第十六章 夜明けの別れ
その数日後、夜明け前。まだ空も白まぬうちに、貴仁と、その供までもを含めた武者の列が、ひっそりと都を後にした。
「真夜中のお旅立ちなんて、まるで咎人のようだこと」
「しっ……滅多なことをお言いでない」
内裏の一角で女房達が扇を口許に当て、ひそひそと囁きあう。
本来、朝廷にお咎めを受け都落ちする殿上人は、陽の光の下での旅立ちを許されぬ。夜陰に紛れて密かに出立する――それが慣例だ。
表向きは「代参の旅路」。されど女房たちの目には、どうしても"追い出し"の影が重なって見えてしまう。
今度の三条院――上皇たる貴仁は、今帝の名代として那智大社および伊勢神宮へ代参することになっている。そののち、院の「希望」として、熊野詣や高野山への参詣も続けられる手はずだ。
誰が見ても、都から遠ざけるには好都合な"信心深き旅路"である。
「いつお戻りになられるのかしら。源氏物語の光君の須磨、明石へのご隠棲は、三年ほどで済みましたけれど」
「まさか、このまま高野山に押し込め――いえいえ、御出家なさってそのまま、なんてことは」
「だから滅多なことを言わないの。……ほら、本音が出ているわよ」
女房達は扇をせわしなく開いたり閉じたり、ひらひらとあおぎながら、やけに楽しげだ。
人の不幸や悪口を言い合うほど、世の女房の座敷を華やがせるものはない――と、かつてどこの女史が言ったものか。たしか「春は曙がよい」とか書きつけておられた方だったか。
「しかしまあ、月宮様も、ご運のつたないことでらっしゃるわ。六条の葎屋敷から、三条院のときめくお后様になられたと思えば、また六条へ逆戻りだなんて」
貴仁が夜半に都を発ったのち、夜明けを待って月宮――薫は六条の元の屋敷へと移った。
もっとも今やその屋敷は、かつてのように葎が屋根まで生い茂り、築地塀も崩れた荒れ屋ではない。貴仁の指図により、すでに数ヶ月も前から、往時にもまさるほど美々しく整えられていたのだが――人の目には「戻された」という事実だけが映る。
とはいえ、言う者は言う者である。そもそも彼女達が言いたいのは、薫だけのことではない。
「それを言うならば、梨壺の宮様も、まるで巻き込まれるように六条のお里へお下がりになるなんて」
里とは、本来は父母の住む実家のことだ。
だが、両親を早くに亡くし、祖母たる亡き大宮の庇護のもと育った梨壺の宮には、本来「里」と呼べる場所などない。今帝の寵愛と、三条院たる貴仁の後ろ盾こそが、唯一の寄る辺であったのに。
今回、梨壺の宮が「里」として下がった先が、六条の薫の屋敷である。もともと三条院たる貴仁が後見なのだから、その后たる薫の六条の邸もまた、「里」と呼べなくはない。
けれど当の本人たちにとって、それは決して懐かしき里帰りではない。嵐がおさまるまで、ひとまず身を寄せる避難所に近いものだった。
しかし、よりによってこの時期である。三条院たる貴仁は都を離れ、いつ戻るとも知れない。その后である月宮――薫も、いかに六条の屋敷が美しく整えられていようと、「三条院から出て六条へ戻った」ことに変わりはない。
その六条を、梨壺の宮の「里」とする――人々の目には、それだけで十分に意味深長な取り合わせに映った。
「こうなると、人の運命など本当につたなく儚いものね。あれほどの御寵愛を受けておられた梨壺の宮様まで、主上の身辺から遠ざけられるなんて」
「主上とて、三条院様という後見をうしなわれたら、あとは大臣方に頼るしかないもの。たしか左大臣様の姫君が十三になられて、お年も頃合いだからって、今度ご入内なさるというお噂よ」
女房達のささやきはやまず、都の空には、静かに次の嵐の気配が満ちていくのだった。
「そのあいだに、うちの女御様方にもお通いがあるといいのだけど」
自分たちの仕える女主人にも、なにか幸運が舞い込んではこないか――女房達は、そんな淡い期待をこめてささやきあう。
けれど、梨壺の宮を見送った今帝は、その後しばらく清涼殿の寝所で一人寝を通し、後宮の女達をまとめて落胆させることになったのだった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
六条の屋敷。
薫は自ら東対に入り、本殿は当然のように梨壺の宮の御座所として差し出していた。そのうえで、梨壺の宮が到着された翌日、「こちらからご挨拶にうかがいます」と左近に告げる。
主である貴仁が都を去った今、せめて自分だけでも、礼を失せぬよう筋を通したい――薫の胸には、そんな静かな決意があった。
位からすると、梨壺の宮は三品、薫は二品である。あちらは帝の女御であり宮、こちらもまた宮にして、三条院たる上皇・貴仁の后。
どちらが上か下かと一言で決めがたい立場ながら、位の上ではむしろ薫のほうが上とも言えた。にもかかわらず、薫は当然のように本殿を梨壺の宮に譲ったのである。
