第十四章 連鎖する災厄(前編)
京都、大原の山中に、三つの草庵がある。正確には並んでいるわけではなく、広大な竹林の中に離れて点在しているのだが、本人達が御仏の教えにちなんだ名を付けたそれらは、まとめて"望月庵"と呼ばれている。なんとも皮肉な呼び名だ。
そう、三つの草庵は、かの二条藤家の三大臣が出家して移り住んだものだった。彼らは、いまや念仏三昧。互いの庵から聞こえる経文に、張り合うように声をあげている。
さて、いくら念仏をあげたところで、いまさら御仏の功徳など積めるものか――というのが、この望月の三入道に対する都人の評だった。
彼らが葬った宮家や貴族、その陰で虫けらのように消された名もなき人々のことを思えば、なおさらだ。
そして――望月の三庵を襲った"それ"は、功徳どころか、悔い改める暇すら与えなかった。
「……しかしなあ、まさか、あんなことになるなんて」
「いい気味とは言いにくいねぇ。たしかに評判はよろしくない方々だったけれど」
「じゃあ、俺が言ってやるよ。罰が当たったんだ」
「こら、そんなことを言うと、あんたにこそ仏様の罰が……」
「だから、その仏罰だって話もあるぜ。地獄の鬼の使いがやってきて、首を刎ねたってよ」
「やめてよ、想像もしたくない」
「内裏じゃあ、再びの望月の変と言っているらしいぜ。御堂に転がる、満月を思わせる首が三つ……」
――小坊主が見たという光景は、満月の夜より白く、冷たかった。
ある日、三人が集まる御堂から読経の声がしなくなったことを不審に思い、世話係の小坊主がそっとのぞいて、腰を抜かして悲鳴をあげたのだ。
そこには、読経の姿勢のまま崩れ落ちた三つの体と、そのそばに転がる三つの"首"があった。覆い被さる衣の裾越しでも、見るに堪えぬ有様だと分かる。
血はすでに乾き、円を描くように並んだそれは、まるで満月の夜を思わせる、不気味な光景だった。
そのとき、小坊主は見たという。
御堂の闇の奥から、ふっと金色の瞳が光り、直衣姿の、美しいとも恐ろしいともつかぬ"何か"が、静かに背を向けて去っていくのを。
その双眸は闇を切り裂くようで、ただ一度目にしただけで忘れられぬほど鮮烈だった――と。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
宮中では。
「聞きましたか? 再びの望月の……」
「さて、お恨みを受けた数を数えたら、とても一〇八の煩悩の数では足りない方々でありましたからなあ。いくら、嵯峨野に庵を結ばれて仏道三昧とて、それだけでは許せぬ者達も、少なからずおりましょう」
「いつかは……と思っていた」と……まあ、そんな空気が、噂する殿上人達の間に流れる。
「とはいえ出家された御坊を害するとは、おそろしい」
「人の所業とは思えませんな。都の下々はあれこそ、逆に仏罰だと申しておるそうですが」
「地獄の閻魔の鬼が迎えにきたと? しかし、その鬼の正体とは……まさか……三条の……」
「しっ! 滅多なことをおっしゃるな!」
「……しかし"金色の双眸"という噂、あれは確かに――」
殿上人は声を潜めてささやきあう。噂は形を変えながら、静かに内裏の廊を這い回っていった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
しかし、怪事はこれだけではなかった。
都のあちこちに"鬼"が出没するようになったのだ。
かまいたちのごとき早さで、その腕や手を太刀で斬られる。
斬られた者は増えるのに、死人だけが出ない。
「鬼は遊んでいる」
「斬って、怯えを撒いている」
そして傷つけられた者達はみな、口を揃えて言うのだ。
金色の瞳、黒い直衣姿の、それはそれは恐ろしいほどに美しい鬼にやられたと。
その鬼は三条のあのお方に違いないと……。
噂は火よりも早く、風よりもたやすく広がっていった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
