第十三章 燃えあがる疑惑
水無月。年の半分の穢れを清める月の末の大祓の五日ほど前に、それは内裏にて密かに行われる。
清涼殿は東廂の東南、床を漆喰で突き固めた石灰の壇。帝は毎朝、ここで伊勢の神宮へと礼拝をする。
だが、今の時刻は深夜。今帝は白の儀式用の袍をまとい、居並ぶのは同じく白装束の陰陽師達だ。壇の一角の穴からは小さな炎が上がり、そこに祈りを捧げる。
いつから、この儀式が行われてきたのか? それはこの都が出来る前からとも言われている。
だが、本来は大晦日の、おにやらい(鬼はらい)の夜に行われていたこれが、水無月の夜にも行われるようになったのは、先の先の先の……さらに先の帝の頃よりとされている。
それより百年。
まだ、恨みはとけないとばかり、ごうっと小さな炎はあがり、揺らぐ。
そして。
炎が跳ねた。
ごう、と一息で背を高くし、蛇のように身をくねらせ――今帝へ向かって飛ぶ。
「主上!」
陰陽師たちの声が凍る。
間に合わぬ、と誰もが悟った刹那。
壁代が翻った。布の向こうから手が伸び、今帝の肩を掴む。
少年の身体が"さらわれる"ように引かれ、背に庇われた。
「三条院!」
少年帝のさけびに、貴仁は振り返らず、ただ不敵に微笑み応える。そして、炎の蛇と化したそれを太刀で切り裂いた。
飛び散る炎はあちこちに燃え移り、陰陽師達が「今度は火が!」と騒ぐ。内裏が燃える! と。
その瞬間。
突如、一迅の薫風がその場を吹き抜けた。
燃えあがる炎が、嘘のように消える。
焦げ跡は残った。だが空気は、朝の空気のごとく澄んでいた。
「今宵は、院が来てくださり助かりました」
「いえ、すでに退位した身。無理をいい、壁代の向こうに控えていてよかった」
そう、儀式には立ち合わないが外にいると、深夜、密かにやってきた貴仁だ。
念のためと言ってよい。近頃は己の周囲で色々と騒がしいことが起こりすぎた。六条刑場のことといい、そしてあの管弦の宴。
そして、今宵の密かな儀式。
「今の風は月宮が?」
まわりで祓いだなんだと騒ぐ陰陽師達に聞こえぬように、今帝がささやくのに、貴仁はうなずく。
「これも万が一と頼んでおきましたが、やはり穢れを祓うには、あれの風が一番のようです」
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
同じ頃。
三条の院に作られた祭壇にて、そこに置かれた銅鏡を前に、祈りを捧げる薫の姿があった。背後には左近と右近が控える。
なにも映していなかった銅鏡の表面に、突如として炎の蛇の姿が映る。それを切り裂く太刀に、断末魔とばかり、あちこちに飛び散る火に、このままでは内裏が炎に包まれるかと思われたが。
薫は銅鏡を見据えたまま、檜扇を開く。
息を吸う。止める。――吐く。
扇を、ひと振り。
鏡へ吸い込まれた風が、向こう側の火を根こそぎ撫で消した。
赤が、黒に変わり、闇だけになる。
「……やはり、嫌な匂い」
ぽつりとつぶやく。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「やれやれ、今回も手酷い」
どことはわからない都にあるだろう洞穴のなか。護摩壇の炎が飛び散り消えた暗闇のなか、北辰はつぶやく。
返された炎が顔に来たため手をかざし、とっさにそれを振り払ったが、その手の平は焼けただれていた。
暗闇のなか、夜目が利く彼はじっと、その己の黒焦げた手を見る。このような傷はどうということもない。
一晩もすれば跡形もなく消える。
しかし、太刀で引き裂かれた蛇の炎を吹き消したあれは。
「忌々しい風だ」
北辰は焼けただれた掌を眺め、舌打ちするように笑った。
だが、目的は"焼くこと"ではない。"恐怖"をまき散らすことは果たせた。
噂が立てば、人が動く。
「防がれるのも予想通り。――それでいい。こちらの火種は、もう都に落ちた」
己の策が完全に潰されたわけではないという確信を、北辰のぬめるような微笑みが現していた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
清涼殿での秘密の儀は、大臣以下の殿上人の参加は許されておらず、また、それを知らされてはいない。しかし常に内裏に宿直する者達が知らないわけがない。当然、今宵の騒ぎもすぐに知れ渡った。
「清涼殿から……」
「清浄なる神前の間がまさか」
ひそひそと、迷信深い殿上人達はささやきあう。
一夜のうちに噂は増えた。
炎の蛇より先に、鬼の影が語られる。
「壁代越しに、角の影が見えたと……」
「院が斬ったと聞いた」
