第十七章 内裏騒乱
六条の屋敷の生活は、そこだけがぽっかりと切り取られたように穏やかに穏やかに過ぎていった。薫と梨壺の宮は、東と西の対で暮らし、昼間はそれぞれ正殿へとやってきて、琴や囲碁を楽しみ、絵巻物を広げてあれこれ話し合った。都では鬼騒ぎや政の噂が渦巻いていることなど、ここにいる者達には遠い別世界の出来事のように感じられる。
館の外では三条院……貴仁が都を離れたあと、ぱったりと鬼騒ぎがやんで『やはり……』と都の人々がささやきあっていた。また警備のためという名目で、三条院の周りには常に検非違使が物々しく巡回し、まるで咎人を出した家のようだ……と言われていることも。
それも六条の館で暮らす、宮様方は知らないことだった。お耳にいれる必要もないと、三条の屋敷を守る者達や、六条で薫のそばに仕える左近や右近も判断したことだった。
内裏でも、すでに左大臣達や他の大臣に大納言以下の参議達が、上皇である貴仁という重しがなくなったために、あれこれ画策し始めているというが、これも、六条で穏やかに暮らす方々には関係ないことだ。
今日も正殿にて、梨壺の宮は、あこぎを相手に双六に興じていた。宮の回りの女房は彼女から見れば、みな年かさの落ち着いたものばかりで、歳が近い彼女はこの六条の屋敷において、よい遊び相手だ。
それでも遊び相手は主である薫がつとめることが多いのだが、双六ときいて代わりにあこぎにやってもらうことにしたのだ。
初め、梨壺の宮はそれに「双六は子供っぽいですか?」と訊ねたのだが、それに薫は首を振って、周囲の女房に聞こえぬように小声で「私相手ではつまりませぬよ。さいの目は本来ままならぬものですが」と返せば「あ」というお顔をされた。
そうなのだ。小さい頃に双六はやった経験がある、思えばあれが一番最初に、生活のために売り払われた道具ではなかろうか? と思う。
なにしろ、いつも薫が勝つのではつまらない話だ。周囲もだが、薫自身も双六を面白いと思えたことはない。
「自分の望んだ目が出るのでは……」と薫がこぼせば、「サイコロの目は太政大臣でもままならぬと、世の人々は嘆いているが、俺達はなぁ」と貴仁も苦笑した。
囲碁ならばともかく、運任せとなれば本当に話にならないのが、貴仁と薫なのだ。二人で試しに双六をやってみたら、最初に互いにサイコロを振った時点で、互いに察してそれ以上はやらなかった。これは勝ち負けにならない。
そんな訳で、梨壺の宮とあこぎはなかなか良い勝負となっていた。こうなると、二人は身分の差も忘れて、はしゃぎあっている。
夢中で笑いあう二人の前で、薫は突然、ふっと座を離れた。
正殿を出れば、左近と右近が従ってくる。
「出ます……用意を」
丹精した夏の花々が咲く庭から空を見上げれば、かすかに黄昏時の気配が漂い出している。空気の匂いが変わる。昼と夜の境が、動いた。
「いよいよにござりますか?」と訊く左近に、うなずく。東対につき、周囲に几帳が立てかけられるなか、するりと袿を肩から落とした。
「お供を」という右近に「なりません」と答える。左近がなにか口を開く前に「あなた達はここで梨壺の宮様をお守りするのです」と命じた。
「これは私が貴仁様に頼まれたこと」
薫は几帳の向こうで袿を滑らせながら、言葉を落とす。
「そのための"道具"も貴仁様が――」
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
都を出た一行は淀川を下り、河口付近で陸にあがったそのあとは、今度は海岸伝いに伊勢へと向かう。
船から降りて用意された牛車は糸毛の女車で、中に誰が乗っているのか、わからないようにしたいという意図が丸分かりのものであったが、貴仁は大人しくそれを乗り、また惟光以下の供揃え達も車の周りに従った。
前後にものものしく武装した侍達が護衛との名目でついたが、これは貴仁が用意したものではなく、朝廷から遣わされたものだった。しかし、船からずっと前後にいる彼らの目は、周囲に気を配るというより、常に貴仁とその供達に向けられていた。誰をなんのために護衛というより、監視しているのが明らかだった。
途中で自分の気が変わって都にでも戻ると思っているのか? と貴仁は、胸のうちでごちた。どうせ殺すつもりなら、護衛などと偽らず最初から賊として現れればよいものを……と、その回りくどさにこそ人の醜さを見る。それでも、物々しい侍達は、その監視のためだけに付けられたわけではないのだろう。
美しい海を眺めながらの道を離れて山中へ、熊野詣の入り口とされる、口熊野の手前で、その侍達は本性を現した。
今から出発しないと次の宿坊には日暮れ前には辿り着かないと急かれての、まだあたりが暗い夜明け前の出発。
松明をかかげた騎馬の群は、自分達一行以外人気のない山道で、いきなり牛車を取り囲んだ。松明を車に投げ込んで、さらには周囲から至近距離で矢を打ち込んだ。その周囲にいる供の者にも容赦なく、皆殺しにした。無抵抗の供をその背後から突き刺し、逃げようとした者も追いかけ切り捨てる。
「なっ!?」
しかし、侍達は一斉に目を見開くことになった。
だが、そのいずれにも手応えはなく、血も出ることもない。彼らは幻のように消えてしまったのである。
「やれやれ、こらえ性がない。せめて、俺が那智大社に着くまでは襲うな、時間稼ぎしろと命じられていなかったのか?」
矢が無数に突き刺さり炎に包まれる牛車の中から声がして、ぎくりと侍達は身体をこわばらせた。その言葉は、彼らが命じられた内容そのままだったからだ。
早く獲物の首をあげて都に帰れば褒美がもらえると、いきり立った武者達は計画を変更して、面倒な山奥になど行く前にここで殺してしまえということになったのだ。
だが、どうして声がする? と彼らは思った。その前に供の者達がどうして消えたのかも、考えるべきであったが、燃えあがる炎、半ばちぎれた簾の下から現れた長身に、彼らは「あっ!」と驚きの声をあげる。
「矢が無数に突き刺さった、黒焦げの死体でも期待したのか?」
その直衣姿には少しも乱れはなく、貴仁が片手を開いて、ぱらりと落としたものに彼らは戦慄した。
それは自分達が射かけた矢だったからだ。
こんな数の矢をすべてこの男は片手で受けとめたというのか?
