第十九章 ふりやまない雨
内裏を鬼が襲撃した事件は、隠しきれるものではなく、かといって事実を公にするには差し支えがあることが多すぎた。
正体不明の天狗を名乗る盗賊が、内裏に押し入ったこと。それにより左大臣が命を失ったが、賊もまた倒されたと、公には報じられた。
とはいえ、人々の口に蓋は出来ぬもの、内裏から逃げ出した殿上人や女官達も、鬼の姿は見ているのだ。おおよそ、そのようなことがあったらしい……とは人々はささやきあった。
今回のことは左大臣の陰謀であると。
「三条院様のみならず、主上の命まで狙っていたと」
「まあ、恐ろしや」
しかし、左大臣は賊に殺されたことになっており、彼の罪は問われない。だが、今回の陰謀に協力した者達は、やがて内裏から密やかに排除されることとなった。権勢を誇った一派の席は、何事もなかったかのように、別の名を掲げる者達で静かに埋められていく。
後のことであるが、左大臣の荒れ果てた屋敷あとからは、その地下に、不気味な護摩壇だけを残した小さな洞穴が見つかった。髑髏に角を生やした飾り物のようなものが壁に埋め込まれていたとも伝わり、人々はおそれて、すぐにその穴を埋めてしまった。管狐達のもたらした報告を、貴仁は静かに聞き、元左大臣家にて盛大な供養をするように命じた。
左大臣と北辰がどうやって知り合ったのか、当事者二人とも亡き今となっては謎のままだ。
賊が押し入ったということで、今帝は内裏から一時的に避難されて、三条院を仮の里内裏とした。その本来の主である上皇、貴仁は、屋敷丸ごとを内裏として今帝に譲り、自分は六条の屋敷へと移った。
その六条の正殿の塗り籠めに、意識を失ったままの薫が寝かされていた。傍らには貴仁が座して、どうしても離れなければならない用があるとき以外は、ひたすら傍らにいて、その目を閉じた顔を見つめている。
「殿、お身体に障ります。床を横にご用意しますので、せめて夜はお休みを」
「ああ……」
普段ならば必要ないときっぱり言う貴仁だというのに、それも生返事だ。それでありながら、横になる気配もないのだから、左近も右近も顔を見合わせるしかない。
「主上と梨壺の宮様より、文と見舞いのお品が届きました」
「わかった」
仮の内裏となった三条院よりは、毎日のように今帝と、そしてこの六条より三条へと移られた梨壺の宮より見舞いと文が来る。
この毎日のありがたいお見舞いは、左近に右近以下の女房達にとっては、ある意味は救いとなっていた。薫から離れず思い詰めた顔をした貴仁が、主上からの文には返事を書かねばと筆をとる。それはひとときの気分転換になるとは思うからだ。
それに梨壺の宮からの無邪気な文にも、目を通して、彼が口元をほころばせるのも。
「梨壺の宮はずいぶんと、薫に懐いたようだな」
「はい、それはもう亡くなられたお母様のようだと」
「それは、俺が怖い父様だとでも言ってなかったか?」
苦笑しながらの貴仁の言葉は図星で、左近と右近は言葉に詰まり顔を見合わせる。脇息に置いた文に、貴仁はさらに目を通して。
「あこぎが、こちらに来たいとさかんに、宮に言っているようだが、まだ、戻せないな」
「……はい」
あこぎだが、梨壺の宮が三条に移るときに、彼女もまたあちらに預けている。意識をうしなったままの薫を見せないように……という配慮だ。
三条院の今帝にも梨壺の宮にも、薫は短刀に塗られた毒により一時的に意識を失ったが、今は目覚めて療養中であると……うそを伝えてある。真実を伝えて、いらぬご心労をかけぬためだ。
あこぎも薫の看病を自分もしたいと思っているのだろうが。
しかし、薫の目は覚めない。
左大臣が振りかざしたあの短刀は、百年の昔に鬼祓いに使われた宝剣だった。そのとき剣は砕け散ったが、短剣へと仕立て直された。
帝の守り刀となっていたが、いつの間にか消えていた。左大臣の差し金だろう。
それを北辰に渡し、祓いの剣を呪いで反転させて、鬼神殺しの剣とした。
左大臣がどこまで陰謀を巡らせていたのかは、奴が死んだ今となってはわからない。
あの鬼神殺しの短刀を持っていたところからして、狙っていたのは貴仁か、北辰か。それとも、互いに戦わせて生き残っていても消耗しているだろう、もう片方も葬り去るつもりだったのか?
