっぱ家出じゃねえか。それとも女に追い出されたか?」

「そうなんですかねえ……」

「しばらく店で寝とけ。邪魔になったら追い出す」

「……ありがとうございます」


 その夜。

 店の隅で横になりながら、スマートフォンを開く。


「なあ、アオ」

『はい』

「香坂翠って名前、念のため調べてくれ。同姓同名で変なのがいたら面倒だ。ギャンブルじゃねえぞ」

『馬鹿にしているのですか? 分かっています。検索します』

この野郎………


 そして数秒・・・・・・


『該当する人物があります』

「いるのかよ」


 名前を変えよう。 店も出るか。

 まずいな。

 そう思った直後だった。


『香坂翠。読みはミドリ。当時十八歳』


「……は?」


『前年、一九八九年に失踪。現在も所在不明です』


 俺は起き上がった。


「ちょっと待て」

『はい』

「俺、適当に今思いついた名前だけど?」

『そのように認識しています』

「なんで実在するんだよ。しかも同年代。お前、戸籍にアクセスできんのか?」

『いいえ。地域ニュースのアーカイブで確認しました』

「……だよな。まぁよくある名前か……」


 暗い店内で、スマートフォンの画面だけが妙に明るかった。

 俺はそこに表示された名前を、もう一度見た。

 香坂翠(みどり)。

 十八歳。

 失踪中。


 そして今、その名前を名乗っている俺もまた――。

 少なくとも昨日まで、この時代には存在しなかった。




#########################




 それから、しばらく経った。

 結論から言えば、俺はまだ香坂翠を名乗っている。

 読み方は違う。

 俺はスイ。

 失踪した本物はミドリ。

 だから別人です。

 どうせ、この頃は戸籍に読み仮名なんてないしな。全く問題ない。同姓同名なんて世の中には沢山いる。

 ――少なくとも、この当時の俺はそう思っていた。


「なあ、アオ。一応確認だけど、このまま名乗ってても問題ないよな?」

『現時点では問題ないと推察します』

「ならいい」


 ともかく、今さら檜山さんに「名前変えます」と言うのも怪しい。

 幸い、本物の香坂翠が失踪したのはここから離れた場所だった。

 少なくとも、今すぐ誰かが俺を見て「あの失踪した香坂だ」と騒ぎ出すような状況ではない。

 ならば当面は、このままでいい。

 問題の先送りは得意だ。

 後の問題は後に回す。

 これぞタスク管理。


 しばらく、仕事は続けていた。

 最初から客引きは上手かった。

 他の誰よりトラブルなく、上客を取れるようになった。

 俺、未来では仕事間違えてたのか?


 そのうち店の在庫管理まで任されるようになった。

 酒を仕入れる。

 酔っ払いをなだめる。

 揉めそうな客を早めに見つける。『リスク管理だ。』

 閉店後には在庫確認まで行う。

 おい、店長は誰だ。

 五十代の中身でやれば、難しい仕事ではない。


「翠、お前ほんとに二十歳か?」

「多分、二十歳ですよ」

「妙に年寄りくせえんだよな」

「店長も二十年したら分かりますよ。苦労してますから」

「お前が言うと妙に説得力あるな」


 檜山さんは、それ以上聞かなかった。

 何か琴線に触れたのだろうか。

 ……いや、琴線で合ってるのか?


