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2、◇ティス◇

 山を一つ越え、険しい崖の上にフェンリルは降り立った。娘はその隣で、呆然と目の前の光景を見やる。吹き荒れる嵐に、幾つもの大岩が砕け落ちる。樹々も根元から引っこ抜かれ、あっと言う間に欠片に変わる。重苦しい雲の彼方に吸い込まれてゆくのは、何かの生き物の影だろうか。


「どう、して……」


 如何して、こんなことになっているのだろう。あの場にいれば、自分の身体も千々に裂かれたていたかも知れない。逸早く危機を察して、逃がしてくれたフェンリルには感謝の言葉もない。


「訊きてぇことが、ありすぎるんだよ」


 苛立ちを隠そうともせず、フェンリルは唸った。地の底から響くような低い声と共に、娘を睨み付ける。


「てめえ、何で魔法の鎖(グレイプニル)の鍵を持ってやがった? 〝かあさま〟って誰だ? 誰の命令でオレを逃がした?」


 矢継ぎ早の問いに、娘は戸惑った。


「えっとね、鍵は〝かあさま〟が持って来たのよ。それに」


 不意に娘は動きを止めた。眼差しが虚ろになる。

 皆の気配が、ふつりと、唐突に途絶えたのだ。


「そんな……嫌……」


 脳裏に姉達の声が甦る。


 ――起きて起きて。


 ――〝かあさま〟、早く!


 ――急がないと、ニーズヘッグに食べられちゃうわ。


 ――貴女はフェンリルの元へ向かいなさい。


 ――駄目、もう直ぐ其処まで……。


 ――早く! 隠し通路まで一緒に行くわ!


 ――あなたは急いで。後で会いましょう。


「独りにしないで」


 目の前の景色が歪んだかと思う間もなく、滴が頬を伝う。慌てて拭うが、溢れ出した涙は止まらない。終には堪えることが出来なくなり、両手で顔を覆って泣きじゃくった。


 如何しよう、これから如何なるのだろう、そればかりが頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 ふわりと、髪に触れられたような気がした。娘は顔を上げる。真向いにいたのは、すらりと細身で、精悍な顔立ちの青年だった。


 やや癖のある黒髪に、眦(まなじり)の切れ上がった目。瞳は赫(あか)く燃えている。首に巻いた肩布から爪先まで、黒一色の身形だが、その端整な姿は、娘が見知ったどの若神にも引けを取らない。


 そんな青年が、自分の頭をぎこちない手付きで、撫でてくれていた。


「フェン、リル?」


 あまりのことに、上手く言葉が出てこない。相手はきまりが悪そうに、そっぽを向いた。


「魔力(ちから)を使えば、てめえらの姿に似せることも出来んだよ」


 静寂を縫うような声音。口の悪さは相変わらずだが、思ったより穏やかだった。


「疲れるし、動きづれぇから、あんまやりたくねぇんだけどな」


 何故だか拗ねたような物言いで、目に掛る前髪を乱暴に掻き上げる。


「そういや、名前。まだ聞いてなかったな」


「――ティス」


 一瞬、口籠ってしまった。けれども、フェンリルは気にする風もない。


「泣くんじゃねぇよ、ティス。一緒にいてやるから」


「え」


 思いも掛けなかった台詞に、吃驚して何度も瞬きをした。


 フェンリルは口の端を歪めると、揶揄するように言った。


「あんたには色々と訊きてぇし。側にいてやるよ」














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