7、■夜明け前■
「何でオレを逃がしたんだ?」
「〝かあさま〟に頼まれたから」
ティスは口癖のように、しばしば〝かあさま〟を引き合いに出す。命じられるまま動いているのだろう。フェンリルはその造り物めいて整った顔を見やった。
「そういや、その〝かあさま〟って誰だよ?」
ニーズヘッグの件で頭に血が上ってしまい、肝心なことを訊くのをすっかり忘れていた。
ティスは首を傾げる。まるで、〝かあさま〟は〝かあさま〟だ、とでも言いたげな表情だ。
フェンリルは苦笑いをした。
「オレの訊き方が悪かった。あんたの〝かあさま〟は、他の神様に何て呼ばれてんだ?」
「――ネルトゥス」
何故か一瞬の間があって、ぽつりと答が返ってきた。
なかなかの大物の名が飛び出して、唖然とした。
雨と豊穣の女神。
確か、耀くばかりの髪を巻き上げ、妖艶な姿態を誇る――否、それは愛と美の女神か。
フェンリルの脳裏に、遥か昔に遠目で見た宴会の様子が過る。大抵の神は若々しく美しい姿をしていて、正直なところあまり区別が付いていない。
「オレに食い物を持って来たのも、〝かあさま〟の指図だったよな」
初めて会った時に、そんなことを言っていたような気がする。
「そう、だけど……」
ティスは如何いう訳か、そこで口籠った。
「それも、ずっと不思議だったんだよな。何でだ?」
「え」
自分を見詰める眼差しが揺れた。
「態々、そんなことをする必要はねぇだろ」
「それは……」
語尾が途中で掻き消える。ティスは俯いた。フェンリルは急いで言葉を重ねる。
「別に、責めてるんじゃねぇよ。そんなこと、今更だしな。ただ、知りてぇだけだ」
「……ごめんなさい」
首を横に振って、口を噤んでしまった。これ以上は言えない、ということだろうか。
「お願い。フェンリル、怒らないで」
おずおずとした声に、フェンリルは呆れたように笑った。
「別に怒んねぇよ、こんくらいで」
今となっては、本当に大したことではない。
ニーズヘッグが暴れて、神々を飲み込んだ。力の均衡がすっかり崩れてしまった。瘴気に覆われ、世界が壊れ始めている。鳥や獣等に影響を及ぼすのも、時間の問題だろう。
思ったより面倒なことになったな、と独り言ちる。すっかり巻き込まれてしまった。
もう直ぐ、夜が明ける。
フェンリルは足元の焚火に、残りの枯れ枝を突っ込むと、立ち上がった。
「道を探してくるぜ」
「え」
「此処まで来るのに、三度も引き返したからな。これ以上、無駄足は踏めねぇだろ」
フェンリルは東の空を眺めた。まだ渦巻く暗雲は見えないが、遅かれ早かれ追い付かれるだろう。あまりのんびりとはしていられない。
「だったら、わたしも」
慌てて付いて来ようとするティスを制して、姿を変えた。漆黒の狼は片頬を歪める。鋭い牙が覗いた。
「心配すんなって、ちゃんと戻って来るさ」
ティスは不安げな眼差しを隠そうともしない。
「それに、あんたがいねぇ方が、早く走れんだよ」