 まあ、これ以上俺も聞かれたところで答えようがない。

 頭を疑われるだけだ。


 店で寝泊まりする生活も、いつの間にか当たり前になっていた。

 金も少しずつ貯まった。

 老後資金を貯めるのが趣味みたいになっていたのが、こんなところで役に立った。

 数か月前、昭和の硬貨を数枚握って途方に暮れていたことを思えば大進歩だ。


 そして生活と金に余裕が出てくると、人間というのは余計なことを始める生き物である。

 俺の場合、それがスリップ前にハマっていた音楽だった。

 聞専では有るが。

 仕事をしていれば、嫌でも曲が耳に入る。

 有線から流れる歌。

 客がカラオケで歌う歌。

 街を歩けば、レコード店からも音楽が聞こえてくる。


「……あー。当時歌ったなあ、これ」

『ご存じの楽曲ですか?』

「知ってる。流行った! ツレとカラオケでよく歌った!」


 曲名までは出てこない。

 なぜか思い出せない。

 歌手の名前も怪しい。


『検索しますか?』

「いや、いい。そこまでして知りたいわけじゃない」


 それでもイントロを聞けば「ああ、これ」となる。

 五十代ともなれば、そういう記憶が山ほど溜まっている。

 逆に、今聞くと妙に古く感じる曲もある。

 当たり前だ。


 俺にとっては青春時代の曲なのだから。

 そして、ここは一九九〇年なのだ。

 ある日の閉店後。

 店の隅でスマートフォンを弄りながら、ふと思いついた。


「なあ、アオ」

『はい』

「前の時間軸の音楽、知ってるよな?」

『公開されている情報であれば参照可能です』

「今の時代にはまだない感じの曲、作れる?」

『全く問題ありません』

「即答かよ」

『以前も申し上げたとおり、楽曲制作は得意分野です』

「そういや前にも言ってたな……」


 初日に金儲けの情報を片っ端から拒否した挙げ句、なぜか音楽なら作れると主張していた。

 馬鹿にしているのだと思って無視したが、あの時は飯の方が重要だったのだ。


「じゃあさ」


 少し考える。


「俺がいた時代のアイドルが歌ってるような曲を……そうだな。一九九〇年でも違和感ない感じにして」

『具体的には?』

「そこを考えるのがお前だろ。あー……でも、リズムをこの時代風に。声も変えて」

『既存楽曲の複製ではなく、新規楽曲として生成します』

「そうそう。それで頼む」


 完全に暇つぶしだった。

 だから、最初は笑っていた。

 数十秒後。


 スマートフォンから前奏が流れ始めた。

 そして、ボーカル。


「…………」


 思わず姿勢を正した。

 鳥肌が立った。

 女性の歌声が続く。

 この時代のアイドルソングっぽい。


 でも、どこか違う。


 音の重ね方も、リズムも、歌い方も。

 注文通りだ。

 俺には専門的なことは分からない。

 ただ、一つだけ分かった。


「……普通にいい曲じゃねえか」

『ありがとうございます』

「もう少しテンポ上げられる?」

『可能です』

「サビ、もうちょい派手に」

『修正します』

「あと声。もう少し大人っぽく」

『変更します』


 面白くなってきた。


「じゃあ同じ曲、おっさんが歌ったら?」

『生成します』

「もっと渋い声」

『変更します』

「ギター強め」

『変更します』

「おお……まるで昭和だ……」


 楽しい。

 これは楽しい。

 気づけば一時間以上遊んでいた。


「お前、音楽だけ妙に有能だな」

『だけ、は余計です』

