↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/20

8、◇来訪者◇

 取り残されて、ティスは膝を抱えて俯いた。


 朝になり、清々しい陽光が射してくる。まだ逃げていないらしい鳥の声も、彼方此方で聞こえる。


 けれども、すっかり憂鬱だった。


 自分が重荷になっていることは、薄々気が付いていた。フェンリルだけなら、多少無理をしてでも崖や谷を越えて行けるのだ。ティスがいるから、出来るだけ平坦で崩れない場所を選んでくれている。そっと、瑠璃の耳飾りに触れた。自分一人では黄金の林檎(イズン)の庭にも辿り着けなかった。


 本当に優しいのだ。


 ぶっきら棒に振る舞うが、気紛れで時には容赦のない神々より、ずっと情け深い。


 何故、一緒にいてくれるのだろう。あの時に、見捨てることも出来たはずだった。

 消え掛けた炎を見詰めて、溜息を吐いた。


 守られてばかりだ。


 姉達も自分を助けようとして、危険を顧みず迎えに来てくれた。ティスの脳裏に、今朝方見た夢の残滓が過った。


 如何して、何時もこうなってしまうのだろう。

 少しでも役に立ちたいのに、結局の所、足手纏いにしかなれない。


 ティスは顔を上げた。陽射しが眩しい。

 フェンリルは何処まで行ったのだろうか。こうしていると、世界で自分だけになってしまったような気がする。途端に心細くなった。


 フェンリルはティスのために、一生懸命になってくれている。

 もし、上手くいかなければ、彼に食べてもらおう……。

 あんな愚かなことを、少しでも思ってしまったのが、恥ずかしい。

 フェンリルに対する侮辱だ。情けなくて、嫌になる。


「頑張らなくちゃ……」


 かさり、と草叢を踏みしだく音に、我に返った。視線を向ける。

 目の端に、細身の影が映った。逆光に、黒ずくめの身形が浮かぶ。


「良かった、早かったのね」


 ティスは、裾に付いた土埃を払った。


「それで、通れそうな道はあったの?」


 言いながら、首を傾げる。人影は、先に立って歩き出す。


「フェンリル?」


 怪(おか)しい。何故、言葉を掛けてくれないのだろう。


「どうしたの?」


 後を追おうと、斜面を駆け上る。突然、フェンリルは動きを止めた。徐(おもむろ)に振り返る。


 ティスは、ハッと息を呑んだ。


 見慣れた端整な顔に、笑みを浮かべている。普段の様子からは想像も出来ない、蠱惑的な微笑だった。けれども、眼差しは冷たい光を帯びている。


 違う。これは、フェンリルではない。


「あなた、誰?」


 彼の姿を騙った何者かは、ティスの方へと腕を伸ばす。咄嗟に身を竦めて、その手を避けた。足元が疎かになった。石に躓き、後ろに転ぶ。


「!」


「伏せろ! ティス!」


 突如響いた鋭い声に、咄嗟に従った。


 フェンリルだ。


 狼姿のままティスの前に降り立つと、尖った爪で相手を薙ぎ払う。それより早く、似姿は飛び退(しさ)った。


「大丈夫か? あいつに妙な真似、されたんじゃねぇだろうな」


 油断なく前方を睨み付け、ティスに問う。


「平気よ、吃驚しただけ」


 安堵と共に、フェンリルの元へ走り寄った。


 やっぱり、あれは偽者だった。


 変だと思ったのだ。フェンリルがあんな風に笑うはずがない。


 不意に、相手の輪郭が揺らいだ。二重写しのように、別の姿が現れる。


 肩に掛る雪のような髪。灰青(はいあお)の瞳。白皙の顔は何処かフェンリルに似ているが、それより遥かに美しい。目尻は柔らかく垂れている。左側に一つだけある黒子が、妖艶な雰囲気を醸し出していた。襞の多い衣装も羽織ったマントも月光のような色をしている。傍から見ても、その神格が途方もないものであることは分かる。


