9、■兄妹■
大地に開いた大きな亀裂を飛び越えて、フェンリルは走る。周囲は草木一本もない荒野だ。所々に瘤もあり、酷く凸凹していた。これでも、幾分か真面な道を探したのだ。
背にいるティスの様子を窺う。フードを被っているため、此方からは表情まで分からない。
その場の勢いで、神々の悪口を言ってしまった。忽ち、青褪めた顔が脳裏に浮かぶ。
可哀想なことをしてしまった。別に、彼女の心を傷付ける気はなかったのだ。
ティスが望む場所に、送ってゆくだけのつもりだった。
〝かあさま〟と会って如何するのかは訊いていないし、特段に興味もなかった。そもそも、〝かあさま〟は無事なのだろうか。例の宴の混乱にどれだけの神が巻き込まれたのか、フェンリルには知る術がない。
それなのに、突然、ロキが現れた。
全部が全部、あの邪神の仕業だったのだ。本当に腹立たしい。
最後の意味深な一瞥を思い返す。如何やら、ティスは目を付けられてしまったようだ。下手をすると、邪魔者として消されるかも知れない。
それにしても、鷹の羽衣まで持ち出してきたのには驚いた。何処までも天高く翔ることの出来る、宝物だ。美神が所有しているはずだが、言葉巧みに騙し取ったのだろう。
今回の一件、相当念入りにお膳立てをしている。
何だか、ややこしくなってきたなと思う。少しずつ、深みに嵌っているような気がする。
「そういや、あんた、親父に会ったことなかったんだな」
フェンリルは訝しげに問う。邪悪と美貌で名を轟かす、あの神を知らないとは、俄には信じ難い。ティスは小さく吐息を漏らした。
「噂には聞いていたわ。だけど、わたし、ほとんど外に出ないから」
微かに身動ぎをしたのが、背中越しに伝わる。
「姉さま達は宴の切り盛りで、何時も忙しくしているけど。少ししか、お手伝い出来ないの」
余程、大事にされているらしい。ロキも秘蔵っ娘だ何だとか言っていた。
ふと、違和感を覚える。それ程までに慈しむ娘を、何故、自分の元へ寄越したのか。
「フェンリル、わたしからも訊いて良い?」
おずおずと切り出されて、フェンリルは首を傾ける。
「何だよ?」
「兄妹って……?」
「あぁ? オレ、三人兄妹なんだよ。弟と妹がいるぜ」
事も無げに応えると、ティスは彼女にしては大きな声を上げた。
「えぇ!? フェンリルって、〝お兄さま〟だったの!?」
「そんなに驚くとこかよ、そこ」
「だって……」
呆れるフェンリルに、ティスは言い淀む。
「って言っても、子供ん頃に別れたっきりだけどな」
「そうなの……」
すっと剣呑な光が、フェンリルの目に宿った。
「主神の野郎に、離れ離れにされたんだよ」
「何て、酷い……」
「そんな顔すんなよ。あんたが悪ぃ訳じゃねぇだろ」
「見えるの?」
「見えねぇけど、分かるさ」
ティスは黙り込んでしまう。別に、彼女が心苦しくなることではない。フェンリルは話題を逸らした。
「先刻の話の続きだけどさ。何でだ?」
「え」
「何で宴に顔を出さねぇんだよ?」
今回の難を逃れたのも、留守番だったからだと言っていた。てっきり、例の件の所為だとばかり思っていたが、如何やら違うらしい。神は皆、ああいうお祭り騒ぎが大好きだ。宴を取り仕切る〝水の乙女〟の一人がそれでは、やはり変なのではないか。
「……怖いもの」
「はぁ!?」
予想外の返答に、フェンリルは上擦った声を出してしまった。
「だって、皆、わたしより遥かに格の高い神様ばかりよ……怖いわ」
「おいおい、嘘だろ!? オレといても平気なあんたが、何言ってんだ」
「フェンリルは違うもの――」
けれども、その言葉を最後まで聞くことは出来なかった。フェンリルの耳が風切り音を捉える。前方からだ。何か来る。
「ティス、喋んなよ。舌噛むぞ!」
素早く跳び上がる。長い鞭のようなものが、目の前を過った。フェンリルを掴み損ねた代わりに、地面を抉る。岩が砕けた。穴が穿たれる。
続けざまの攻撃を二度三度と躱して、少し離れた崖の上に降り立つ。切り立った壁に囲まれた渓谷の底に、何者かの気配がある。
「何だ、ありゃあ?」
初めは、泥の塊かと思った。ごつごつして、所々罅割れている。その隙間から、ぬらぬらとした舌が伸びた。ぎょろりと見上げた目は、正面に二つ、額にも一つある。
三つ目の大蜥蜴が此方を睨み付けていた。
大きい。フェンリルの倍はありそうだ。
「泥棒泥棒……泥棒が来よったわ」
「はぁ?」
突然、謂れのない濡れ衣を着せられて、フェンリルは鼻白む。
大蜥蜴がパックリと口を開けると、鑢みたいな歯が並んでいるのが見えた。
喉が絡んだような、しわがれた声は続ける。
「わしの宝を盗みに来よった」