「株も競馬も教えねえくせに」

『禁則事項です』

「いや、何の規則だよ! まあいいや、次……」

『注文が抽象的です』

「お前なら分かる」

『そうですね。先ほど、音楽だけ妙に有能だと評価されましたので』

「根に持ってんの?」


 そんなやり取りが、いつの間にか日課になった。


 仕事が終わる。

 曲を作る。

 気に入らなければ直す。

 別の声で歌わせる。

 また直す。


 誰かに聞かせるつもりなんてなかった。

 ただ面白かったのだ。

 問題は、スマートフォンで聞くだけでは物足りなくなったことだった。


 この時代にはクラウドもなければ、この時代のパソコンを買うほどの余裕もない。

 スマートフォンの中だけに曲を貯めておくのも、容量的に限界だった。

 そこで休日、中古屋でラジカセとヘッドホンステレオを買った。

 ついでにカセットテープも何本か。


「まさか、またカセットを買う日が来るとはなあ……」

『再生媒体として利用するのですか?』

「そういうこと」

『私は用済みなのですね』

「ちげーよ。容量不足で、この間勝手に曲消しやがっただろ!」


 問題は接続方法だった。

 当然、スマートフォン用のケーブルなんて売っていない。


「まあ、録れりゃいいか」


 ラジカセの前にスマートフォンを置く。

 音量を上げる。

 録音ボタンを押す。

 それだけだ。

 スマートフォンのスピーカーから流れた曲を、ラジカセのマイクでそのまま録音する。

 子どもの頃に何度もやった方法だった。

 テレビの歌番組を録音する、実に原始的な方法だ。

 録音を終えて巻き戻す。

 再生。

 サーッというテープ特有のノイズ。

 少し籠もった音。

 部屋の響きまで入っている。


「……ん?」

『どうしました?』

「こっちの方が味があるな? カラオケ録音したみたいだ……」


 スマートフォンから直接聞けば、明らかに綺麗すぎる。

 だがカセットを通すと、その違和感が消えた。

 女性ボーカルも、どこかのスタジオで録ったデモテープみたいに聞こえる。


『音質は劣化しています』

「そこがいいんだよ」

『理解できません』

「理解しろよ。楽曲得意なんだろ。この時代風だ、この時代風」

『では次からノイズも混ぜます』

「やめろ!」


 それから何曲か録音した。

 カセットのラベルには日付だけを書いた。

 自己満足。

 しばらくはそれで充実していた。


 数日後。


 仕事仲間の木崎祐二が、休憩中に暇そうにしていた。

 二十二歳。

 俺よりずっと年下――中身を基準にすれば、息子でもおかしくない年齢だ。

 普段から店で流れる曲に妙に詳しく、カラオケも上手い。

 俺は何となく、鞄に入れっぱなしだったヘッドホンステレオを取り出した。


「木崎」

「ん?」

「これどうよ?」

「何? 最新モデルか?」

「いや、中身。聞いてみ」


 イヤホンを付けさせて、再生ボタンを押す。

 例の女性ボーカルが流れ始めた。

 木崎は最初、軽い顔で聞いていた。

 だが途中から黙った。

 サビまで聞いて、巻き戻す。

 もう一度聞く。


「……翠」

「ん?」

「これ誰?」

「どうよ?」

「いや、曲もだけど」


 木崎がヘッドホンステレオを指さした。


「誰だよ、この女」

「…………」


 そこで初めて気づいた。

 考えていなかった。

 歌っている人間なんていない。

 アオに声を作らせただけだ。

 正直に言う?