驚きは恐怖となり、荒くれどもの精神はすぐに暴力に訴えることに直結する。乗っている馬の腹を蹴ってけしかけ、その馬蹄で貴仁を踏み潰し、さらに抜いた太刀で突き刺そうとする。
刹那、貴仁を中心に光が円を描き、空気が震えた。
貴仁を取り囲み、馬の蹄で押しつぶし、太刀で突き刺そうとしていた最前列の者、五つの首が、ごろりと地面に転がったのだ。ついで身体がどさりどさりと地面に落ちて、乗り手を失った馬はいななき、あちこちへと駆けていく。
「バケモノだ!」
「敵わねぇ!」
蜘蛛の子を散らすようにあとの者は逃げた。まったくこんな連中で、自分の暗殺が成功すると思ったのか? と貴仁は苦笑したが、次の瞬間に眉間に皺を寄せる。
いや、もともと失敗することも想定のうちか。
だからこそ、那智大社まで"時間稼ぎ"をしろと言ったのに、こらえ性がない奴らの荒くれ者の性質まで、さて、計算にあったのか。
「惟光」
「はい、バラバラに逃げた侍……とも呼べませんな。あの賊どもにはすべて、管狐をつけました」
惟光の声は、炎と血煙の中でも妙に明るく響いた。
未だ炎をあげる、突き刺さった矢だらけの牛車の下から惟光が這い出てくる。逃げ足だけは早い男だ。
そして、惟光以外の貴仁についていた供揃えはすべて、この男の管狐が化けたものだった。矢を射かけられた瞬間、彼らも元の使い魔の姿にもどったために、消えたように見えたのだ。そして、今はその見えない姿で逃げた賊どもを追い掛けている。どこに逃げようとも、彼らはいずれ捕まるだろうが、今はそれより。
「来たか」
都より、自分達のあとをひそかについてきた、かっかっと蹄の音を鳴らして貴仁のそばにきた黒馬。愛馬の玄王である。
それにひらりと貴仁はまたがる。惟光にあとの始末は任せたと、言い捨てて黒馬とともに空へと舞い上がり、みるみる小さくなる。
「殿ぉ~また置いてけぼりですかぁああ~ひどいですぞぉ~」
惟光の嘆きは山中にこだまし、やがて情けなく消えていった。
とかなんとか文句をいいながら、逃げた賊どもをその地の地頭に手配し、すべて捕縛して三日後にぶうぶういいながら、帰ってきた惟光であった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
その日の夕暮れの都の空は、血のように赤く「なんとも不気味な空だ」と内裏を守る衛兵の滝口の武士達の一人が、そんなことをぽつりともらした。
内裏は承明門を守る彼らの前にそれは現れた。いや、この門だけでなく、東の長楽門、西の永安門の三つの門が開かれて、侵入してきたのは。
「鬼だ!」
「本物の鬼の群っ!」
叫んだ一人は、彼らの圧倒的な力と数の前に押しつぶされて消えた。滝口の武士達は居並び弓を射かけたが、矢が突き刺さろうとも彼らは気にせず、苦痛の呻きひとつ漏らさず、こちらへと進んで来る。
これが暴徒であったならば、それでも踏みとどまり矢を放ち続けたかもしれない。
だが、矢をいくら浴びせても倒れぬ異形を前にしては、鍛え上げた腕も心も、あっけなく折れる。頭に角を生やし、瞳のない赤い目を輝かせ、唇から鋭い牙がのぞく異形の群に、訓練された武士達とて得体の知れない恐怖に足が震えた。一人が逃げ出せば、全員が「退居を」「鬼には敵いませぬ、方々お逃げを!」と叫んで自分達も駆け出す。
当然内裏にいた殿上人達も、これには泡を食って建物の外へと飛び出し、後宮の女達もまた遠くに聞こえる争乱に、自分達の仕える女主人を、それぞれうながして別の門から内裏の外へと急ぎ出た。
その混乱の中で、"帝を守る"という言葉だけが、どこにも見当たらなかった。
いや、ただ一人。
「主上」
「左大臣」
真っ先に逃げ出すだろう男だと思っていたのに、どうして? と今帝は思う。「こちらへ」と先立たれて清涼殿へと向かったのも、気丈に見えても少年帝も混乱していたからだろう。
