第二十章 今宵も二人で……
いつの間にか、まどろんでいたのか。
貴仁はふっと目を覚まして、目の前に横たわる薫を見て――ほっと息をついた。
生きている。
長く眠ってはいるが、こうして、まだこの腕の中にいる。
「いつ、目を覚ます?」
何度目かの問いかけだ。生きているだけでも十分だと思う一方で、それでも目を見て、名を呼び合いたい。
そして何より――この腕から存在が失われることが、怖い。
この鬼神の自分が。怖いなどと。
「ん……」
閉じていたまぶたがぴくりと動いたのに、貴仁は息を呑む。
ふわりと花開くように黒目がちの瞳がのぞいて、ぼんやりとした焦点が、結ばれて自分を見る。
「貴仁…様……?」
かすれた声。白い手が伸ばされるのに、掴まえて、その指先に口づけた。
「ご無事でしたか?」
「それはこちらの言葉だ」
胸の奥に張りつめていたなにかがぷつりと切れ、ようやく取り戻せた温もりを確かめるように、貴仁はその手を離せなかった。
口づけたその手をひたいに押し当てれば、その手がするりと頬を滑る。濡れた感触。
「泣いていらっしゃる?」
「鬼は泣かないはずだったのになぁ」
外ではなお、しとしとと雨音が続いていた。
六条の屋敷ごと――この鬼神の涙に包まれているかのように。
片頬にひと筋こぼれたそれに、薫が身を起こして唇を寄せるのに、貴仁はそのまま己の唇も押し当てた。
「ん……」
何度か重ねて、唇が一瞬離れて、また深く重ねようとすれば。
ぱしんっ!
軽くであるが、薫の両手に挟まれるようにして、頬を叩かれた? 痛くはないが、これが叩いた?
「貴仁様」
顔を両手で挟まれたまま、むうっとした愛らしい顔が目の前にある。形の良い眉がしかめられて、眉間に皺が浮かんでいる。珍しくも、いや、初めて見たか? これが怒っている顔など。
「はい。なんですかな?」
思わずかしこまって答えてしまっても、仕方ないだろう。
「私にうそをおつきになられましたね」
「え? どれだ?」
「…………」
うそも方便ではないが、なにか色々言ったような気がする。薫が一瞬沈黙する。
「たくさんあるのですか?」
「いや、わからんから、具体的にあげてくれ」
「全部あとで白状していただくとして」
その"あとで"とにっこり笑った顔がなんか、怖いような気がすると貴仁は思った。見とれるほどやはり、美しいが。
「高天原にてお母様にお聞きしました。吾子は貴仁様のおっしゃる、複雑な儀式などしなくとも――」
薫は一息、そして頬を真っ赤にして言い切った。
「……男女の間で出来るものだと!」
そうか。高天原まで招かれていたとは、母とは人間の母ではなく、おそれおおくもあの女神のほうか? と貴仁は理解する。
「そして、貴仁様も私も男の子にございます」
「そうだな。子供は出来ない」
「すまなかった」と貴仁は素直に頭を下げて謝った。「だが」と顔をあげて。
「そなたは俺の妻だ。男であろうと大神だろうと、離すつもりはないぞ」
「死んでも地獄の果てまで連れていく」とは物騒だが、貴仁としては人の寿命が終わっても、この大神の末を離す気はないので本当だ。
その意味が分かっているのだろう。薫も頬を赤らめて、頭の上の尖ったお耳の内側も赤くしている。
「あの……母様が」
「ん?」
「男の子同士でも仲良くすることは出来るのだと」
ぽっぽっぽっ……と薫はさらに頬を染める。これは高天原の母様から、閨ごとまでしっかり教わってきたか?
