5、■黄金の林檎■
如何して、あんなことを言ってしまったのだろう。
ティスを背に乗せながら、フェンリルは何度も自問自答を繰り返した。
確かに、魔法の鎖から解放して貰った。だがそれは、あの暴風から逃がしてやったことで帳消しのはずだ。それどころか、十二分すぎる程だ。
顔馴染みの娘だが、別に恩義を感じていた訳ではない。彼女はただ役目として、食べ物を運んでいたにすぎないだろう。
ニーズヘッグの件には、思う所がある。
けれども、それとは別に放っておけなかった。独りぼっちは嫌だと、泣きじゃくるティスを見て、何とかしてやりたいと思ったのだ。あまりにか弱い娘だ。下手をすると、野垂れ死にすることだって有り得る。ただ、似姿になってまで慰めたのは、我ながら莫迦じゃないかとも思う。
先程の遣り取りも実に頼りなかった。
――で、何処に行きゃ、〝かあさま〟とやらに会えんだ?
――分からないの。
――はぁ?
怪訝な顔を向けると、ティスは慌てたように言い添えた。左耳に触れながら、もう片方の手を伸ばす。
――えっと、あっちの方……だと思う。多分。
――おいおい、頼むぜ。大丈夫かよ。
てっきり、何処か落ち合う場所でも決めてあるのかと思っていた。仕方なく、指示された方角へ走っている。海を避けて、大陸を横切っているのは分かる。それも、宴が開かれた館の場所からすると、納得できる話だ。
周辺は随分と荒れていた。如何やら、あの毒気は随分遠くからでも影響を与えるらしい。罅割れた大地や干上がった川を、横目に通り過ぎる。
何故、宴にいた神々が、呆気なくニーズヘッグに喰われたのか、ようやく分かった。
三日三晩に渡る宴の最中に、悍ましい瘴気にやられたのだ。
主な戰神は、泥酔して眠り込んででもいたのだろう。手も足も出ないうちに、飲み込まれてしまったに違いない。
「フェンリル」
おずおずと、ティスが声を掛けてくる。不意に思考を妨げられて、幾分素っ気ない声が出た。
「何だよ?」
「あの森に行きたいの」
そう言って示した先を、フェンリルは見やった。大きな樹木が一塊になっている。だが、精彩がない。ほとんどが立ち枯れていた。何でまたあんな処にとは思ったが、彼女の望みを叶えてやることにする。
森の入り口で、フェンリルは姿を変えた。重々しい枝振りの樹々を越えるには、こっちの方が楽だ。
ふと、耳の側で誰かが囁いたような、気がした。
(――乙女)
精霊だろう。あまりにも種族が掛け離れているため、普段は意識すらしていない。
(水の、――もう大丈夫)
(……〝水の乙女〟が、来てくれた)
辛うじて聞き取れた精霊の声に、フェンリルはハッとした。
〝水の乙女〟。
神々の宴を仕度する、娘達。
確か、姉妹だったはずだ。ティスはその一人だったのか。何だか急に腑に落ちた。そう言われれば、何時も供されるのは、手の込んだ御馳走ばかりだった。
灰色の森を、ティスは迷いなく進む。まるで、何かに導かれているみたいだ。飛び出した太い根を避けて、フェンリルは後に続く。立派な樹ばかりだが、骨のような枝が目に付いた。花実どころか木の葉すらない。
硬い茨の垣根を越えると、小さな庭が現れた。灌木と丈のある樹々が、見栄え良く配置されている。だが、何れもが萎れていた。
石畳を敷き詰めた水路に、大理石の噴水があった。白鳥を模した彫像がある。嘴から水が噴き上がるようになっているが、水盤は涸れ摩耗している。
庭の真ん中に、素晴らしく大きな樹があった。
一目で此処の主と分かる。今はすっかり葉が落ち、太い枝振りだけの寒々しい姿だ。
ティスは一歩を踏み出すと、被っていたフードを後ろに除ける。
踊るような足取りで――否、踊っているのだ。