そして、今夜も……。
「ひっ! あっ! こ、来ないで!」
女は転げるように走る。辻を曲がって逃げたその目の前に、金色の双眸と光る太刀が現れた。
斬られる――と思った瞬間、ふわりと風が吹き、鬼の姿が掻き消える。夜更けの湿気を裂いて吹き抜けたその風だけが、妙に優しかった。
目の前から恐ろしい影が消えたことに呆然とし、女がぱちぱちと瞬きをすれば。
「お行きなさい」と、男とも女とも取れる柔らかな声が耳もとでした。それに背を押されるように、女はぱたぱたと夜道を駆けて行った。
風が吹き過ぎたあと、足もとにはひらりと、人型の黒い紙が落ちている。禍々しい赤の文字で呪が書かれていた。
そこに滑るようにやってきたのは、車輪に青白い炎をまとったおぼろ車。
その後ろの御簾から檜扇がのぞき、ふわりとあおげば、地面に落ちていた紙が舞い上がり、御簾の中に吸い込まれる。白い手がそれを受け取った。
「……これも、いやな匂い」
おぼろ車のなか、薫はぽつりとつぶやいた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
また、別の都の辻では。
「く、くるな! くるなぁ!」
男がずりずりと尻餅をついて後ずさる。
金色に目を光らせた鬼が、ゆっくりとこちらに歩み寄る。
「ひっ!」
太刀がぎらりと月光を跳ね返す。振り下ろされる、その瞬間を男は見るはずだった。
――しかし、その前に。
鬼の長身は一閃を浴びて、霧のように掻き消えた。闇の中で刃が走った一瞬は、雷光のようだった。
血しぶき一つ上がらず、そこにあったはずの影がすっと薄れ、代わりに後ろから歩み出たのは。
「ひぃいいいぃ!!」
黄金の光を宿してはいないものの、さきほどの"鬼"とそっくりな顔をした男――いや、これもまた人ならぬ者だ。こんな美しい顔をした男が、鬼神でないわけがないと、男は震えあがった。
「鬼ぃ、鬼ぃ、鬼ぃいいいぃぃ!!」
男はさけび、一目散に逃げていった。腰は抜けていたはずだが、あまりの恐怖ゆえか、逃げるだけの力はどこからか沸き起こったのだろう。
「まったく、助けてやって鬼呼ばわりか」
「鬼、いやいや、鬼神様でござると、あの男を追い掛けて言い聞かせますか?」
一の従者である惟光の軽口に、貴仁は「必要ない」と短く返した。
地面に落ちた人型の呪符に目を落とす。それは彼の太刀に斬られて、きれいに二つに割れている。黒い紙に、赤い禍々しい呪が描かれていた。
「式神か。それも俺、そっくりに作るとはな」
「なかなかの術者にござりますな」
「中身ははりぼてだ。人の薄皮一つ斬るぐらいの力しかない」
そう、最初の望月の三入道はともかく、その後は死人は出ていない。ただ、夜道で鬼に出会い、腕や足を切りつけられたと泣き叫ぶ者が増えただけだ。
「……というより、数を作るがゆえに雑になっているか?」
「たしかに、今宵も、ここ以外にもあちこちに出ているようですな」
惟光の足下には数匹の管狐が集まっている。「今宵は五つ」との報せに、「三つは漏れたか」と貴仁は低くつぶやいた。
式神の鬼は、狩っても狩ってもいたちごっこだ。一つ斬っているあいだに、別の"鬼"が別の場所で誰かを斬っている。
そして、また噂が重なる。
噂は火に油を注ぐかのように、さらに広がっていく。
ふうと、貴仁はため息を一つもらした。
「たわいも無い噂など、すべて放置してもいいんだが」
「三条殿が鬼だという噂が、ますます広まりますぞ」
自分がどう言われようと構わぬ――本来ならば、貴仁はそう思っている。だが、その噂が主上と民とを巻き込むとなれば、話は別だった。
都の人々は三条院とは呼ばず、「三条殿」とこの若い上皇を呼ぶ。内裏では畏れられているが、民を労る政は、都人に歓迎されていた。帝の位にあったのはたった五年とはいえ、その後も今帝の後ろ盾としてこの上皇が在ることを、人々はよく知っている。