そうして、双方倒れたあとに、己の都合の良い帝を立てて、己がすべての政を支配するつもりだったとしたら、大した野望だ。
しかし、その左大臣の唯一の計算外が、薫の存在だったのだ。
そして、その薫が鬼神殺しの刃をその身に受けた。
こうして薫は意識を失ったままであるものの、生きながらえているのは、その短刀が半分は鬼殺しの刃だったからだ。同時に、目を覚まさないのは、その刃が半分は神殺しの剣でもあったゆえである。
「薫、今どこにいる? 早く戻ってこい」
身体にかけられた衣からはみ出した白い手を握り締めて、祈るようにひたいに押し当てて口づける。
そして、静かな塗り籠めの中、遠くに聞こえる音に、貴仁はつぶやいた。
「雨か……」
ふりやまぬ雨音が、塗り籠めの闇にしみ入り、鬼神の胸の内を静かに叩いていた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
賽の河原に長い雨が降っている。
童達は、そんな中でも一つ二つと石を積んで、塔を作り上げていく。
ここに留められた童は、親より早く亡くなったために、その不幸を咎められたもの。地獄にも極楽にも渡れずに、この三途の川の河原で、親の供養のために石を積んで仏塔をつくる。
最後の石を積み終えれば川の向こうに渡れると信じて。
だが、その石を積もうとした瞬間。
「そう簡単に功徳が積めると思うなよ!」
「最初からやり直しだ!」
地獄の鬼達がやってきて、その金棒を振り下ろして、童達がやっと積み上げた塔を崩して、最初からやり直しさせる。それの繰り返しを気が遠くなるほど、続けて……完成する日は来るのだろうか?
「やめて!」と泣く童達を鬼はあざ笑うが、その前に無言で立ちふさがった者がいる。
「う……あなたは……」
これがただの亡者だったならば、鬼達は容赦なく張り飛ばして終わりだ。泣く子供達でも"手加減"して突き飛ばすだろう。
しかし、両手を広げて彼らの前に立ったのは、単衣に長袴姿の、ぬれそぼる黒髪さえ見事な、白い優しげな面に、頭の上には尖った耳の……。
「お前がやれよ」と赤鬼が青鬼にいう。青鬼が「大神の末様をお前も張り飛ばせるのかよ」と返せば「だから、なんでその末様が、こんな賽の河原に……」とぶつぶつ言っている間にも。
空から細く降る雨は、六条の塗り籠めで貴仁が聞いたそれと同じ調子で、静かに石と童の肩を濡らしていた。
「出来た!」と明るい声が重なり、鬼達が「ああっ!」と叫ぶ。
次々に塔の一番上の石を置き終えた童達が、ふわりと丸い魂の形となって、ふわふわと天へとあがっていく。目の前の川を渡ることなく、直接極楽へと。空には蓮の花を咲かせた、地蔵菩薩が穏やかな顔で童達を迎え入れている。
「あと、千回ほど塔を崩したあとだったのに……」と青鬼がぼやく。「俺達だって好きで童を泣かせているわけじゃねぇんだぞ」と赤鬼がぶつぶつ。
童達の魂はきゃらきゃら笑い声をたてながら「大きなお姫様、ありがとう」と声が聞こえる。「一緒に遊んでくれて楽しかったよ」とも。
薫は手を振りながら、胸の奥にひとつひとつ小さな灯がともっていくようなあたたかなのに、寂しさを覚えた。
喜びはあっても、別れは寂しいものだ。
そんな童達の声に微笑む薫を、ぎろりと赤鬼と青鬼は見るが、他の亡者達のように怒鳴りつけることも、ましてその手の金棒を振り上げることも出来はしない。
「ホント、勘弁してくださいよ。なんで、あなたのような方が、ここにいるんですか?」
そう問われて、薫はきょとんとする。どうして、自分がここにいるのかは、わからない。
いつからいるのか?
