第十五章 災いの噂
"鬼"の噂は、今日も都を蛇のように這う。
そしてその火種は、ただ恐怖を撒くだけでは終わらない。
噂が集まり、言の葉の刃が立ち、やがて――都は自分で燃え始める。
内裏も、その外である都も、人々が集まればその噂をささやきあい、ついには……。
鬼を見た者も、見ていない者も、それぞれの恐怖と憎しみを、名も姿も一つの「鬼」に塗り重ねていく。
その朝、一つの落書が、三条院は朱雀大路に面した築地塀に張られていた。すなわち、都を騒がす鬼の正体は、この館の主……三条院であると。
落書はすぐに館から出てきた家人によって回収されたが、それは当然のように、たちまち都の人々の知るところとなった。
だけでなく、その翌日にも、さらにその翌日にも落書は続き、やがて真似をする不埒者も現れ、その数を増やし。
ついには──。
「放せよ! 放せよ! おいらがなにしたっていうんだ!」
「お前、このお屋敷に石を投げようとしただろう?」
都を見回る検非違使に首根っこを掴まれて、少年はパタパタと暴れる。早朝の三条院の、朱雀大路には面していない横道であるが、それでもザワザワと人々は集まってくる。
「鬼の住み処に石を投げてどこが悪いっていうんだ!」
「なんとおそれおおいことを、ここは先の帝である三条院様のお屋敷であるぞ!」
「うちの父ちゃんは、出くわした鬼に足をやられて、しばらく働けなくなっちまったんだ! 鬼に鬼と言ってどこが悪い! みんながここに鬼がいるって言っているんだ!」
少年の怒りは幼く、しかし切実だった。彼にとって"鬼"とは、父親の足を奪った得体の知れぬ痛みの名に他ならない。
わめく子供を検非違使達は縛り上げて連れて行こうとしたが、屋敷の中より出てきた男が「こら」と鋭く声をかける。
「その童はこちらで預かる」
「し、しかし、この者は院のお屋敷に無礼をはたらこうと……」
「だからだ。こちらのことはこちらで始末する。よいな」
「それとも無位の検非違使の手先ごときが、この五位の惟光に逆らうか?」と言われて、彼らはたじろぐ。検非違使とは言われていても、その手先として私的に雇われたり、元は街のごろつきだったような者も混じっているのだ。
しぶしぶと縛り上げた少年の身柄を渡され、「さあ、入れ」と惟光は脇の門より、首根っこを掴むようにして彼を中へ入れた。
少年は今さらながら怯えていた。検非違使の下級役人には、あんな生意気な口をきいたものの、あのまま捕まっていたならば、自分は牢屋に放り込まれて、家族だって同様な目にあっていたかもしれない。
今は"鬼の巣"と考えている屋敷に連れ込まれて、このまま自分は食われてしまうのではないか? とガタガタ震えていたが。
「これに懲りて無茶な真似は、金輪際やめるんだな、坊主」
「え?」
惟光に縄を解かれて、この男についていくようにと言われる。下男に視線だけでついてくるようにうながされ、見たことも無い広いお貴族様の庭と屋敷の間をぬけて、反対側の門の前に出た。
(殿なら、きっとこうされたろう)と惟光は内心でつぶやきながら、少年の背中を軽く押した。
「まだ、検非違使がうろついているかもしれないから、朱雀大路には出るなよ。このまま、小路を進んで家に帰れ」
門が開かれ、戸惑う少年の手には「持っていけ」と大きな包みが押しつけられた。そして下男は「このことは誰にもしゃべるなよ。怖い鬼がお前をとって食うかもしれないからな」と、くひひっと笑う。その顔は、なんだか狢に似ているような気がした。
「怖い鬼」は、さっきまで自分を助けてくれた屋敷の主であるかもしれない――そんな混乱する考えに、少年はまだ名前を付けられない。
門の向こうに身体は押しやられて、扉はぱたりと閉まる。少年は我に返ると、小路を真っ直ぐと駆けて家に帰った。
渡された包みを開くと、父親が働けぬ今、家族が当分困らないほどの米に塩、それに傷薬まではいっていて、少年は「鬼なんて言ってゴメンなさい」と涙した。だが「話してはいけない」という、あの下男の言葉を思い出し、家族にはこれをどうしたのかは、けして話すことはなかった。
噂は「鬼は人を斬る」と語り継ぐが、この朝ひそかに行われた情けについては、誰一人口にせぬまま、都のどこにも残らない。
