8、◇来訪者◇
取り残されて、ティスは膝を抱えて俯いた。
朝になり、清々しい陽光が射してくる。まだ逃げていないらしい鳥の声も、彼方此方で聞こえる。
けれども、すっかり憂鬱だった。
自分が重荷になっていることは、薄々気が付いていた。フェンリルだけなら、多少無理をしてでも崖や谷を越えて行けるのだ。ティスがいるから、出来るだけ平坦で崩れない場所を選んでくれている。そっと、瑠璃の耳飾りに触れた。自分一人では黄金の林檎の庭にも辿り着けなかった。
本当に優しいのだ。
ぶっきら棒に振る舞うが、気紛れで時には容赦のない神々より、ずっと情け深い。
何故、一緒にいてくれるのだろう。あの時に、見捨てることも出来たはずだった。
消え掛けた炎を見詰めて、溜息を吐いた。
守られてばかりだ。
姉達も自分を助けようとして、危険を顧みず迎えに来てくれた。ティスの脳裏に、今朝方見た夢の残滓が過った。
如何して、何時もこうなってしまうのだろう。
少しでも役に立ちたいのに、結局の所、足手纏いにしかなれない。
ティスは顔を上げた。陽射しが眩しい。
フェンリルは何処まで行ったのだろうか。こうしていると、世界で自分だけになってしまったような気がする。途端に心細くなった。
フェンリルはティスのために、一生懸命になってくれている。
もし、上手くいかなければ、彼に食べてもらおう……。
あんな愚かなことを、少しでも思ってしまったのが、恥ずかしい。
フェンリルに対する侮辱だ。情けなくて、嫌になる。
「頑張らなくちゃ……」
かさり、と草叢を踏みしだく音に、我に返った。視線を向ける。
目の端に、細身の影が映った。逆光に、黒ずくめの身形が浮かぶ。
「良かった、早かったのね」
ティスは、裾に付いた土埃を払った。
「それで、通れそうな道はあったの?」
言いながら、首を傾げる。人影は、先に立って歩き出す。
「フェンリル?」
怪しい。何故、言葉を掛けてくれないのだろう。
「どうしたの?」
後を追おうと、斜面を駆け上る。突然、フェンリルは動きを止めた。徐に振り返る。
ティスは、ハッと息を呑んだ。
見慣れた端整な顔に、笑みを浮かべている。普段の様子からは想像も出来ない、蠱惑的な微笑だった。けれども、眼差しは冷たい光を帯びている。
違う。これは、フェンリルではない。
「あなた、誰?」
彼の姿を騙った何者かは、ティスの方へと腕を伸ばす。咄嗟に身を竦めて、その手を避けた。足元が疎かになった。石に躓き、後ろに転ぶ。
「!」
「伏せろ! ティス!」
突如響いた鋭い声に、咄嗟に従った。
フェンリルだ。
狼姿のままティスの前に降り立つと、尖った爪で相手を薙ぎ払う。それより早く、似姿は飛び退った。
「大丈夫か? あいつに妙な真似、されたんじゃねぇだろうな」
油断なく前方を睨み付け、ティスに問う。
「平気よ、吃驚しただけ」
安堵と共に、フェンリルの元へ走り寄った。
やっぱり、あれは偽者だった。
変だと思ったのだ。フェンリルがあんな風に笑うはずがない。
不意に、相手の輪郭が揺らいだ。二重写しのように、別の姿が現れる。
肩に掛る雪のような髪。灰青の瞳。白皙の顔は何処かフェンリルに似ているが、それより遥かに美しい。目尻は柔らかく垂れている。左側に一つだけある黒子が、妖艶な雰囲気を醸し出していた。襞の多い衣装も羽織ったマントも月光のような色をしている。傍から見ても、その神格が途方もないものであることは分かる。
ティスは驚きのあまり声も出ない。空気が一瞬で張り詰める。
「久しぶりだねぇ、フェンリル。元気そうで何よりだよ」
場違いな程、甘さを含んだなめらかな声音だった。聞く者の耳を捉えて離さない、そんな声だ。
「何のつもりだ、クソ親父!」
フェンリルは激昂した。聞き捨てならない台詞に、ティスは目を瞠る。
「ずっと怪しいとは思ってたぜ。あの根暗な竜が、何で易々と神の宴にやって来られるんだ?」
父親と呼ばれた何者かは、薄く唇を開いた。
「やっぱり、貴様が裏で糸を引いてやがったな!」
フェンリルの剣幕を物ともせず、くすくすと愉しげに声を立てる。
「あれは、傑作だったなぁ。フェンリルにも見せてあげたかったよ。皆の驚き慌てて逃げ惑う様……」