「それは貴仁様に教えてもらいなさい……と」
「…………」
上目遣いにこちらを見る薫は可愛い。とても可愛いが、これはかの女神のしたり顔が見えるようだった。
いや、たぶん、あの嵐の夜に二人が身体を重ねたことは、あの女神ならばお見通しで、さらにはうちの大事な大事な子になにしてくれるんじゃい! とばかりに、お怒りなのだろう。
それゆえに貴仁にどうにかしろと押しつけた。
今度こそ優しくしないと承知しないぞと声が聞こえるようだった。
「薫」
「はい」
「……今、ここにいるな」
「はい。ここにおります」
その返事だけで、貴仁の胸の底がほどけた。
「今から……いいか?」
病み上がりで目覚めたばかりでなにするんじゃ! と天空のどこかから、女神の声が聞こえたような気がするが、なにお互い丈夫な半神だ。
この腕に妻が帰ってきた喜びのまま、むつみ合ってもいいじゃないか。
「欲しい、抱きたい」
告げておいて、貴仁の表情が曇った。
「お前が許してくれるなら……」
彼にしては珍しくも言いよどんだ。
脳裏にあるのはあの芦ノ原で薫を傷付けたことだ。
「すまな……」
言いかけた唇を薫の指が押さえた。
「そのお言葉は目覚めた朝に聞きました」
薫が柔らかく微笑む。たしかに、あの嵐のような夜の翌日、目を開いた薫に自分は告げた。
『すまない』と。
「だからもう、お謝りにならないで、私達は本当の夫婦になったのですから」
「薫、ああ、俺の番だ」
どこまでも慈愛にあふれ優しい。その身体を抱きしめて、貴仁は一緒にしとねに倒れこんだ。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
身体中に口づけられて、恥じらいながらも、うれしいと薫は思う。
長い夢の底で凍りついていた心と身体が、少しずつ同じ熱を取り戻していく。互いの鼓動が重なりあうたびに、もう離れなくていいのだと遅れて実感がこみあげた。
あの夜のようにただ嵐を受け入れるようなものではない、と胸の奥で繰り返し言い聞かせる。今度は、自分もその腕を選んでいる。
それでも、あの夜の葦の原でのことを思い出して、薫は無意識に身体を固くする。それに「嫌か?」と尖った耳にささやくようにされて、首をふるふると振る。
「……貴仁様なら…なにをしても……よろしゅ…う……あ……」
「あまり俺をつけあがらせないでくれ」
そんなことを言いながら、触れる指は繊細な蕾を花開かされるように優しい。
ほろりと涙があふれたら、とたん慌てて「痛いのか?」と聞かれて、薫は首をふる。
「……胸があふれ…て……痛くない……のに……涙が……」
「それならいい。俺も嬉しい」
「貴仁様も? 私も…幸せ…で……あ……」
「ともにな」とささやかれて、あふれる涙のまま、ぎゅっと広い背にしがみついた。
今度は、自分もその腕を選んでいる。
怖さも痛みも、確かめながら――それでも、貴仁様とずっと共にいると決めている。
目覚めた気配はあるのに、その日、主人夫婦は一日、閨から出てこなかった。
左近と右近、惟光の家人たちは気を利かせて、床開けの朝に「二度目の三日夜餅ですわね」と餅を差し出したという。
その餅を二人、幸せに食べさせあった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
鬼によって穢された、内裏の祓いがようやく終わり、あちこち壊されて荒れた場所も修繕され整えられて、今帝が三条の仮の里内裏から移られる日がやってきた。
「どうしてです? 月宮様、わたしにおそばから離れろと?」
月宮の無事な姿をひと目みたいと、今帝のおおせにより、三条院へと入れ替わりに戻ってきていた、薫の前で、あこぎは涙を流し嫌々と首を振っていた。
「わたしがお嫌いになったのですか?」
「いいえ、あこぎは私をいつも一番に仕えてくれました」
「だったらどうして?」
「私の代わりに、梨壺の宮様のお世話をして欲しいのです」