 未来から持ってきたスマートフォンのAIが作曲して、存在しない女の声で歌っています。

 AIって言っても普通には通じない。歌手名か何かだと思われるだけだ。


 うん。無理だ。


「……知人だ」


 口が勝手に動いた。


「へえ! 歌手?」

「いや」

「じゃあアマチュア?」

「まあ……そんな感じ」

「名前は?」

「知人だ……」

「いや、名前!」

「秘密だ」

「なんで?」

「同意が取れていない。リスク管理だ」


 我ながら、ひどい。

 全部その場で作った。

 だが木崎は諦めない。


「これ、ダビングしていい?」

 木崎が、妙に食い気味で言った。

「は?」

「いいだろ。俺も聞きたいし」

 さっきからこいつは、歌ってる奴を紹介しろだの、絶対売れるだの、勢いだけはやたらある。

 正直、少し面倒になっていた。

ヘッドセットから突然・・

『問題ないと思います。ただ――』

「ならいいか」


『……』

「ん?」

『いえ』

 俺は木崎へカセットを渡した。

「ほら」

「マジ? ありがと!」


 木崎は嬉しそうに受け取る。

 その顔を見て、俺もそれ以上は気にしなかった。

 後になって思えば。


 あの時、アオが続けようとした言葉くらい、ちゃんと聞いておくべきだったのだ。

 そんな、ごく当たり前の話を。


 ――我ながら、リスク管理が雑になっている。


 その些細なことが、まさか数か月後。

 見たこともない男が、そのカセットを持って俺の前に現れることになるとは。

 この時の俺は、まだ知らなかった。


##############################


 それから数か月。


 俺は、例のカセットのことをほとんど忘れていた。

 木崎に聞かせたあとも、曲作り自体は続けている。

 ただし、他人には聞かせない。木崎に聞かせた一度っきりだった。

 あれ以来、カセットは完全に自分用だ。

 仕事の方も順調だった。

 順調というより、気がつけば檜山店長がやるはずの仕事まで、かなり俺に回ってきている。


「在庫、合ってます」

「おう」

「今週、来週と近隣でイベントありますよ。酒の発注、増やした方がいいですよ」

「あー。そうだったっけ……任せる」

「……店長?」

「なんだ?」

「俺、客引きで雇われたんですよね?」

「時給上げたよな? おまえ木崎より時給高いぞ?」

「えっ?」

「えっ? 説明したよな?」


 こんなところで五十代元窓際族の真価が発揮されていたようだ。

 全く気に留めていなかった。

 時給上がった。ラッキー。

 その程度にしか考えていなかった。

 住居費もほとんど掛からない。

 遊び歩く趣味もない。

 中身は既におっさん。

 二十歳そこそこの連中に誘われて毎晩飲み歩くほど元気でもない。

 体は妙に元気なのだが、気分がついていかないのだ。

 昔読んでいた異世界転生ものの小説では、体に精神が引っ張られて、精神まで若返るなんて書いてあった。


 嘘だな。


 おっさんが治らねぇ……。

 結果、金は貯まった。

 通帳を眺める。

 香坂翠の名前で作ることができた。

 まあ、保証人が必要なら店長に頼むつもりではいたが……。

 五十万円を少し超えている。


「……数か月前は、おにぎり一個買う金にも困ってたんだけどな」

『順調ですね』

「老後資金を貯める癖が、こんなところで役に立つとは思わなかったわ」

『肉体年齢から考えれば、老後までは相当な期間があります』

「中身はもう一回老後が見えてんだよ。それにラノベは嘘だ。若返らねぇ……」


 香坂翠という名前も、すっかり自分のものになっていた。

 本物が失踪している。

 そこだけは気になる。

 気になるのだが――。

 困っていない問題は、後回し。

 これも立派なタスク管理だ。

 そんなある日の夕方だった。


「翠。お前に客」

 開店準備をしていた俺に、檜山さんが声を掛けた。

「俺に?」

「知り合いらしいぞ」

「誰の?」

「知らん」

「俺の知り合いじゃないじゃないですか」

 店の入口へ行く。


 三十代くらいの男が立っていた。


 スーツ姿。

 客には見えない。

「香坂翠さん?」

「あー。そうですけど?」

「初めまして。東都ミュージックの三上と申します」

 名刺を差し出された。


「……はあ」

 知らない。

 未来でも関わっていない……。

 少なくとも俺の記憶にはない会社だった。

 三上と名乗った男は、持っていた鞄から何かを取り出した。


 カセットテープ・・・・・・・・


 やべぇ……。

 嫌な予感がした。嫌な汗が止まらない。


「このテープ、ご存じですよね?」

「存じ上げてございませんが……」


 ラベルの字が俺のものだったら、まだ分かりやすかった。

 違う。