そのうえで、梨壺の宮も「こちらでよろしゅうございます」と遠慮を示し、西対に入られたと、左近から報告を受けた。
そこで薫が「こちらからご挨拶に」と申し出たところ、今度は右近がいささか困った顔で取り次ぎにやってきた。
「梨壺の宮様から、こちらにお伺いにいらっしゃると」
薫が考えたのは、一瞬のことだった。
「では、本殿に場をしつらえてください」
左近と右近が「はい」と応じ、さっそく他の女房達にあれこれと指図する。薫はそれに続けて、穏やかに言葉を添えた。
「梨壺の宮様が、どのようなお召し物か、あちらの女房におたずねして」
もし、あちらが礼装である五衣の十二単で現れたのに、こちらが普段着の袿姿では、さすがに無作法となる。逆に、打ち解けた空気をと袿姿で来られたのに、こちらが十二単では仰々しすぎる。
お互いの対屋から出て、真ん中の本殿で顔を合わせる以上、相手の衣装にまで心を配られるとは……と、左近と右近は感心しきりにささやきあった。
「本当に、おっとりしている宮様とばかり思っていましたけれど」
「殿様の奥様として、きちんと場をお整えになられて……頼もしいことですわ」
六条の"葎屋敷"で出会った頃は、どこかぼんやりとした姫君に見えた。その方が今は、后として場を整え、人を立てる側にいる――女房たちには、その変化が嬉しくも誇らしかった。
やがて返ってきたあちらの女房の答えは、「五衣ではございますが、裳は付けない略装にて」とのこと。袿ではくだけすぎるが、裳まで付けては堅苦しすぎる――その間をとった心づかいだろう。
よく気の利く女房たちがついている、と薫は思う。自らも左近と右近に同じく裳無しの五衣を用意させながら、「そういえば、梨壺の宮の後見として、貴仁様が女房達のことも指図なさったと聞いていたな」と、ふと胸中でつぶやいた。
梨壺の宮様は、まだ十四歳。裳着もとうにお済ましとはいえ、まだまだ幼さの残る方だと聞いている。
今帝の命で、六条の屋敷へ下がることになった梨壺の宮は、どれほど心細い思いをしているだろうか。
ここに梨壺の宮を移すのは、三条院――貴仁が、自ら伊勢・熊野へ旅立つ前に今帝へ願い出たこと。しかし、その経緯を当の梨壺の宮はなに一つ知らない。
自分がここにいるのは、「追われた后」だからではない。院と主上が、彼女を守るために選んだ場所なのだ――そのことだけは、きちんと伝えてやりたいと、薫は静かに思った。
正殿で対面した梨壺の宮は、本当に愛らしい姫君だった。聞き伝えのとおり、お歳よりいくぶん幼く見え、その無邪気さこそが、今帝が「可愛らしい」と目を細められる由来なのだろう。
対する薫は、二十七歳の「女盛り」に見えるよう、ささやかな目眩ましをかけている。周りの女房達と同じような体格の女子に見えるように、容姿そのものはそのままでよい――と、左近と右近に言われて。
六条の屋敷へ戻る前に、梨壺の宮との対面は欠かせない。今帝とはありのままの姿で対したが、宮と女房達の目には、さすがにごまかしを入れねばなるまい、という結論に至ったのだ。
そこで薫は、かつてあこぎに言われるまま試して見せた「末摘花」の姿を再現してみたのだが、左近と右近はそろって首を横に振った。
「背丈と体つきだけ、わたくしどもと同じぐらいにしてくださればよろしゅうございます。お顔は月宮様のままで」
身体を少し縮める程度の幻なら、薫にとっては造作もない。それをやって見せると、「そう、それでよろしゅうございます」と、なぜか二人してうっとりとため息をついた。
実際、対面の間に現れた月宮の姿を目にして、「醜女だという噂は、もしかして……」と内心疑っていた梨壺の宮の女房達は、一様に目を見張った。
そこにいたのは、まこと輝く月のようなお方だったからだ。しっとりと星屑を散らしたような黒髪、透き通るような白い肌、切れ長の黒目がちな瞳。
なによりも、その年相応の落ち着きと、宮らしいおっとりとした気高さが、見る者すべての息を呑ませた。
梨壺の宮の女房達の目には、それは自分達とそう違わぬ背丈の、たおやかな女性として映っていた。
だが、その中でひときわ目を見張っていたのは、ほかならぬ梨壺の宮その人だった。
少女らしい大きな瞳は、現れた月宮の美しさに圧倒されたまま、やがて、その頭のあたりにぴたりと留まる。
まるで、見てはならぬものを見てしまったかのように、それでも気になって仕方ないといったふうに、扇越しにちらちらと視線がのぼってくる。
その目線は、ほかの女房たちよりも確かに高く、本当の薫の背の高さをきちんと捕らえていた。
ああ……と、対面の座に静かに膝を揃えながら、薫は胸の内でつぶやく。
この方もまた、今帝と同じく"お見え"になるのだ。見鬼の才をお持ちなのだ、と。
だからこそ、今帝はこの姫に惹かれたのだろうか。