そう、今帝と共に梨壺の宮もまた、後宮に戻ることになっていた。それにあこぎもついて行くようにと、薫は命じたのだ。
当然あこぎは「おそばを離れたくありません」と泣いた。それに薫は繰り返し言い聞かせる。
「あなたを惟光の養女とすることも決まっています。五位の公卿の娘とあらば、宮様のそばにお仕えするのに他の方に気後れもしないでしょう」
それだけの後見を薫が自分の為に用意してくれたことを、十一ながらもあこぎは理解はする。女官として十分に出世できるだろう将来も。
それでも少女の感情が嫌々と首をふらせる。「それでも、わたしは宮様のそばに……」と。
「梨壺の宮様のおそばには、頼りになる大人の女房達はいますが、同じ年頃の方はいません。六条やこの三条にいたときも、宮様はまるであなたを妹のように親しくしてくださっていたと聞いています。これからも、宮様の心強い妹分として、私の代わりにおそばにいて欲しいのです」
結局、あこぎは泣きながら「わかりました」とうなずいた。そして、内裏に戻る梨壺の宮とともに旅立った。
今帝の輿と、そして、梨壺の宮の牛車を見送ったあと、慎み深く育てられた宮家の姫らしくもなく、御簾が降ろされた廂の端近に薫はいつまでも立っていた。
「いいのか?」
貴仁の言葉に薫は振り返る。それと同時に、ふわりと直衣の袖で包み込むように抱きしめられた。
「いいのです。あこぎは人の子ですから」
薫は静かに言った。
「ここにいれば、あの子の時だけが、あまりにも速く過ぎてしまう」
いつまでも薫のそばにいたいと言っていた。薫もあの葎の御殿にいるときは、そう思っていたけれど。
「この三条院が悪いというわけではないのです。だけど、あの子をここに留めておくわけにはいけないと思いました」
ここにいるのは優しい物の怪達だ。だが、あこぎは人の子で、変わらない物の怪達と違って、またたく間に娘となり大人の女性となっていく。恋もするかもしれない。結婚して良き夫にめぐまれることも。
だが、変わらない三条の屋敷では、その機会は少ないだろう。なにより、ここにはあこぎと同じ人はいない。
「ですから、梨壺の宮様とはしゃぐ姿を見て、あこぎはあちらに送り出したほうが良いと思ったのです」
宮中勤めは色々苦労があるだろうが、気丈で機転が利き、明るいあこぎならば、立派につとめるだろう。
「本当は少し寂しいですけど……」
「惟光の養女だからな。この三条院はあこぎの里でもある。時々は戻ってくるだろう」
「あまり頻繁に戻るようでは、困りますけど」
「そうだな」
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
さて、熊野に旅立ったはずの上皇様が、騒動のうやむやに都に戻ってきていたことだが、人々はそれに関して非難するものはいなかった。鬼の騒動はいつのまにか止んでいたし、それよりなにより、怖い鬼はもう来ないのだからと、あの三条院に連れ込まれた者達が次々と口を開いたのだ。
三条院様が鬼なんて、とんでもない。検非違使に捕らえられそうになったのを逃がしてくれた上に、米や薬や衣まで恵んでくださった、お優しい方だ……と。
それが、いつのまにやら三条院様が鬼退治までやってくださった……になっていたらしい。
「まあ、だいたい当たっているのか?」
「お伽噺というのは、案外、本当のことなのかもしれませんね」
「俺の話も都の鬼退治として語られるか?」
「貴仁様のお話がそうなったなら、楽しいですね」
「それならば、そのお伽噺には可愛いお耳の姫君の話もな?」
「まあ、それはどんなお話に?」
「二人は幸せに地獄で暮らしましたとさ」
「その続きを、今宵も少しだけ書き足しに参りましょう」
薫が冗談めかして微笑む。
「地獄ではめでたしめでたしになりませんぞ」という一の従者の声に、二人は顔を見合わせる。
夜の都大路に、今日も怪しい気配がする。
「参るぞ」
「はい」
そして二人、今宵も――都の夜を歩く。
【終】