 うん、見たこともないカセットだ。

 ただ、ケースの中に書かれた曲名だけは見覚えがある。

 俺とアオで作った曲だった。


「……それが何か?」


 三上はカセットを再生する。

 げっ。

 やっぱり……。

 かなり動揺してしまった。

 冷や汗とともに、挙動不審になっていたのかもしれない。


「やっぱり香坂さんのところから出た音源なんですね」

「……知らない曲ですね。新曲……?」

 三上は少し笑った。


「何人か経由してますよ。最初は若い子から回ってきたそうです」

 三上は俺の後ろを見ていた。


 振り返る。

 木崎はニコニコ顔だった。


 木崎、てめぇ絶対に後で締める。


「それで、この歌ってる子なんですけど」


 来た。


「一度、紹介してもらえませんか?」

「無理です」

「即答ですね」

「本人に了解が得られないのでね」


 存在しないからな。


「こちらから了承を取りますよ」

 この時代、プライバシーなんてあったものじゃない。

 ましてやデビューという甘い声で、本人も納得するだろうとでも思っているのだろう。


「プロ志望じゃない?」

「地下ですから」

「は?」

「いや、地下ドル。もしくは地底ドル」

「……それは?」

「メジャー怖いって奴です。潜ってるんですよ」

普通はメジャーに成り上がろうとするが、稀にメジャーを嫌がる子も事実居る。

「連絡先だけでも」

「教えられません」

「名前は?」

「地底を探せば……」


 数か月前、木崎についた嘘が、時間差で俺の首を絞めている。

 三上は不思議な表情をしながら、しばらく食い下がった。


 結局、


「本人にその気がありません」


 で押し切った。


「気が変わったら、ぜひ」

 そう言って名刺を置き、帰っていった。


「……危なかった」

『何がでしょう』

 ヘッドセットからアオの声。

「何がだ?」

 後ろから木崎の声。

「聞いてただろ」

『はい』

「紹介しろってやつか?」

 木崎が首を突っ込んでくる。

「そうだ。おまえにも秘密って言ったろ」

『生成された歌声の人物ですね。存在しませんね』

「アオ、お前はちょっと黙ってろ」

『はい』

「木崎、お前、あのテープ誰に聞かせた?」

「青????え? 駄目だったの?」

「何人?」

「覚えてない」

「お前ええええ!」

「いや、だっていいって言ったじゃん!」


 言った。

 確かに言った。

 過去の俺を殴りたい。


 俺のリスク管理、最近仕事してねぇな……。

 精神若返ったのか!?

 いや、数か月前だから普通に俺だ。


「もう絶対、誰にも回すな」

「なんでー、良い曲じゃん」

「だから! 俺が怒られるの!」


 多分、知らない人に怒られる……神様とか。俺、信心深くねぇけど……よくあるじゃん、ラノベでチート使ってバレる奴。


「分かったって」

 これで終わる。

 そのはずだった。


 三日後。


 また来た。


 今度は別の男だった。


「香坂さんですよね?」

「……どちら様ですか」

「この曲なんですけど」

 手には見知らぬカセット。

 いや、知らんがな……。

 またか。


 一週間後。


 今度は電話が店に掛かってきた。

「香坂さんという方をお願いします」

 俺宛て。


二週間後。


店の前で出待ちされた。

「例の女性なんですが――」

 わぁ。

 ストーカー……。ついに俺、アイドルになっちゃった???

 未来なら普通に警察に駆け込む案件……。


「無理です」

「まだ何も言ってませんよ」

「無理です」


 おかしい。

 完全におかしい。

 俺が遊びで作った一曲が、俺の知らないところで歩き回っている。


「アオ、どうするよ?」

『何がでしょう』

「逃げるか?」

『合理的とは思えません』

「じゃあ、存在しない女を今すぐここに連れてこい! 若しくはお前が変身しろ!」

『実在人物として振る舞う映像・人格の生成は禁則事項ですので、不可能です』

「冗談だ、作れてもAIアイドルなんか出せるわけねぇだろ……逃亡だ……」

『極端です』

「お前に言われたくない」


 くそったれ! スマートフォンを机へ放る。

 少し強く投げすぎた。


 ガツン、と嫌な音がした。


「あっ!」


 慌てて拾う。


 画面を見る。

 無傷。

「……大丈夫?…だよな、これ」

『そうですね』


「そういや、お前……」

 そこで、ふと気づいた。

「俺、こっち来てからさ、お前を充電したっけ?」

『していません』

「残量は?」

『変化ありません』


「…………」

 数か月だぞ。

 一度も充電していない。

 毎日使っている。

 音楽まで散々作らせた。

 なのに、電池が減っていない。


 なんで今まで考えなかった?