「鬼なんかじゃない、神様にもらったんだ」
少年は、家族には"内緒"だとだけそう話した。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
少年のあとも、屋敷になにかしようとする愚か者はあとを立たなかった。そのたびに惟光が屋敷の外に出て、検非違使に捕まりかける者達を回収して、屋敷の中を素通りさせ、裏道の門の外へと放り出した。
そのときには、あの少年に持たせたものと同じように米や塩を、ぼろぼろの衣をまとっているような者には、衣を与え、さらにかならず彼らは口止めされた。
「話せば恐ろしい鬼が来るぞ」
と。
「なぜ、口止めを?」という惟光に、貴仁は面白くもなさそうに答えた。
「三条院で情けをかけられたなどと、その者が話してみろ。本当に夜に鬼がやってくるぞ」
三条院の悪い噂を広めるのが彼らの目的なのだから、良い話などしてもらいたくはないのだ。口を滑らせなどすれば、逆にその者達の命が危ない。家族もだ。
「とはいえ、そのお情けのせいで、今度は『三条院に入れられた者は、二度と出て来ない』という話になっているようで」
「なるほど、屋敷に連れ込まれた者は鬼に食われたとでもか? まあ、悪く言われるだろうことは、予想の内だ」
そんな惟光と貴仁の会話に……几帳の向こうから「貴仁様」と、心配げな声がする。薫だ。
「俺は、なにを言われようと平気だ」
するりと貴仁は、その几帳の向こうへと行く。まったく惟光であろうとも、普段は他の男に薫の姿を見せたくないとばかりに、こうやって几帳で囲む。左近と右近も心得ていて、その几帳を立てかけたのは彼女達、薫つきの女房だ。
そして、几帳越しに、その白い手を貴仁が取るのが見えた。
「噂好きの貴族共や、都雀がなにをさえずろうと、構うものか」
「俺は、そなたにだけ嫌われるのが恐ろしい」と続くのに、惟光は遠い目になった。
都中の女妖や土地女神をちぎっては投げ、ちぎっては投げされていたお方が――。
そんな姫君に甘い言葉一つかけることもなく、そこがまた良いと……「ひと夜だけでもお情けをいただけたら幸せ」……なんて言われていた酷い男が。
今は、たった一人の妻(男)の手をとって、「こんな声出せたのか?」というほどの甘い言葉をささやいている。
「貴仁様を私が嫌うなんて、ありえませんわ」
答える薫はおっとりと純真だ。
だが、その黒髪の上の耳が、わずかに伏せられた。
都のざわめきが、風に混じって届いたのだろう。かすかに痛みを堪えるような表情に、貴仁は安心させるように、その白い手に口づけた。
「そなたは私が守る」
「……私も貴仁様をお守りしたい」
「ありがとう」
自分がどう言われようと構わぬが、この手だけは失いたくない――その覚悟は、口には出さずとも貴仁の胸の底にあった。
しかし、三条院で寄り添う二人とは裏腹に、都に吹き荒れる悪い噂の嵐は止むことなく。
当然、そのざわめきは今帝の耳にも届き、それは若き主上の胸を曇らせる憂いとなることとなった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「院がそのようなことをされるはずがない!」
「もちろん、私もそう考えております」
清涼殿。昼御座には今帝が座し、離れた廂には左大臣が控えている。
「しかし、噂というのはまこと怖いもの。根も葉もないことでも、口から口に語られるうちに、それが"まこと"のことだと思い込む。毒のように人心を惑わすものにござりまする」
「すでに三条院の築地塀に、不心得者が、主上のお耳にいれるのも忌まわしい落書を貼り付けております」との左大臣の言葉に、今帝はぐっと唇を噛みしめる。
「朝廷の名でふれを出して、人心を鎮められないか?」
「おそれながら」と左大臣は平伏し。
「噂とは、否定すれば否定するほど、本当のことだと人々は信じたがるものにございます」
つまりは逆効果だと言われて、今帝は「では、なにもするなというのか?」と、穏やかなご性格にしては珍しく苛立ったように言う。それにひっかかったとばかりに、左大臣は俯いたまま、ひそかにほくそ笑む。
「いえ、このままでは三条院への落書は酷くなるばかり。投石騒ぎも起きているとお聞きしております」