 ティスは驚きのあまり声も出ない。空気が一瞬で張り詰める。


「久しぶりだねぇ、フェンリル。元気そうで何よりだよ」


 場違いな程、甘さを含んだなめらかな声音だった。聞く者の耳を捉えて離さない、そんな声だ。


「何のつもりだ、クソ親父!」


 フェンリルは激昂した。聞き捨てならない台詞に、ティスは目を瞠る。


「ずっと怪(おか)しいとは思ってたぜ。あの根暗な竜が、何で易々と神の宴にやって来られるんだ?」


 父親と呼ばれた何者かは、薄く唇を開いた。


「やっぱり、貴様が裏で糸を引いてやがったな!」


 フェンリルの剣幕を物ともせず、くすくすと愉しげに声を立てる。


「あれは、傑作だったなぁ。フェンリルにも見せてあげたかったよ。皆の驚き慌てて逃げ惑う様……」


 大袈裟に手を叩いて、喜んで見せる。如何にも、莫迦(ばか)にした仕草だった。


「本当に滑稽で、無様だったよ」


 その動きが、ふと止まる。


「まあ、無事に逃げ果(おお)せた者も、いるみたいだけどね」


 ついでのように、ティスに目を据えた。その酷薄な眼差しに、心の臓を掴まれる。


 怖い。


 思わず、フェンリルに身を寄せた。此処にいるのは、厳めしい主神や好戦的な雷神よりも、ずっと恐ろしい存在だ。フェンリルは庇うように、前へ出る。


 すぅっと、白い神の双眸が細められた。


「君と会うのは初めてかな? さすがは、ネルトゥスの秘蔵っ娘(こ)」


 笑っているのに、笑っていない。端整な唇が弓形(ゆみなり)に歪(ひず)む。


「見事なものだね。すっかり手懐けられているよ。そういうのは美神の特権だと思っていたけれどなあ」


 暗にフェンリルを誘惑しているとでも、言いたいのだろうか。

 ティスは驚いて頭を振った。


「違う。わたし、そんなつもりなんて……」


「分かってる!」


 フェンリルは鋭く遮った。


「あいつの言うことに、耳を貸すんじゃねぇよ」


 苛々と足元の地面を抉ると、ティスを背にしたまま吐き捨てた。


「どうせ、全部口から出任せだ。こっちの反応を見て、愉しんでんだよ――何しろ、親父は狡くて邪(よこしま)だからな」


 その言葉に、ティスはハッとなる。


 狡猾で邪悪。

 それなのに、姿形は桁外れに美しい。

 何時だったか、姉達がこんな噂をしていた。


 ――また、武神様を怒らせたわ。


 ――誰かしら揶揄うのよね。


 ――不愉快だわ。


 ――折角の御馳走が、台無しよ。


 ――ねぇ。見た目だけなら、光神様にも劣らないのに。


 ――困ったものね……邪神……。


「……邪神……ロキ、様」


 小さな呟きは、誰の耳にも届かない。


「酷いなあ、それが父親に向かって、言うことかい?」


 ロキは大きく両腕を広げると、天を仰いだ。立ち居振る舞いが、一々芝居掛かっている。


「どの面下げて、言うんだよ」


 フェンリルはさらに凄んだ。鋭い牙を剥き出しにする。


「貴様が要らねぇ火種ばっか撒き散らす所為で、オレ達兄妹(きょうだい)がどんだけ迷惑、被ってるか分かってんのか!」


 感情のまま怒鳴り散らすが、相手は何処吹く風とばかりに、冷笑を浮かべている。薄氷を踏むような空気に、ティスは怯えることしか出来ない。


 不意に、ロキは真顔になった。瞳に愉悦の色を残したまま、ティスを一瞥する。


「今日は、色々と面白いものが見られて良かったよ」


 バサリと音を立てて、その背に翼が現れる。力強く猛々しい、鷹の羽だ。


「また会おうね、フェンリル」


 にこやかに別れを告げると、羽搏(はばた)いた。風が巻き起こり、土埃を舞い上げる。ふわりと身を浮かせ、そのまま飛び去った。見る間に彼方へと消えてゆく。


 ティスは詰めていた息を吐き出した。


 怖かった。

 本当に、恐ろしかった。


「フェンリル……」


 あの時、彼が飛び込んで来なければ、自分は如何なっていたか分からない。ティスのことを、取り逃がしたと言っていた。ゾッとするような美しい笑みを思い出す。改めて、始末しに来たのだろうか。それ以外は考えられなかった。


 似姿に変わったフェンリルは、不自然な程、黙り込んでいる。ティスはその横顔を窺った。色々と訊きたいことがあるのに、何から言えば良いのか分からない。


「あのさぁ、ティス」


 ややあって、ぽつりと呟く。目が合ったと思う間もなく、フェンリルは視線を逸らした。戸惑ったように、首の後ろに手を当てている。


「あんたには悪(わり)ぃけど、正直、オレはどうでも良かったんだ」


「え」


 思いも掛けなかった台詞に、ティスは言葉を失う。


「もちろん、あんたのことは助けてやるさ。今まで、世話になったしな。だけど、神様連中は、気に喰わねぇ」


 足元を見詰めたまま、フェンリルは続ける。


「オレは、あいつ等が大嫌いなんだ。生きようが死のうが、どうなろうと構わねぇよ」


 フェンリルの気持ちも分からなくもない。

 これまで本当に酷い仕打ちを受けてきたのだ。そのことは、ティスだって知っている。こうして一緒にいてくれることの方が有り得ないのだ。


 何か言わなければと思うのに、やはり言葉が出て来ない。


「……」


「でも、今は違うぜ」


 フェンリルはロキが消え去った彼方を見やった。


「あいつの思惑通りに、いってたまるか」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。