22、◇傷◇
ティスは空を見上げた。
冷たい滴が頬を伝う。集まった灰色の雲から、細い糸のように水滴が落ちてくる。
良かった。
残された力で、何処まで出来るか不安だったが、無事に役目を果たせたようだ。このまま雨が降り続ければ、燃え盛る炎を鎮めてくれるだろう。
安堵した途端に、ふらりと身体が傾いた。地面に倒れこむ寸前に、抱き留められる。
フェンリルだ。
「大丈夫か?」
「ええ」
起き上がろうとしたが、上手く力が入らない。フェンリルに完全に身を預けて、ティスは息を吐く。
「無理すんな。運んでやるから」
抱え直そうとしてくれたその腕が、不意に強張ったのが分かった。
森の奥から、誰かがやって来る。
小人達だ。
フェンリルが警戒の眼差しを向けた。ティスは必死に言葉を探す。もう敵意がないことを示さなければ。再び襲われたら、為す術がない。
真ん中にいるのは、随分と年嵩の女性だった。その後ろに、壮年の男達が続く。ティスは、ホッとした。武器になるようなものは、持ってなさそうだ。
女性はティスに目を止めると、深々と首を垂れる。おっとりとした声が響いた。
「若人が、大変失礼をいたしました。女神様」
「違う、わたしは――」
咄嗟に、否定しようと口を開き掛けて、代わりに咳き込んでしまった。
「わたくしは、この村の長をしております」
フェンリルは訝しげに相手を見詰めたまま、動かない。
女性は掌を差し伸べた。
「よろしければ、その傷、手当てをいたしましょう。どうぞ、此方へ」
何か言いたげに、フェンリルがティスに視線を移す。罠かも知れないと、疑っているのだろう。ティスは大丈夫だと頷いた。相手から悪意のようなものは、感じられない。
「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらうわ」
ティスを横抱きにして、フェンリルは立ち上がる。力を使ったばかりで、まだ歩けそうにない。意地を張らずに、そのまま頼ることにした。
「どうかお許しください。無礼な者達だと、大層驚かれたことでしょう」
村長は先導しながら、謝罪を重ねる。周囲の男達は無言で目を伏せた。
「近頃、木々が枯れ始めているのです。何か悪いことの前触れなのではないかと、皆、気にしていた折でした」
豊かな森のように見えたが、此処にも瘴気の影響が出始めているらしい。早く何とかしなければ、事態は神の国だけに終わらない。
行き着いたのは、森を切り開いて作られた集落だった。丸太を組んで建てられた、こぢんまりとした家が並んでいる。
一際大きな三階建ての館に導かれて、中に入る。設えられた調度も木で出来たものが多い。さっぱりと、小綺麗な部屋だった。
「どうぞ、其方へ」
フェンリルはティスを長椅子に横たえる。幾つもの枕が敷き詰められていた。繊細な刺繍で、草花が描かれている。
ティスはマントの裾で剥き出しの右腕を包んだ。傷口の血は滲む程度になっているが、なるべく周りを汚したくはない。
フェンリルは手を伸ばして、顔に被さったままの乱れた髪を整えてくれた。
その穏やかな眼差しに、安堵する。先刻の獰猛さは、すっかり鳴りを潜めている。
もう大丈夫そうだ。
ティスが口を開くより先に、フェンリルは踵を返した。たじろぐ小人達の間を、通り過ぎる。堂々と振る舞う村長とは対照的に、他の者は恐々とフェンリルを窺っていた。無理もない話だ。
「オレは外に出てるよ」
「フェンリル」
慌てて、呼び止めた。
フェンリルは肩越しに振り向くと、片頬を歪めて笑う。
「心配すんなって、何処にも行かねぇよ」
村長に向き直ると、静かに頭を下げた。
「悪ぃけど、そいつのこと頼んだぜ」
ティスは、ヨルムンガンドの言葉を思い出していた。
――あのさ、ニイサンをよろしくね。普段はあんな風だけど、怒らせると、一番手が付けられないのも、ニイサンなんだよ。
確かに、その通りだ。
あれ程、激高したフェンリルを見たのは、初めてだった。
ティスは俯く。
怖いというより、悲しくなってしまった。
何て、不甲斐ないのだろう。
素っ気ない態度も、ぶっきら棒な口調も、彼の本質ではないことは分かっていた。けれども、フェンリルがずっと身の内に抱えていたものを、自分はまるで気付きもしなかった。理不尽な仕打ちを受け続けて、何ともないはずがない。
どれだけ、辛い思いを懐いて生きてきたのだろう。
〝戰乙女〟との悶着で痛感した。
謂れなき罵詈雑言や、一方的な暴力は身に染みるのだ。
何故、忌み嫌われるのだろうか。
災いの予言のことは聞いている。確かに、途轍もない力を持った魔狼だが、似姿の時はティス達と何も変わらない。むしろ、ずっと端整な容姿をしている。
それに、とても優しいのだ。
鎖で繋いで、自由を奪わなければならない程、フェンリルが悪い存在だとは思えない。
何とか小人との争いを止めなければと、必死だった。呪歌を使う余裕もなく、咄嗟にその牙の前に腕を差し出していた。自分の血を見て、愕然としたフェンリルの顔が脳裏を過る。
彼は武神の腕を噛み千切ったという。今までの言動を思えば、それが本意でなかったことは想像に難くない。
最悪だ。
また、心を傷付けてしまった。
止血の軟膏が塗られた皮膚を見詰めながら、ティスは息を吐く。鋭い牙は、腕を完全に貫いていた。大きな血管に障りがなかったのが、幸運だ。
刺繍が施された枕に、ぐったりと身を預けた。無意識に、耳飾りに触れる。
まだ少し、頭がぼんやりとする。力を使い過ぎた。
小人の長は、手首から肘にかけて白い布を巻いてくれる。
「大変、お疲れでしょう。女神様」
自分は女神ではないと、すっかり言いそびれてしまった。彼等にとって神族は皆、同じなのだろう。
「森の火を消して頂いて、ありがとうございます。我々では、手に負えないところでした」
「あの」
どんな風に伝えれば、良いのだろうか。
「フェンリルのこと……悪く思わないでね」
治療道具を収めた箱を片付けながら、村長は静かに告げた。
「魔法の鎖は、我々の傑作なのです」
ティスは、ハッとその顔を見詰める。真っ直ぐな眼差しを向けられた。
「あの魔狼は、主神様の命で、鎖に繋がれたと聞き及んでおりましたが」
村長が心底不思議そうに、首を傾げた。
「どうして、女神様が共におられるのですか?」
「それは……」
ティスは言い淀んだ。
あまりにも色々とありすぎて、今までの経緯を説明出来る自信がない。
結局、当たり障りのない言葉を返した。
「えっと、訳があってね、助けてもらっているの」
続けて何かを問おうとしたのだろう、村長が口を開いた時だった。
扉が開いて、三人の若者が入って来た。
「村長、ちょっと見て欲しい奴がいるんだ」
両脇を抱えられて、一人が顔を歪めている。フェンリルに振り回された時に、脚を痛めたらしい。
「其方の椅子に、お掛けなさい」
村長が立ち上がる。ティスは思わず声を掛けた。
「良ければ、わたしに見せてちょうだい。呪歌が、使えるかも知れないわ」