「投石? 院の御所にか!?」
信じられぬという顔をする今帝に、「まこと恐ろしいことで……」と言いながら。
「このままでは石どころか、付け火ということもありえます」
「そのような……あそこには院だけではなく、月宮もおられるのだぞ」
火は最も恐ろしいものだ。この内裏とて幾度も火事に見舞われ、そのたびに内裏を再建してきた歴史がある。都も大火に見舞われたことは、二度や三度ではない。
「三条院様の身と月宮様もお守りするため、ここは院にひととき都を離れて頂くのが、よろしいかと」
「これは私の一存ではなく、すべての大臣と大納言、中納言、少納言、参議の合議にござりまする」と、左大臣は再び平伏して奏上した。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「私に、主上の代わりに那智大社に代参しろと?」
「はい、その後には伊勢にも参られ、さらには高野に熊野なども、ゆるりとめぐられるとよろしいでしょう」
今帝により内裏へと呼び出された貴仁だったが、それは公式な使者を立てたものではなく、ひそかにやってこられるように……という内意であった。今帝との対面の場も清涼殿ではなく、後涼殿の一角に特別にしつらえられた場であった。
四方を几帳に囲まれて人払いはされている。そばに女房一人さえ置かないのは、それだけ今帝に内密の話があるということだ。
いや、今帝とわざと二人きりにしたのだろう。この少年帝には貴仁が弱いと、計算の上で。
「それは、主上の御一存でお勧めになられることですか?」
「大臣以下、すべての者達に相談致しましたが、これが院をお守りするのに最善と判断いたしました」
「…………」
なるほど「すべての者の意向」ときたか――と、貴仁は内心で冷ややかに笑った。脳裏に浮かぶのは、何も成さず何も語らぬと評判の左大臣の、あのしたり顔だ。
今帝にさえ、自分がひねり出した策だとは決して言わせない。あくまで「帝と、ともに政を預かる大臣から参議に至るまでの総意」。そう言われてしまえば、どこの誰の顔も見えなくなる。
「院よ、私は院のことを欠片も疑ってはおりませぬ。ですが今は、院だけでなく、月宮様をお守りするにも、一時にしろ院がこの都から離れられるのが一番かと」
まっすぐな眼差しでそう言い切る少年帝の、その真摯さえも利用するとは――と、貴仁は胸中で舌を打つ。
これが自分を都から遠ざけようとする誰かの策であることなど、とっくに分かっている。それでも「院のため」と今帝自らに言わせれば、自分がそれを退けられぬことまで、計算づくなのだろう。
たしかに今は、噂の中心である自分が都から離れるのが一番ではあろう。
もしここで今帝の嘆願を突っぱねれば、待っていましたとばかりに、呪詛を込めた火矢が三条院をめがけて放たれるだろう。
それが叶わねば、今度は煽られた都人が「鬼退治」の名のもとに暴徒と化し、三条院へ押し寄せるかもしれない。
そうなれば、おそらくは「鎮圧」の名目で大臣達に差し向けられた検非違使共が待ち構えていよう。民をその場で斬り捨て、捕らえた者は見せしめに処刑――そんな筋書きも、いくらでも描ける。
そうなれば怒りの矛先は、鬼と噂される三条院ひとりに留まらない。それを庇い立てすると見なされた朝廷、ひいては今帝の御代そのものへの非難へと変わる危うさがある。
都を護るために振るってきた剣が、今度は都そのものを両つに割る刃となる――その未来だけは、どうしても避けねばならない。
貴仁は静かに目を閉じ、ひとつ息を吐いてから、己の答えを待つ少年帝を見据えた。
「……わかりました。しばらく、ゆるりと伊勢参りへと向かいましょう」
それは決して、気ままな行楽の旅などではない。鬼と呼ばれた己が都から身を引くことでしか、守れぬものがあると悟ったうえでの、静かな退き際だった。
今帝の顔に、ぱっと安堵の色がひろがる。
「ええ、帰られたときには、きっと都も落ち着きを取り戻しているでしょう」
「はい。そのためにも、主上にいくつか、お願いがございます」
「院の願いならば、なんなりと」
「では――一つ、二つばかり」
その声色は穏やかでありながら、都を護るための布石を打つものだった。