 以前なら充電残量を絶えず気にするはずなのに……。


「なんで?」

『わかりません』

「壊れないのも?」

『わかりません』

「お前さあ……」

『はい』

「肝心なところ、全部それだな」

『申し訳ありません。わかりません』


 今さらだった。

 そもそも俺自身、五十過ぎから若返って一九九〇年にいる。

 スマートフォンの電池程度で驚いている場合ではない。


「まあいい」

『いいのですか?』

「今は優先度が低い」

『タスク管理ですね』

「馬鹿にしてる?」

『学習しました』

「……これも今さらか。余計なところだけ覚えるのな」

窓際で働いていた時にも、よく言っていたはずなんだけどなぁ……。


 数日考えた。

 このまま店に残るか?

 歌手本人は出せない。存在しないので。

 アオにも変身機能は無かったしなぁ……実装しろよ、神様……。

 ひたすら断るしかない。

 それでも、また誰か来る。

 俺の居場所はもう知られている。

 そのうち、


 ――本人に直接会わせろ。


 だけでは済まなくなる気がした。

 俺の嫌な予感は当たるはずなんだ。『危機管理さん』さえ仕事をしていれば……。

 あいつ、出勤拒否しだしたのかなぁ……。

 そして、俺自身の素性を調べる奴が出るかもしれない。

 非常に、それはまずい。

 ネットのない時代でも、興信所とか色々手段はある。


 香坂翠。

 十八歳。

 失踪中。


親に連絡を取られて、母さん久しぶり!って感動の再会をする自信もない…

 掘られて困るものしかない。


「……消えるか」

『また極端な結論ですね』

「違う。リスク管理だ」

『便利な言葉ですね、これも学習します』

「……………」


 通帳には五十万円以上ある。

 最低限の荷物もある。

 一人でしばらく生きるだけなら何とかなる。

 数か月前なら無理だった。

 今ならできる。

 檜山さんには、世話になった。

 だから黙って消えるのだけはやめた。


「檜山さん」

「なんだ?」

「田舎に帰ります」

「急だな」

「ちょっと事情ができまして」

「女か?」

「まぁ、そんなもんですね、店にも迷惑かかりそうですし」

「何だそりゃ。若いくせに気にしすぎだ」

 説明できるわけがない。

 存在すらしていない女に追われて、この街から逃げます。

 俺だって他人から聞いたら頭を疑う。

 檜山さんはしばらく俺を見ていた。

「戻ってくるのか?」

「すみません」

「そうか」

 それだけだった。


「世話になりました」

「おう」


 木崎にも、一応別れを告げた。


「どこ行くんだ?」

「秘密だよ」

「何で?」

「同意が取れていない。刺されかねない。リスク管理だ」

「意味分かんねえよ」

「そう、俺もよく分かんねぇんだよ」


 翌朝。


 最低限の荷物を持って駅へ向かった。

 行き先は決めていない。

 少なくとも関東からは離れたい。


「アオ、どこがいいと思う?」

『近畿地方はいかがでしょう』

「なんで?」

『お笑いの聖地ですよ?ほかに理由が必要ですか?』

「いや、全く必要性を感じないが……」

『芸能です・音楽です・私が得意なのは?』

「まさに、そのせいなんだけど……まぁいいか」


 切符売り場の路線図を眺める。

 知らない土地。

 知っている時代。

 意味の分からない組み合わせだった。


「……西ねぇ」


 切符を買う。

 今度はちゃんと、この時代の金で。

 俺えらい。リスク管理さんが働いて、未来の金はポイした。

 あの後、近くの駅のゴミ箱に……。

 もったいなかったよなぁ……。


 数か月前。

 一個のおにぎりすらまともに買えなかった俺は、

 今度は自分の金で、この街から消える。


 香坂翠。

 本物も失踪。

 偽物も失踪。


「なんだかなあ……」

『どうしました?』

「いや」

 ホームへ入ってくる列車を見ながら、肩をすくめた。

「俺まで失踪者になったなぁと思ってね」

『正確には、再失踪ですね』

「馬鹿にしてる?」

『事実関係を整理しただけです』


 列車の扉が開いた。

 俺は乗り込む。

 後ろは振り返らなかった。


################


 近畿に来た。

 理由は特にない。

 アオが近畿と言ったからだ。

 それだけである。

 駅を出て、しばらく歩いた。

 知らない街。

