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「何をしているのです」
背後から声を掛けられ、結鶴は顔を上げた。振り向くと、昼下がりの公園には相応しくない、ダークスーツにサングラス姿の鳰が立っていた。
いつから背後に立っていたのか。彼はいつも気配を感じさせることなくいきなり現れる。自身の持つ存在感は圧倒的なものがあるが、必要に応じて、それを自在に操り周囲の空気と同化させる。
結鶴は孔雀と別れた後、近くの公園でベンチに座り、遊具で楽しそうに遊ぶ子どもたちを眺めていた。暖かい日差しが心地よかったが、昔から皮膚が薄く白いため、少し日に当たっただけですぐに真っ赤になってしまう。後から痛むからもしれないと思い、そろそろ場所を移動しようと考えていたところに、聞き覚えのある声に呼び止められたのだった。
「…何をって。見ての通り、日向ぼっこだよ」
結鶴は小さく笑うと、ベンチから立ち上がる。頬に触れると、もうすでに熱をもち、ひりひりとした痛みを微かに感じる。
「藤間様は、いらっしゃらないようですが」
「今日は簡単な仕事だったから、報告は藤間さん一人で行ってもらったんだ」
そう言うと、鳰は僅かに顔を曇らせる。いくら日中であっても、一人で出歩かれるのは感心できません、そう静かに告げる。その言葉を聞き流し、結鶴は歩き出す。
「3ヶ月前と同じように、また何者かに襲われるかもしれません」
鳰は結鶴のあとをゆっくりと続く。体格の差なのか、結鶴の歩く距離を半分程の歩数で進んでしまう。
一定の距離で歩きながら、淡々と会話を交わす。
「それなら鳰が藤間さんの代わりをすればいい」
「それはできません」
「なんで」
「私は大元帥の第一秘書ですから」
「でもいつも僕の近くにいる」
「それは大元帥の命によるものです」
「……………」
「塔までお送りします」
鳰は数歩で一気に距離を縮め、結鶴を追い越し、今度は自分が先頭に立って結鶴を誘導し始めた。このまま今日は屋敷に閉じ込めておくつもりなのだろうと察し、結鶴は顔を顰めた。
8年前に捕らわれた日から、結鶴の帰る場所は森の奥深くにある暗くて広い塔の最上階だ。まるで昔母に読んでもらった絵本に出てくる、捕らわれのお姫様のように―――。やって来るのは前を歩くこの男と、時折斑鳩が様子を見に来るだけ。今ではこうして仕事の折りには町まで出てくることが許されているが、必ず藤間が傍におり、こうやって一人になるとどこからともなく鳰が現れ、今日のように連れ帰される事もあれば、遠くから監視されていることもある。左手首に嵌められたブレスで、どこに行こうと自分の居場所など筒抜けになっている。それでも昔に比べれば自由になったもので、3年前まで、屋敷の敷地内から外へ出ることは禁じられていた。その間鳰は上司の命に従い、結鶴の身の回りの世話を全て行い、また力の使い方を教えてくれた。
鳰もまた、自分と同じhandであると、囚われた日の夜彼自身から告白された。彼の左手首にも、結鶴と似たようなブレスが嵌められている。普段は完璧に着こなされたスーツの下に隠れて見えないが。
handの力は基本的に自分の力に応じた程度の能力が掌を介して物体に伝達し発揮される。しかしその能力にはかなりの体力を消耗し、使い方によっては自分自身に多大なダメージを与えてしまう可能性がある。その為に、自分の能力をうまく使いこなす技術を身につけなければならず、感情を抑制する力や、一点に意識を集中させる精神力が必要になってくる。人によっては、訓練の途中で誤って力が自分自身に跳ね返り、発狂したり、そのまま死んでしまう者もいたらしい。handとして使えるようになる者は殆どいないのだと斑鳩が以前話していた。handと一括りにしても、それぞれの持つ力の種類は様々で、治癒力を持つhand、破壊力を持つhand、透視能力を持つhandと得意分野が存在するという。鳰はその中でも戦闘力に長けており、自らの分身を生み出してそれぞれにある一定の意思を持たせ、自由に操ることができる。その力で昔は斑鳩の影武者のようなことをしていた時期もあったという。最初の頃、鳰から結鶴の場合、訓練次第ではそのほぼ全ての力を使うことができるようになり、いくつかの力を同時に反応させることも可能になると言われた。しかし、訓練によって力をある程度操ることができるようになったが、未だに複数の力を同時に反応させることはできない。鳰になぜできないのかと問うと、それは結鶴の身体が平均よりも細く体力があまりないことと、力を使うことを自分自身が真に望んでいないからだと言われた。心の底から自分の力を使いたいと思ったことなどない……あの日を除いては。