昼御座の本来自分の座すべき場にいる男の姿に、今帝は目を見張った。
僧形の墨衣をまとってはいるが、その髪は肩につくまでのざんばらで、日が暮れて茜色の光が半分差し込んでいる寝殿の中、なお燃えるような髪の赤のほうが鮮烈だった。
そして、気がつけば自分達の回りを無数の鬼達が囲む壁となっていた。左大臣がその中、前へと進み出て、本来帝が座す場所に片膝を立ててあぐらをかく、男に向かい平伏する。
「本日、たった今より、新帝様、あなた様こそが、この内裏の主にございます」
新帝との言葉に今帝は目を見開く。それを百年前名乗った者は、六条の刑場で処刑されたはずだ。この都と帝を呪う言葉を吐きながら。
そして見鬼の力が今帝に、この男が一度死んで、再び生き返った"鬼"なのだと知らせる。その身にたしかに皇の血が流れていることも。
あの噂は本当だったのだ。
新帝を名乗った反逆者は、当時の帝の落胤であると。
我が子と認めず、父である帝は「あれは鬼子よ」と吐き捨てたという。
「なるほど、見鬼の才か。忌々しい、俺の父である、あの男も、先祖譲りのその才を持っていたがために、俺が母の胎にあったときより見抜き、疎んで自分の身から遠ざけたのよ」
くくく……と新帝と再び名乗った赤毛の鬼は笑う。
「俺の母は身分の低い女官だったが、遠い血筋にあったのだろうな。鬼の血が。だが、その血を呼び起こしたのは母のせいではない、いまいましい皇の血が、鬼の目ざめを呼び起こしたのよ。それをあの男は畏れて、母を遠い土佐の地に追いやった。俺は母の胎を裂くように生まれて母は亡くなった。確かに鬼の子なのだろうなぁ」
あの男とつぶやくたびに、男の瞳には怒りの炎が沸き起こる。己の父である帝への、けして自分を認めなかった父への憎悪が。
幼名は鬼丸、そして仮の名は北辰、今は新帝と名乗る男は、ひたりと今帝を見て「さあ、返してもらおうか」と口をひらいた。
「本来ならば、帝の位は、あの男の長子たる俺のもの。そこに這いつくばって、俺に譲位すると言えば、命は助けてやろう」
「お断りします」
「ほう」
迷うことなく少年帝が告げれば、北辰はふわりと音もなく立ち上がった。背丈は今はここにいない、三条院……貴仁ほどはあろうか。動きは獣のように俊敏で、すぐに今帝の前に立った。太刀がいつの間にか抜かれ、鋭い切っ先が突きつけられる。
それでもたじろがず、真っ直ぐ見据える今帝に「気骨だけはあるとみえる」と北辰はつぶやく。
「それならば、お前の命ここで失うことになるが?」
「かまいませぬ。私がここで果てたとしても、三条院がおられます。あの方が再び帝位へとあがられるならば、この都も国も守られましょう」
今帝の声は震えていなかった。少年の瞳には、ただ己の信じるものだけが映っていた。
そう、ここで今帝が倒れたとしても、貴仁がいるのだ。あの方こそが本来ならば、この国に相応しい強き人だと、今帝は思っている。
まして、さらには得がたい大神の末たる方を、その后へと迎えられた――と、今帝は脳裏に月宮、薫の姿を浮かべる。そして、今はその薫と共に六条の屋敷にいるだろう、梨壺の宮のことも。
二人とも無事で……と思う。これで都を離れている貴仁が駆けつけてくれたならば、二人の身は安全なはずだ――と。
「三条院だと」
ぶわりと男のまとう怒気がさらにふくれあがった。
「あれもまた鬼の血を引くもの。でありながらあれは父に愛され認められ帝となった。あの男と俺とどう違うというんだ!」
血を吐くような叫びとともに、男の感じた理不尽をぶつけるがごとく、北辰がその太刀を振りかぶった。
白刃が振り下ろされるのを、今帝は目を閉じることなく見つめていた。刃が己の身に食い込んでもなお、この現実から目をそらすことはない。
それが力なくとも、今帝とされた自分の務めだ。震えるのは膝ではなく、握りしめた拳だけ――そう言い聞かせながら、少年はただ前を見据えた。