長い間、河原で童と遊んでいたような気がするし、つい三日前からだったような気がする。
子供達と遊び歌うのは楽しかったから、時を忘れていたけれど……。
「しっかし、この長雨には困ったな」
「童達はここで足止めなのは決まりだが、亡者達を地獄に放り込めもしねぇ」
そんなことを言い合いながら、赤鬼と青鬼は去って行く。
薫はふと、肩に落ちる雨粒の冷たさだけが、六条で傍らにいたはずの"誰か"を思い出させる気がして、胸を押さえた。
「やっぱり、あんたかい」
振り返ると、そこには奪衣婆がいた。
三途の川の渡し賃、その六文をたずさえていない亡者から、死に装束を駄賃としてはぎ取るのが役目だ。
「ついて来な」
先に立って歩く奪衣婆の肩には、その老婆の見た目とは不相応に、華やかな撫子の袿がかかっている。薫が自らの衣を脱いで渡したものだ。
この賽の河原に着いてすぐに、この婆にぼろぼろの衣をはぎ取られようとしている亡者達に出会った。薫は自分の衣を肩から落として「これで代わりになりませんか?」と差し出した。
婆はフンと鼻を鳴らして「ここにいる奴の駄賃にはなるね。だけど、あんたは舟に乗れないよ。満席だ」と言われてこくりとうなずいた。
亡者達は「お優しい大姫様」と次々に感謝の言葉を述べて舟に乗って去って行った。
その直後に、ざあざあと雨が降り出し、川の水はみるみる増水して、向こう岸から舟が戻ってくることはなかった。
こうして、薫は一人、三途の川で足止めをくらっている。遊び相手だった童達もまた、地蔵菩薩に連れていかれた。
「とうとう、あんたとあたしの二人きりだねぇ」
川のほとりに立つ、婆の小屋へと招きいれられた。「茶でも出したいところだけど、ありゃ、湿気ている」などと彼女はつぶやいて。
「とりあえず、これは返しておくよ。大神の衣なんて、この先の亡者の渡し賃の千年分をもらったようなもんだ。これじゃ、剥ぎ取りの商売もあがったりだよ」
薫の肩に後ろからかけられた袿は、この長い雨に濡れそぼっていたはずなのに、乾いて軽かった。驚いて振り返れば、そこには見慣れた老婆の姿はなかった。
空気が変わった。雨の匂いが薄れ、薫の胸奥がふっと温かくなる。
「あなたは……」
小屋はいつのまにか、寝殿造の局の一角となっていて、御簾に几帳、屏風で仕切られた、薫にとっては見慣れた風景となっていた。
そして、そこに座すのも、さっきまでの婆ではなく、黒髪の十二単をまとった美しい女性の姿。その切れ長の瞳の面は、誰かを思わせる。
誰だろう?
とても大切な人で。
忘れてはいけないのに――。
「貴仁様?」
その名を口にすれば、目の前に座した婦人がふわりと頭を下げて。
「――の母親です。竜吉と申します。大神の御子よ」
「薫と申します」
三つ指をついて挨拶をする。それに扇を口元にあてて竜吉と名乗ったお方は。
「本当にあの子にはもったいないこと」
「はい?」
「……とはいえ、苦情が出ているのね。泣かない鬼の涙雨で、三途の川が増水してしまって、これでは向こう岸に亡者を渡せないと」
ふうと竜吉がため息をつくのに「それは困ったことでございますね」と薫も小首をかしげる。
そして気付く。
「私、あの川を渡れません」
「そうよねぇ」
「貴仁様が待っています」
その名を言った瞬間、胸の奥に強い引かれるような痛みが走り、薫は思わず己の胸を押さえた。
そうか、あの方が泣いているのかと思う。お独りで……と思うと胸が痛む。
早く戻らないとと思うが、その前に目の前の女性に再び三つ指をついて、頭を下げる。
「お会い出来て嬉しゅうございました。義母上様」
「わたくしも、こんなところだけど会えてうれしかったわ。あの子をよろしくね」
「はい」
薫は額を御簾のほうへとそっと下げ、遠い高天原よりも、地上で待つただ一人の夫に心を向けた。
にっこり微笑み、薫は立ち上がって御簾の向こうへと、その身体は厚い雲間を割って、ひと筋射した光の中へと消えた。
「あらあら、まあまあ」
見送った竜吉であるが、驚きの声をあげる。
「どうやら、そのまま戻ることが出来ずに"あちら"へと寄り道のようね。そんなに時間は掛からないでしょうけれど……」
そうつぶやいた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「あ…れ?」
もどったつもりだったのに……。
広がっているのは、牧歌的な農村の風景。田園に高床式のお社のような家々がところどころに並んでいる。ここは?
