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1、■フェンリル■

 

 厭(いや)な風が吹いている。


 それまで、気怠げに寝そべっていたフェンリルは、頭を擡(もた)げた。

 昼を過ぎている。今にも雨が降り出しそうな空模様だった。立ち込める暗雲の向こう、遥か遠くから、ざわざわとした気配が近付いて来る。


 神の国(アースガルズ)の中でも、此処は峻厳な峰の連なる荒れ果てた岩の上だ。始終冷たい風が吹き曝すが、それとは異なる。何だか血腥い。どろどろとした、悪いものを煮詰めたような臭いがする。


 フェンリルは闇のように艶めく毛並みをした巨(おお)きな狼だ。鋭い双眸は熾火の色。爪も牙も氷河を切り出したかのように尖り、その力は主神すらも持て余す。

 嫌な予感に、フェンリルの全身がちりちりと総毛立った。

 ゆっくりと体躯(からだ)を起こすと、ガチンと鈍い音と共に、幾重にも首に絡み付く鎖が邪魔をした。


 〝グレイプニル〟。


 神々が自分を捕らえるためだけに用意した、魔法の鎖だ。動く度に喰い込み、肉を削ごうとする。見事に計略に掛ったと、けらけらと嘲笑う顔触れを思い出す。


 実に忌々しい。


 もどかしい気持ちで歯を立てるが、当然のごとく疵(きず)一つ入らない。何度か無理やり引っ張って、腹立ち紛れに振り払うと、重い鉄の輪が深く地面を穿った。

 足元で小さな悲鳴が上がった。咄嗟に声のした方を見やる。


「吃驚したわ」


 被っていたフードを除けて、人影が息を吐く。ここ暫くで、すっかり馴染みになった娘だった。流れるような髪は白金(しろがね)色で、薄く血を透かした肌と相まって、華奢で儚げだ。つぶらな瞳は晴れ渡った空の蒼をしている。顔立ちは愛らしいのに、寂し気な印象がある。何時も、伏し目がちにフェンリルを窺う所為だろうか。


「悪(わり)ぃ、怪我ねぇか?」


 鎖の先が当たらなくて良かったと思う。


「何しに来た? 今日は当番の日じゃねぇだろ」


 十日に一度、フェンリルの元へ食べ物を運んで来るのが、この娘に与えられた役目だ。

 灰色の飾り気のないドレスに、それよりも濃い色のマントを羽織っている。剥き出しの腕が如何にも寒々しい。


「〝かあさま〟に、頼まれたの」


 ひらりと、手を振って見せた。大振りの黄金(きん)の延べ棒が握られている。否、先端が随分と複雑な形をしている。


 鍵だ。


 娘は鎖の先を視線で辿ると、足元に屈み込んだ。編んだ髪の間で、瑠璃色の耳飾りが揺れる。

 大岩に開いた窪みに、ゆっくりと鍵を差し入れると、柔らかな声音で歌うように呟く。


「音を立てよ猫の足、するする伸びよ岩の根っこ、魚は息を吹き出して、鳥は空に唾を吐く」


 長い間、絞め付けていた魔法の鎖(グレイプニル)が緩む。あれ程、煩わしかった拘束は見る間に解け、如何にか頭一つ分抜けられそうだと分かると、フェンリルは大きく首を振って鎖を外した。


「何の真似だ? こんなことして、良いのかよ」


 自由になったことが信じられない。新手の罠か何かではないだろうか。目の前の娘に凄んだ瞬間、フェンリルの耳が空気の裂ける音を捉えた。


「危ねえっ」


 咄嗟にその前に降り立つと、荒れ狂う風を遮った。娘は勢いに圧されて座り込んでいる。

 あの禍々しい気配がもう近くまで迫っていた。見上げた空は濁り、渦を巻いている。

 此処にいてはいけない。逃げろ、と本能が告げている。

 フェンリルは身を伏せると、暴風に負けないように怒鳴った。


「来い!」


 娘は吃驚した顔で見詰め返してくる。鈍い。何時だって、おっとりとした娘なのだ。苛々と足元を抉ると、フェンリルはさらに言い募った。


「死にてぇのか、早くしろ!」


 その意をようやく解して、娘はひらりと背に飛び乗って来た。さすがに、身は軽い。


「しっかり掴まってろよ。振り落とされても知らねぇからな」


 思い切り地を蹴ると、高く跳び上がった。


 背後で、がらがらと鎖の落ちる音がした。



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