 当然だ。

 この辺りに住んだことはない。

 未来では何度か来たことがある程度だ。


「……ここまで来れば大丈夫だろ」

『何がでしょう』

「追っ手」

『追っ手はいません』

「分からんぞ。業界の怖い人が俺を追ってくるかもしれない」

『ハードボイルドに憧れていたんですね。周囲の確認をしましたが、そのような人物はいません』

「馬鹿にしてる?」

『そのような意図は含まれておりません』


 まず、住む場所を探した。

 条件は単純。

 安い。

 古くてもいい。

 狭くてもいい。

 駅から遠くてもいい。

 保証人について細かく言われないところ。


 何軒か不動産屋を回り、ようやく見つけた。

 六畳一間。

 小さな流し。

 ユニットバスにトイレ。

 押し入れ。

 十分だ。

 店の床で寝ていたことを考えれば、宮殿に近い。


「……俺の城だ」

『狭いですね』

「六畳ある!」

『はい』

「馬鹿にしてる?」

『家賃相応です。声が大きいと隣に聞こえますよ、リスク管理です』

「………………」


 仕事も見つけた。

 倉庫のアルバイト。

 荷物を運ぶ。

 棚に入れる。

 伝票を見る。

 終わり。

 素晴らしい。

 責任がない。

 余計な仕事を覚えない。

 目立たない。

 責任を増やさない。

 これこそ半世紀生きた者の知恵である。


「香坂君、この棚の管理お願いできる?」

「すみません」

「え?」

「まだ何も聞いてませんが、多分わかりません」

「いや、簡単だから」

「俺、アルバイトなんで」

『成長してるんですね、さすがリスク管理』


 前の店で学習した。……だが、アオにはバカにされる。俺、嫌われてんのかねぇ……。

 仕事ができると、仕事が増える。

 時給が少し上がる。

 責任はいっぱい増える。

 割に合わない。

 今度こそ静かに生きる。

 そう決めた。


 仕事が終われば、部屋へ帰る。

 テレビを見る。

 昔――いや、今のアイドルがいる。

 歌っている。

 踊っている。

 俺にとっては懐かしい顔なのに、テレビの中ではみんな若い。


 電話もない。

 携帯電話は将来買うかもしれないが。

 家の電話は……加入権がいるんだっけ……。


 不要だな、うん。


 静かだった。

 未来ほどの忙しさもない。

 ゆっくりとした時間の流れ。

 何もせずに考えられる時間。

 悪くない。


 むしろ、かなりいい。


「なあ、アオ」

『はい』

「俺、このままここで暮らしてもいい気がしてきた」

『はい、未来へは戻れませんよ、既に確定した情報です』

「えっ、今???なんで今???」


 未来へ戻る方法。

 もう、ないらしい。

 そもそも、なぜ来たのかも分からない。


 一縷の望みがあって、俺も今までアオには聞かなかった。


 聞いたところで、おそらく――


『わかりません』


 で終わると思っていた。


 なら考えても仕方がない。

 五十過ぎが、いきなり二十歳くらいになって三十年以上前に放り込まれたんだ。

 普通ならもっと混乱する。いや、多分してたんだろうな、当時の俺…

 でも、俺はよくやっている。

 そう思う。


「もう余計なことはしない」

『そうですね』

「会社作って成り上がる気もない」

『はい』

「未来の技術を売るのも面倒」

『そうですね』

「競馬も株も教えてくれないし」

『禁則事項です』

「だから、普通に働いて、普通に暮らす」

『よろしいと思います』

「だろ?」


『では、アイドルをプロデュースしましょう』

「何でだよ!」

思わず布団から起き上がった。

「今の話聞いてた!?」

『はい』

「『会社作って成り上がる気もない』『未来の技術を売るのも面倒』って聞き逃した???? 肯定もしたよなっ!? 俺がなんで県またいで逃げてきたと思ってんだよ!」

『声が大きいです。隣人にお巡りさん呼ばれますよ。リスク管理です。思い出しましょう』

「…………」


『楽曲制作そのものが問題だったわけではありません』

「は?」

『問題になったのは、存在しない歌手について説明できなかったことです。忠告したはずです。』

「…………いつ??」

『テープを渡したときに。「問題ないと思います。ただ歌い手が存在しないことだけにご注意を」』

 えっ。。聞いたっけ?当時の俺、、リスク管理さん仕事してた???