「退位の身が、なぜ主上の秘儀に?」
疑いの火は、主上ではなく"院"へ集まる。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「百年……いまだ恨みがとけぬのでしょうか?」
今帝がぽつりとつぶやく。
清涼殿は夜御殿。今帝は寝所に横たわり、帳一枚隔てて畳を敷いた床、本来なら南・西・北に女房が座す。その北の一角に、太刀を抱いたまま片膝を立ててくつろぐ貴仁がいた。
院に宿直の真似事をさせるなど……と遠慮する今帝に「今宵はあまり眠れそうもないゆえ、横にいさせてもらいたい」と無理を通したのは貴仁だ。しかし、少年帝は明らかにほっとした風であった。
頭を垂れればすぐ届く距離に、いつでも鬼神が座している――その事実が、少年の細い背を静かに支えていた。
見鬼の才に優れるこの少年にとっては、今夜は守り番がいなければ、まんじりとも眠れまい。貴仁とて、この内裏でもっとも清浄であるはずの石灰の壇で起こったことだ。帝の寝所で再びということもあり得た。
「百年は生きてる者にとっては長く感じますが、さて死人にとっては時が止まっているのと同じでございましょう。逆に怨霊からすれば、いつまでも恨みが晴れない永劫なる時とも言える」
貴仁が答えれば「なんと哀れな」と少年帝は、ぽつり……と切ないため息をつく。
百年。そう、たった百年前だ。
この都が反乱の危機に立たされたのも。
これを鬼丸偽王の乱という。
彼は時の帝の子だという噂がある。
帝が春宮のときに手を付けた、身分の低い女房であったと。彼女は春宮から遠ざけられ、四国は土佐を治める地頭へと下賜されたという。
子供の名は鬼丸と伝わっている。燃えるような赤毛に、生まれた時より牙のような歯が生えていたと。
人々は鬼子だと彼を不気味がったが、たくましく育った男は、瀬戸内を荒らす海賊退治で名を馳せた。
彼は都にあがり、内裏を守る滝口武者の官職を求めたが、これを退けられて、さらに遠く坂東の守護を命じられたという。
体よく遠ざけられたのだ。
実の父である時の帝もまた「あれは鬼子よ」と、身分の低い母から生まれた彼を嫌っていたとも。
鬼丸は坂東には向かったが、そこで叛乱を起こした。坂東一帯を一つの国とし、新皇を名乗ったのだ。
だが、それも部下の裏切りであっさりと崩れた。朝廷の裏工作。官位と銭袋で鬼丸を売ったのだ。
彼は抵抗せず、あっさりと捕まった。それは己の命と引き替えに、一族は助命されるという条件だったという。
しかし、朝廷が下した命は非情であった。それは一族郎党すべての処刑。年端も行かぬ幼子まで、六条河原は血で染まった。鬼丸は朝廷と帝に対し呪詛の言葉を放ったという。
「この恨み、百年のちの都まで焼き尽くそうぞ」
その頬には血の涙が流れ、怒りのすさまじい形相のまま。
彼は首を斬られた。
それでこの反乱は終わりのはずだった。
だが、その三日後に六条河原の刑場にかかげられた、偽王……と、新帝を名乗った男に侮蔑の意味を込めて、そう朝廷は呼んだ。その男の首が消えたのだ。
怪異に大騒ぎする都人達だが、さらにはそこに疫病が蔓延し、あろうことか時の帝、偽王の実の父と噂された方までお隠れになった。
さらには春宮まで同じ日に、同じ病で儚くなり、帝の男子の血は絶えた。まわりまわって、僧籍に入っていた四代も前の帝の孫が還俗し、帝位についたのだ。
さて、その帝の縁で、高野の阿闍梨が鎮護国家の法をほどこしたところ、黒い陰の鬼が内裏から逃げていったという。
その阿闍梨が仏弟子でもあった、帝に一つの言葉を残している。
自分が内裏にほどこした法は永劫に続くものではない。あの鬼も力を取りもどし、百年ほどで戻ってくるでしょう。
と。
そのとき祓いに使われた宝剣は砕け散り、帝の守り刀として短剣に仕立て直されたが、いつのまにか行方も知れずとなっていた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
帳越し、貴仁は今帝が寝入った気配を感じていた。さきほどまでは寝返りを打ち、なかなか眠れなかったようだが。
代々の帝のみに伝わる高僧の預言ではあるが、貴仁は今帝にはまだ、この言葉を伝えてはいなかった。少年帝が背負うにはあまりにも不吉過ぎる言葉だ。
「守る」と口にすれば簡単だ。しかし百年前の鬼丸は、ただの"反逆者"ではなかった。鬼神に近い力を持つ存在――そう理解しているからこそ、貴仁は帝の眠りを見守る手を固く握りしめる。
なぜなら、たしかに今、百年の時がたち。
預言が本当ならば、鬼はとっくに戻ってきているはずだからだ。