「藤間様をお一人で報告に行かせたのはなぜですか」
鳰は歩みを止め、唐突に切り出してきた。振り返り、じっとこちらを見つめている。彼が自分から話題を振ってくることは滅多になく、とても珍しかった。結鶴は黒いレンズの向こう側にある彼の瞳の奥を覗き込もうと目を細めたが、何を考えているのか全く分からなかった。
「雲雀様にお会いになりたくないのでは?」
――――いきなり核心を突いてくるのは勘弁してほしい。彼の言葉はいつも心臓に悪い。
「なんでそう思うの」
表情を崩さないようなるべく低音で話そうと心掛ける。そうしている時点で既に鳰には気付かれてしまっているのだろうが。彼は相手の動きだけでなく、心までも読んでしまう。実際はどうか分からないが、少なくとも結鶴には、彼が戦闘力と透視能力の2つを持つhandだと思えて仕方なかった。
いつ気付かれたのだろう。最大の弱点を知られてしまった。この想いだけは知られたくなかった。いや、知られてはいけなかった――――その為に、彼と距離をとっていたというのに。
「あなたは大元帥のhandです。彼の命以外で力を使うことは許されていません。…お分かりでしょうが」
分かっている。そんなことは誰よりも自分自身が承知している。だから今までもずっとそうしてきたではないか。handには、誰かを思うことすら許されないというのだろうか。自分が今ここで生きているのは、全て彼という存在を追いかけているが故だというのに。
結鶴は無意識に、右手でそっとブレスに触れた。
「…もしこれから先、夏目雲雀大佐と私的な関係を結ぶことがあれば―」
「なに、この手首を切るの?そんな脅し、今まで何回も聞いた」
鼻先で笑って、右手の親指を突きだした左手首の前で一直線に切る真似をしてみせる。鳰は相変わらずの無表情で、おどけた結鶴を咎めるような様子もなかった。いえ、と小さく頭を振り、真っ直ぐにこちらを見据えてくる。
「もし、あなたが大元帥を裏切ることがあれば。夏目雲雀大佐の命は無いものと思っていただきたいのです」
え、と無意識に吐息のような声が漏れた。
今度こそ崩れてしまった表情を取り繕う余裕すら無く、相手の顔を凝視する。急速に咽喉が渇き、体から血の気が引いて行くのがわかる。何か言わなければと思うが、全身が自分のものではなくなったかのように言うことを聞かない。
「―――そんなことで、僕が言うことを聞くとでも思ってるの」
ようやく発した言葉も、動揺が丸見えの掠れた声しか出てこなかった。精一杯の虚勢を張り、鳰を睨みつける。彼のことになると途端に弱くなる自分に嫌気が刺す。
「はい。あなたがこれから先、どのような命であろうとも斑鳩様に逆らうことができないほどには」
鳰はそう言うと踵を返し、また歩き出した。普段よりも幾分ゆっくりとした足取りで。恐らくこちらの歩く速度に合わせているのだろう。結鶴もその後をよろよろと歩きだす。歩いている感覚が無く、ただ少し先を歩く鳰の頭を追いかけるように足を動かしているだけだった。
このブレスに体が捕われた時、心は夏目雲雀という男に捕われてしまった。
それを、知られてしまった。
これから先、大元帥から多くの物を要求されるだろう。
これまでの結鶴の行いは、自分でも身震いするような恐ろしいことばかりだった。それでも死を選択しなかったのは、己の甘さが原因だ。例えどう思われていたとしても、どのような関係であれ、彼の傍に居たいという想いだけが結鶴を突き動かしていた。
8年前に出会った時から、惹かれていた。それだけではない。3年前のあの日、一度だけ彼の心の奥に触れた気がした。彼に抱きしめられ、口づけられたあの日。その瞬間に、全てを奪われてしまった。
彼の時折見せる優しさに胸が詰まる。自分を見つめる瞳に、抑えていた想いを叫んでしまいそうになる。暗い闇の底のように深いその漆黒の瞳は、呪われた自分の藍とは比べ物にならない程美しく、結鶴を飲み込んだ。雲雀への想いだけのために、数えきれないほどの人を殺めた。罰せられなければならない。
自分はあの時死ななければならない存在だった。
突然強い風が吹き、悲鳴のような風の音が舞い上がる。
泣きたいのか叫びたいのか分からないが、何故か口許には自嘲の笑みが浮かんだ。
母と祖母が殺された夜、祖母が耳元で囁いた言葉が甦る。本当に隣で囁かれているかのように鮮明に聞こえて、思わず掌で両耳を覆う。
『 ―――――――――――――――― 』
あの言葉の意味は一体何だったのか。
これからどうすればいいのか。
何も分からないまま、ひたすら塔への暗い道程を歩き続けた。