ドレスの裾をはためかし、くるりと回る。しなやかに腕が動く。か細い指が、樹々に触れる。爪先で飛び跳ねると、編まれた一房がひらりと舞った。瑠璃色の耳飾りが揺れる。踵が拍子を取るように大地を踏み鳴らした。
空気が、水を含んで重くなった。
滴が光る。きらきらと、陽射しを反射する。
ほんのりと頬を上気させて、ティスは踊り続ける。
何時の間にか、枯れた枝先が芽吹いていた。蕾が綻び花々が彩りを添える。
彼女を中心として、緑が甦ってゆく。白金の髪が花弁を纏い、翻る。
噴水は飛沫を上げ、水路は小さな流れを作る。
細やかな雨が、フェンリルを濡らしていた。
傍らに咲いた花を見やる。名前は知らない。二枚の葉の間から、白い釣鐘が覗いていた。
「〝水の乙女〟……」
これが、その力なのか。
神格がほとんど感じられないからと、些か侮っていた。小さな庭一つに、雨を降らすことなど造作もないのだ。
そう言えば、ティスについて何も知らないことに、今更ながら思い当たる。彼女がしばしば口にする〝かあさま〟のことも、すっかり訊きそびれていた。
ティスが中央の樹に触れた。繁らせた枝葉の合間に、黄金の丸い実が生る。爽やかな芳香が辺りに満ちていた。
林檎の樹だったのだ。
ティスが枝に手を伸ばすと、するりと実の一つが収まった。
「ありがとう」
彼女は微笑んで受け取る。
気が付くと拍手をしていた。ティスが振り返る。
石垣に腰掛けたフェンリルは、感嘆の声を漏らした。
「あんた踊れたんだな」
「八人の姉さまは、もっと上手だわ」
俯き加減に応えるティスに、フェンリルは首を傾げた。
「へぇ、とってもキレイだったけどな」
こういう神の余技はよく分からない。けれども、感じたまま称賛を送る。
ティスは驚いたように、フェンリルを見詰める。光が当たって、蒼の瞳がさらに透き徹った。動き回ったためだろうか、何時もは白すぎる頬に赤みが差している。やがて、慌てたように目を伏せた。
「ほら、お礼にくれたの」
大切そうに胸の前で抱えていた林檎を掲げた。瑞々しい果実は見るからに美味しそうだ。ティスはフェンリルから少し離れて座った。
「ね、一緒に食べましょう」
「いらねぇよ。ティスが貰ったんだ、あんたが喰えば良い」
フェンリルは甘い物にそれ程興味がない。ティスの方が好んで口にするはずだ。素っ気なく断ると、彼女は不思議そうな顔をする。
「だってこんなに大きな林檎、食べきれないわ。半分こにしましょう」
まるで毒見をするように、一口齧った。ほら、と手を伸ばされて、思わず受け取る。仕方なく歯を立てると、口の中に甘酸っぱい味が広がった。
ふと、疑問が浮かんだ。
「そういや、何でこの場所を知ってたんだ?」
ティスに林檎を返しながら訊ねる。彼女は黄金色の皮から唇を離すと、ほんの僅かに考えるような素振りをする。
「えっとね、今まで来たことはなかったわ。本当は、他の女神様の持ちものなの。時々、姉さま達が水遣りを手伝っているのよ」
「そうなのか」
だから、あれ程、草木の精霊が喜んだのだ。フェンリルは納得する。
「すっかり枯れてしまって、気の毒だったから……一番下のわたしでも代役になれて良かったわ」
ホッとしたように笑うと、ティスはフェンリルに頭を下げる。
「だけど、あなたには寄り道をさせてしまったわ。ごめんなさい」
「オレは別に構わねぇよ」
お蔭で彼女のことを、幾らかでも知ることが出来たのだ。
〝水の乙女〟の末妹。
そう言われると、口振りや仕種に、愛情を受けてきた者特有の邪気の無さがある。
これまで、相当、皆に可愛がられてきたのだろう。フェンリルとは大違いだ。
「どうかしたの?」
うっかり物思いに沈んでしまった。問い掛けるような眼差しを避けて、立ち上がる。
「それ喰ったら、さっさと行くぜ。どうも雲行きが怪しくなってきた」
空の彼方に嵐の兆しが見えた。