まだお若い今帝とともに、この良き御代が続くことを、誰もがひそかに望んでいた。
しかし、今は不吉な噂が都に差していることも、また確かである。もっとも、彼が帝であった頃より、その"夜歩き"は有名であり、それ自体は事実だ。
真実は、人を斬る鬼ではなく、その逆――都の闇に巣くい、人に害をなす物の怪を退治して回る夜歩きだったのだが。
だが、良き真実よりも悪い噂のほうが、いつだって人の耳には残りやすい。
「噂など、いくら火消ししたところで、広まるだけ広まるだろう」
人など勝手に噂をするものだと、貴仁は思っている。内裏に巣くう魑魅魍魎より質の悪い殿上人など、噂の奴隷のようなものだ。
「だが、その噂にあおられて、暴動などとなればやっかいだ」
「まこと、いまはただ皆でささやきあっているだけで、すんでおりますが」
いつもの軽口をたたく惟光も、さすがに今ばかりは憂い顔である。
ただの噂ならば放置しておけばいい。だが、貴仁が案じているのはそこから先だ。噂が噂を呼び、世情を不安にさせて、お上への反発を呼び、なにかの拍子で人々が暴徒と化したとしたら――。
流言の火は、ひとたびつけば都人の心を焼くほどに強くなる。
それを力で押さえつけ、民に矢を射るような真似をすれば、お優しい今帝はきっとお嘆きになる。貴仁とて、不毛な噂話の果てに流れる血など、なんとしても止めたいと思っていた。
とはいえ、今のところ神出鬼没のこの式神の出所がわからない。そこがもどかしい。
そこに、青い鬼火を車輪にまとったおぼろ車が滑るように近づいてくる。女房装束の左近と右近が降り立ち、二人に手を差し伸べられて、ふわりと現れたのは、袿に長袴姿の薫だ。
「貴仁様」
「そちらも一つ狩ったようだな」
「はい、いつものようにこのような呪符が」
薫がはらりと開いた扇の上には、人型に切った黒い紙が載っている。そして貴仁の足下に落ちている、二つに裂けた同じ呪符に、薫はその美しい眉間に、めずらしくもかすかな皺を寄せた。
「やはり、同じ匂い……」
「術者の気配は、たどれそうか?」
貴仁が静かに問うと、薫はこくりと喉を鳴らす。
「術者は同じか?」
「は…い……」
薫の声がゆらぎ、あたりの空気がひんやりと反転する。
そのとき、不意に足もとから吸い込まれるような感覚が襲った。「薫!」と貴仁の声が聞こえたが、もう遠い。
意識だけが、別の空間へと引きずり出される。あれは洞穴のなかに据えられた護摩壇。妙なおうとつのある壁――ちがう。そこに埋め込まれているのは、白く乾いた髑髏のようなもの。しかも、その多くが角を持っている。
鬼――!?
血の気が引くほどの悪臭と、熱い護摩火の息づかいだけが、薫の感覚を満たしていた。
護摩壇の前に座す、赤く金属の光沢を帯びた髪の人物が、こちらを振り返ろうとする――が。
「薫!」
ぐいと強く引き戻される感覚とともに、意識が現在に戻る。唇は貴仁に塞がれていて、その息を奪われていた。
「ふぁ……」
銀の糸を引いて、二つの美しい唇が離れる。左近と右近は扇を顔にかざして見ないふりをし、惟光も両手で顔を隠しているが、その開いた指のあいだからは、しっかりと見ていた。
「誘いこまれたか?」
「はい。どこかの洞穴に護摩壇があり、壁にはなにかが埋め込まれて……。すべて人のものではなく、角を生やした髑髏のようで……」
「鬼か?」
こくりと薫はうなずき、「赤い髪の……」と続けた。
「こちらを振り返る、その瞬間に、貴仁様に引き戻されました」
「それでいい。あちら側に、そなたのことは知られたくない」
「はい……」
それは、薫の存在を"見られてはならない者"から守るための、衝動にも似た口づけだった。
そして、遠くて近い都のどこかにあるその洞穴にて、ぽつりと「お顔を見たかったのに、残念だ」と……そんな声が、護摩火の名残りの煙の中に、かすかに響いた。




