第3話 情報は情報
朝、目が覚めて最初にしたのは、右手の人差し指を見ることだった。
ひびは、完全に消えていた。
どこにひびが入っていたのか、もう分からない。指先までつるりとして、転ぶ前と何も変わらない。
次に、胸を見た。
左側の、上から数えて何本目か。そこだけ、ぽっかりと空いている。
昨日と同じ。一昨日の朝と同じ。
指は戻った。胸は戻らない。
分かっていたことだ。分かっていたことなのに、俺はしばらくベッドの上で、自分の胸の隙間を眺めていた。
壁の予定表が目に入る。
五日後の欄に、小さな丸。
俺は、そっと目を逸らした。
◇
「情報屋?」
「町のことなら、そいつに聞くのが一番早い」
ギルドの前で合流したデュラハンさんは、今日は首をちゃんと肩の上に乗せていた。
「どんな人?」
「ゾンビだ。情報は確かだ。町で起きたことなら、だいたい知ってる」
「すごいな」
「ただし金を取る」
「……」
俺は昨日の報酬袋を思い出した。遠征のおかげで、いつもよりずっと重い袋。
「友達の紹介なら、少しは……」
「取る」
「デュラハンさんの紹介でも?」
「取る。俺も前に取られた」
デュラハンさんは遠い目をした。何があったのかは聞かないことにした。
◇
ゾンビの店は、表通りから二本入った路地の奥にあった。
看板はない。扉に小さく「情報」とだけ書いてある。
中は薄暗く、帳簿や紙束が整然と棚に並んでいた。その奥のカウンターに、ゾンビが一人座っていた。
灰色がかった肌。落ちくぼんだ目。表情らしい表情はない。俺たちが入っても、顔を上げたのは帳簿を一行書き終えてからだった。
「用件は」
「あ、あの、えっと」
俺はしどろもどろになりながら、事情を説明した。
一昨日、遠方まで薬草採取に行ったこと。帰りの街道で眠り込んだこと。翌朝、肋骨が一本なくなっていたこと。デュラハンさんに見てもらったら、誰かに折られていたと分かったこと。
ゾンビは、ほとんど相槌を打たなかった。
俺が話している間、ゾンビは一度も表情を変えず、ときどき帳簿に何かを書きつけるだけだった。俺の話が熱を帯びるほど、ゾンビのペンの動きは淡々としていくように見えた。
「……それで、誰が折ったのか知りたくて。どこに持っていったのかも」
話し終えると、店の中が静かになった。
ゾンビは、カウンターの下から一枚の紙を出した。
「料金表はこれだ」
「……え」
紙には、細かい字でびっしりと項目と金額が書いてあった。上から下へ、だんだん金額が上がっていく。
「あの、俺、肋骨なくしてるんだけど」
「見れば分かる」
ゾンビは、俺の左胸を一瞥した。
「情報は情報だ」
◇
料金表を読む。
一番上は「事件当日の天気」。次が「事件当日の街道の通行量」。その下に「事件当日、街道沿いで目撃された者の有無」。そのさらに下に「目撃の詳細」。
下に行くほど高い。最後の項目の値段を見て、俺の顎がカタンと落ちかけた。
「……一番安いのから、お願いします」
とりあえず、試しだ。
俺は硬貨を一枚、カウンターに置いた。ゾンビはそれを受け取り、帳簿に記入し、それから口を開いた。
「事件当日の天気。晴れ。夜は少し冷えた」
「……」
「以上だ」
「……知ってる。そこにいたから」
「そうか」
ゾンビは表情一つ変えなかった。
確かに、正確だった。あの日は晴れていた。夜は少し冷えた。たぶん。寝ていたのでよく分からないが、朝露が降りていたから、冷えたんだろう。
正確だ。
まったく役に立たない。
横でデュラハンさんが、肩を震わせていた。笑いをこらえているらしい。首が少しずれかけていた。
◇
「あの」
俺は料金表の一番下を指さした。
「これ、もう少し安くなりませんか」
「ならない」
「友人割引とか」
「ない」
「紹介割引は」
「ない」
デュラハンさんが小声で「だから言っただろ」と言った。首が、物理的に大きく傾いていた。
俺は食い下がった。
「肋骨を盗まれた被害者割引は」
「ない」
即答だった。
俺は報酬袋の口を開けて、中を覗いた。
遠征の報酬。いつもの倍近くある硬貨。料金表の一番下の金額と見比べる。
だいたい、同じくらいだった。
「…………」
俺は袋の中身をカウンターの上に出した。
ゾンビは、それを一枚ずつ数え始めた。
一枚。二枚。三枚。
ゆっくりと。正確に。
俺はそれを見ながら、ふと気づいてしまった。
告白のことで落ち着かなくて、遠くまで薬草を採りに行った。
遠くまで行きすぎて、疲れ果てて道端で寝た。
寝ている間に、肋骨を折られた。
そして今、その遠征で稼いだ報酬で、失った肋骨の情報を買っている。
「……何やってるんだ、俺……」
ゾンビは、まだ数えていた。
◇
「確かに」
最後の一枚を数え終えると、ゾンビは硬貨を帳簿の横にきっちりと積み上げた。
そして初めて、ほんの少しだけ、声の調子を変えた。
「事件の夜。あんたが寝ていたという街道を、荷を運んで通った者がいる。そいつから聞いた話だ」
俺は身を乗り出した。
「道端の草地に、骸骨が一体、寝転がっていた。そのそばに、誰かがしゃがみ込んでいたらしい」
「……誰か」
「誰かまでは見ていない。月が雲に隠れていて、暗かった。荷を運ぶのに忙しくて、立ち止まりもしなかったそうだ。骸骨のそばに誰かがいた。分かるのはそこまでだ」
「それ以上は」
「今のところ、俺も持っていない」
ゾンビは帳簿を閉じた。
「情報が入れば、また売る」
◇
店を出ると、路地は昼なのに薄暗かった。
「軽くなったなあ、財布」
デュラハンさんが、からかうように言った。
「……うん」
俺は苦笑いしかけた。でも、うまく笑えなかった。
頭の中で、ゾンビの言葉が繰り返されている。
骸骨のそばに、誰かがしゃがみ込んでいた。
あの夜、俺は眠っていた。ぐっすりと。何も知らずに。
その俺のすぐそばに、誰かがいた。
しゃがみ込んで。俺を見下ろして。
声を掛けたんだろうか。肩に触れたんだろうか。それとも――。
俺は足を止めて、胸の空白に手を当てた。
ここに、誰かの手が触れた。
「……スケルトン?」
デュラハンさんが振り返る。
路地の奥から、湿った風が吹いてきた。胸の隙間を、ひやりと抜けていく。
「……誰なんだ」
答える者は、いなかった。