「吾子……」
呼びかける声。振り返れば、古代風の衣装の婦人が立っていた。羽衣のような透ける領巾をふわりとうでにまとった、美しい人。
「母様!」
一目でわかった。それは地上で自分を生んで幼くして亡くなった人の母ではない。だけど、この方も確かに母だと。
ここ、高天原でもっとも尊き方。その手が自分より背の高い頭に伸びて撫でるのに、薫はぺたりと尖った耳を寝かせた。
「会いたかった、吾子」
「私も」
「あなたに謝らなければならないことがあって……」
謝る? 母様が? と薫がきょとりとすれば、女神は恥ずかしそうに両手で顔をおおって。
「誰よりも、美しくたおやかな姫になるようにと願ったのです」
「ありがとうございます」
「そう、たしかにあなたはとてもとても、優しい子になってくれました。きっと、わたくしの過ちも微笑んで許してくれるのでしょうけど……」
そこで再び顔をあげた女神は、自分より上にある薫の白い面を手で挟んで、じっと見つめて。
「ああ、本当に素直に良い子になって、なのになのに……」
瞳を潤ませて母である女神は言った。
「あなたを地上の母たる方の胎に宿すとき、うっかりあの乱暴者の弟のことを思い出してしまって」
「たおやかな姫の心を持ちながら、あなたは男の子になってしまったの」とうわ~んとばかり、薫の胸にすがって泣く女神に、薫はぽかんとする。
「母様……?」
「ほらほら、こんなにおっとりさんだから、怒りもしない」
女神はぐすぐすと顔をあげて薫を見る。
「私は怒ってはいませんよ。貴仁様に会えましたし」
「ああ、あんな地獄の鬼神の男の毒牙にかかるなんて……あれは、あの須佐之男の末でもあるのに!」
きぃいいいっとばかりに、領巾を噛みしめる母女神に、薫は目を丸くする。彼女はさらに「今でも遅く無いわ」と。
「苦しみばかりの地上などに戻らず、ここに、母のそばにいてもいいのですよ」
「いいえ、母様、母様に会えたことはうれしく思いますが、私は貴仁様のところに戻りたいと思います」
薫の声はやわらかいのに、その奥にだけは揺るぎない芯の強さが光っていた。
「あの方がお独りで泣いているので」と薫は続ける。それに女神はふう……と息をつく。
「あなたは優しいから、あの鬼神を見捨てられないのね」
「貴仁様もお優しい方ですよ」
「では地上で人としての定命を終えたならば、この高天原に戻ってらっしゃい」
その言葉にも「いいえ」と薫は首を振る。
「私はずっと貴仁様のおそばにいます。あの方が行かれる場所に」
「それは人としての寿命を終えても、あの男とともに黄泉の国に行くということ?」
「はい、母様。おそばに戻れず、申し訳ありません。でも、私は貴仁様と共にありたいのです。あの方が向かわれるなら、天であろうと地であろうと、黄泉の底であろうと、どこまでもご一緒したいのです」
薫は静かに言葉を継いだ。
「……仕方のない子。本当に優しくしすぎたわ」
「あんな鬼にやるのは、もったいない」と女神は寂しそうに微笑み。
「では、地上へ戻す前に――ひとつ、花嫁の務めを教えておきましょう」
女神の声が、妙に晴れやかになる。
薫は、こてんと首をかしげた。
その"教え"が、後に貴仁をどれほど困らせるかなど、まだ知らない。