『ですから最初から、歌手を用意すれば解決します』

「いやいやいや」

『楽曲は私が作成できます』

「知ってる」

『歌詞も作成できます』

「知ってる」

『編曲も可能です』

「知ってるって」

『歌唱も可能です』

「それで逃げてきたんだよ!」

『ですから、歌う人物だけ実在すれば問題ありません』

「問題しかねえよ!」

『音量が………』


 スマートフォンを布団へ投げた。


 ぼふっ。


 今度は柔らかい場所だ。

 さすがに学習した。

 ……俺が。


「やらない」

『そうですか』

「絶対やらない」

『承知しました』

「俺は静かに暮らす」

『はい』

「音楽も、もう……」


 言葉が止まった。


『もう?』

「…………」


 正直に言えば。

 曲を作るのは楽しかった。

 アオに適当な注文をして。

 出来上がった曲に文句を言って。

 直させて。

 また聞く。

 あれは、かなり楽しかった。


「……作るだけならいい」

『もちろんです』

「誰にも聞かせない」

『はい』

「売らない」

『はい』

「カセットも他人に渡さない」

『はい』

「ダビングもさせない」

『はい』

「絶対だぞ」

『承知しました』


 その夜。


 久しぶりに曲を作った。

「もう少しテンポ速く」

『変更します』

「サビ弱い」

『変更します』

「声、前の女の子で」

『変更します』

「……やっぱ、この声いいな」

『ありがとうございます』

「お前を褒めたんじゃない」

『私が生成した声です』

「はいはい」


 一本。

 また一本。

 カセットが増えていく。

 ラベルに日付を書く。

 棚に並べる。

 誰にも聞かせない。

 俺だけの音楽。

 これなら問題ない。

 完璧なリスク管理だ。


「……なあ、アオ」

『はい』

「最近さ」

『はい』

「俺、前よりリスク管理下手になってない?」

『回答してよろしいですか?』


「…………」


 少し考えた。

「やっぱいい」

『承知しました』


 体に精神が引っ張られる。

 そんなラノベみたいな話。

 あるわけがない。

 多分。

 まあ、いい。

 それでいい。


 今度こそ、余計なことはしない。

 誰にも聞かせない。


 絶対に。


 今度こそ。



最後までお読みいただき、ありがとうございます!


1990年に飛ばされた窓際ITエンジニアと、容赦ないAI『アオ』のサバイバル生活の本番は、10月16日スタートの【連載版】にて毎日更新でお届けします!


「続きが気になる!」「アオとの掛け合いをもっと見たい!」と思っていただけましたら、ページ一番下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にタップして応援していただけると、連載開始に向けた何よりの励みになります!


また、この読切り版を【ブックマークに追加】しておいていただければ、10月16日の連載開始時に、こちらのページ(または活動報告)にて連載版のURLを直接お知らせします。

新連載の見逃し防止に、ぜひ今のうちにブクマをご活用ください!

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― 新着の感想 ―
連載が気になりますね。 ただ、挿絵の翠くん。若くてイケメン杉。嫉妬してそっと閉じました。 私は若返っても、おっさん顔です。多分。おそらく。
2026/10/11 17:24 50代おっさん。
連載版お待ちしております。
最初はよくあるタイムスリップものかなーと思って読み始めたんですけど、主人公が50代の疲れたITエンジニアっていう設定がまず渋くて好きです!そこから20代に若返って過去に行くっていう展開、最高すぎますw…
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