たしか、最初にお目を留められたのは、今帝がまだ東宮で、貴仁が帝位にあったころ――と薫は聞き及んでいる。
梨壺の宮は、もとは伊勢の斎宮であった。十一の折に選ばれ、伊勢へ下る前、内裏に挨拶に参上したとき――その愛らしい姿が、当時春宮であった今帝の目に深く焼きついたという。
その気配を察した、時の帝たる貴仁は、異例とも言える二年ほどの短さで次の斎宮と交替させ、自ら後見となって、梨壺の宮を春宮の女御として都に呼び戻したのであった。
帝としての義と、親族としての情――そのどちらも捨てきれぬままに、貴仁は幼い姫を都へ呼び戻したのだと、薫は密かに知っている。
だからこそ、今こうして六条の屋敷に迎えるこの少女を、なおさら粗略には扱うわけにはいかない、と。
あまりにも梨壺の宮が呆然と薫を見つめ続けるので、背後に控えた女房が、たしなめるようにそっと何事かささやく。
はっと我に返ったように「し、失礼しました」とうつむく梨壺の宮に、薫はにっこりと微笑み、「よろしいのですよ」とやわらかく返した。
「梨壺の宮様は、主上と同じ景色を見てらっしゃるのですね」
そっと告げれば、それだけで言葉の意味は女御の宮に通じたらしい。こくりとうなずいた大きな茶の瞳が、じわりと涙でにじみ、薫は思わず目を見開いた。
「主上は、しばらく月宮様のおそばにいるように、とおっしゃいました。内裏は騒がしくなるから、あなたはしばらく里で休みなさい、と……」
そこまで言うと、梨壺の宮は「だけど、わたくしは主上のおそばにいたいのです」と、ほろほろ涙をこぼす。付き従う女房があわててなだめようとするが、薫は静かな視線でそれを制し、そっと首を振った。
この姫宮が、これほどあけすけに自らの心情をこぼしたのは、薫の「真」の姿が見えているからだろう。
伊勢の斎宮を務めたこともある姫宮なのだ。祖なる神への想いもひとかたならず、その遠き血を映したような薫の姿に、すがりたくなるのも無理はない。
「梨壺の宮様。では、私がおそばにおります」
薫はそっと身を滑らせるように、泣きじゃくる梨壺のすぐそばへと寄った。涙に濡れた幼い顔を見つめ、やわらかな微笑みを浮かべる。
「三条院様は、必ずお戻りになると、私に約束してくださいました。主上もまた、梨壺の宮様のお身をご案じになってこそ、この六条にひとときお下がりなさいとおっしゃったのでしょう」
――院も帝も、決してあなたを捨てたわけではない。
そこまで言葉にはせずとも、薫の声と仕草は、その思いをやわらかく伝えていた。
だからこそ、お互いの大切な方を信じて――と、薫は言外に告げる。
梨壺の宮はこくりとうなずき、「わたくしも主上を信じておりまする」と小さく口にしたものの、ふたたび感極まったのか、今度は薫の膝に縋りつくようにして、ひっくひっくと肩を震わせた。
初対面にしてはいささか近すぎる距離に、梨壺の宮付きの女房たちは、右へ左へと視線をさまよわせ、どう振る舞うべきか迷っている。
だが薫は、その様子にもゆったりと微笑み、「よろしいのですよ」と目で合図し、そっと首を振ってみせた。
膝に伏して泣き続ける梨壺の頭を、薫がそっと撫でる。すると、姫はようやく顔を上げ、涙に濡れた瞳のまま、微笑みをこぼした。
「月宮様は、お優しくて……大宮のお婆様によく似ておいでです」
この言いように、今度あわてふためいたのは梨壺の宮付きの女房たちである。これでは、月宮――薫が大宮と同じほどの年嵩の婦人であるかのようにも聞こえてしまう。
けれど当の薫は、そんなことは少しも気にとめず、くすりと笑ってみせた。
「私は、そんなにお婆さまに見えますか?」
と問いかけたのも、軽い冗談のつもりである。
「いいえ、月宮様はお若くて、美しくていらっしゃいます!」
ようやく自分の言葉の危うさに思い当たったのか、梨壺の宮はぱっと顔を上げると、あわてて薫の白い手を両手で包み込んだ。
「お顔は覚えておりませぬが、月宮様は……わたくしのお母様のようです」
続けて、「主上も、三条院様は父様のようで、月宮様は母様のようだとおっしゃっておいででした」と、はにかむように打ち明ける。
父と母――血のつながりではなく、約束と庇護と、幾つもの夜を共に越えてきた者同士が結ぶ「家族」。その言葉が、薫の胸の奥に、じんと温かな痛みを残した。
「三条院様は、少し怖くて……たしかに本当の父様のようです」
「院が、ですか? 貴仁様は、私にはとてもお優しい方ですけれど」
薫が思わずきょとりと目を丸くして答えると、梨壺の宮は、少しませたような表情で口元をゆるめた。
「それは、夫というものは妻に甘いものだと、少将の君に聞きました」
自らの女房の名を出してそう告げる姫に、薫は「なるほど、学びました」と返し、二人は顔を見合わせて、ふわりと笑みを交わしたのだった。