大袈裟に手を叩いて、喜んで見せる。如何にも、莫迦にした仕草だった。
「本当に滑稽で、無様だったよ」
その動きが、ふと止まる。
「まあ、無事に逃げ果せた者も、いるみたいだけどね」
ついでのように、ティスに目を据えた。その酷薄な眼差しに、心の臓を掴まれる。
怖い。
思わず、フェンリルに身を寄せた。此処にいるのは、厳めしい主神や好戦的な雷神よりも、ずっと恐ろしい存在だ。フェンリルは庇うように、前へ出る。
すぅっと、白い神の双眸が細められた。
「君と会うのは初めてかな? さすがは、ネルトゥスの秘蔵っ娘」
笑っているのに、笑っていない。端整な唇が弓形に歪む。
「見事なものだね。すっかり手懐けられているよ。そういうのは美神の特権だと思っていたけれどなあ」
暗にフェンリルを誘惑しているとでも、言いたいのだろうか。
ティスは驚いて頭を振った。
「違う。わたし、そんなつもりなんて……」
「分かってる!」
フェンリルは鋭く遮った。
「あいつの言うことに、耳を貸すんじゃねぇよ」
苛々と足元の地面を抉ると、ティスを背にしたまま吐き捨てた。
「どうせ、全部口から出任せだ。こっちの反応を見て、愉しんでんだよ――何しろ、親父は狡くて邪だからな」
その言葉に、ティスはハッとなる。
狡猾で邪悪。
それなのに、姿形は桁外れに美しい。
何時だったか、姉達がこんな噂をしていた。
――また、武神様を怒らせたわ。
――誰かしら揶揄うのよね。
――不愉快だわ。
――折角の御馳走が、台無しよ。
――ねぇ。見た目だけなら、光神様にも劣らないのに。
――困ったものね……邪神……。
「……邪神……ロキ、様」
小さな呟きは、誰の耳にも届かない。
「酷いなあ、それが父親に向かって、言うことかい?」
ロキは大きく両腕を広げると、天を仰いだ。立ち居振る舞いが、一々芝居掛かっている。
「どの面下げて、言うんだよ」
フェンリルはさらに凄んだ。鋭い牙を剥き出しにする。
「貴様が要らねぇ火種ばっか撒き散らす所為で、オレ達兄妹がどんだけ迷惑、被ってるか分かってんのか!」
感情のまま怒鳴り散らすが、相手は何処吹く風とばかりに、冷笑を浮かべている。薄氷を踏むような空気に、ティスは怯えることしか出来ない。
不意に、ロキは真顔になった。瞳に愉悦の色を残したまま、ティスを一瞥する。
「今日は、色々と面白いものが見られて良かったよ」
バサリと音を立てて、その背に翼が現れる。力強く猛々しい、鷹の羽だ。
「また会おうね、フェンリル」
にこやかに別れを告げると、羽搏いた。風が巻き起こり、土埃を舞い上げる。ふわりと身を浮かせ、そのまま飛び去った。見る間に彼方へと消えてゆく。
ティスは詰めていた息を吐き出した。
怖かった。
本当に、恐ろしかった。
「フェンリル……」
あの時、彼が飛び込んで来なければ、自分は如何なっていたか分からない。ティスのことを、取り逃がしたと言っていた。ゾッとするような美しい笑みを思い出す。改めて、始末しに来たのだろうか。それ以外は考えられなかった。
似姿に変わったフェンリルは、不自然な程、黙り込んでいる。ティスはその横顔を窺った。色々と訊きたいことがあるのに、何から言えば良いのか分からない。
「あのさぁ、ティス」
ややあって、ぽつりと呟く。目が合ったと思う間もなく、フェンリルは視線を逸らした。戸惑ったように、首の後ろに手を当てている。
「あんたには悪ぃけど、正直、オレはどうでも良かったんだ」
「え」
思いも掛けなかった台詞に、ティスは言葉を失う。
「もちろん、あんたのことは助けてやるさ。今まで、世話になったしな。だけど、神様連中は、気に喰わねぇ」
足元を見詰めたまま、フェンリルは続ける。
「オレは、あいつ等が大嫌いなんだ。生きようが死のうが、どうなろうと構わねぇよ」
フェンリルの気持ちも分からなくもない。
これまで本当に酷い仕打ちを受けてきたのだ。そのことは、ティスだって知っている。こうして一緒にいてくれることの方が有り得ないのだ。
何か言わなければと思うのに、やはり言葉が出て来ない。
「……」
「でも、今は違うぜ」
フェンリルはロキが消え去った彼方を見やった。
「あいつの思惑通りに、いってたまるか」




