23、■獣■
行く当てもないまま、森の中を彷徨った。ティスにはああ言ったが、正直このまま消え去ってしまいたい。
最悪だ。
小人達に罵声を浴びせられて、一瞬、頭の中が真っ白になってしまった。
何時もならあれくらいで、我を忘れたりはしない。神々に何を言われようと、何をされようと、ずっと耐えてきたのだ。
――ちゃんと、守ってあげてね。
ヨルムンガンドとの約束も破ってしまった。
信じられないような出来事が続いて、少しずつ神経を擦り減らしていたのだろう。
挙句の果てに、傷付けてはならないものを、傷付けてしまった。
必死に自分を宥めるティスを思い出す。ほとんど泣いていた。あんな顔をさせるつもりはなかったのだ。
フェンリルの耳が微かな音を捉えた。軽やかで涼やかな、せせらぎの音だ。何故だか、気を惹かれた。
導かれるように木立を抜けると、小さな泉があった。窪地に清い流れが渦を巻いている。
フェンリルは覗き込む。水面に映る顔は、口の周りが汚れていた。
血だ。
赤い滴は顎を伝い、首筋まで垂れている。其処にあるのは、猛々しい獣の形姿だった。
思わず、ゾッとした。
途端に、喉の奥に苦いものが込み上げる。今まで、全く意識になかった。慌てて顔を洗い、何度も口を漱ぐ。
薄紅に染まった泉の水は、ゆらゆらと揺蕩い、また澄んだ色を取り戻した。
最低だ。これなら、怪物だと罵られても不思議ではない。
――いずれお前達は、我々の大いなる厄災となる。
魔法の鎖で囚われた時、相打ち覚悟なら、もっと激しい抵抗が出来た。自分の力を思えば、主神に痛手を負わせることも不可能ではなかっただろう。
潔く身を引いたのは、弟妹がいたからだ。自分一人だけなら、如何なっても構わない。たとえ、討死にしても本望だ。けれども、彼等が酷い目に遭うのは許せない。
弟ヨルムンガンドは、大津波を呼び、猛毒を吐き散らす。本気で暴れたら、厄介な相手になる。けれども、素直な彼は悪巧みに弱い。いとも容易く雷神に手玉に取られたのが、良い例だ。
妹ヘルは、死者達の女主人だ。冥府では絶大な力を振るうが、一旦外界へ引き出されると、非常に弱い。最後の別れ際に、嫌だ、行かないでと、泣いていたことを思い出す。
ああ、そうか。
何となく、似ているのだ。今更ながらに、気が付いた。
「酷い顔だねぇ。でも、君らしくてお似合いだよ、フェンリル」
突然、水面に別の姿が映った。フェンリルは振り向きざまに、腕で薙ぎ払う。ロキは巧みに避けると、高い樹の枝に腰掛ける。足を組んで、その上に肩肘を乗せた。頬杖を突くと、にこやかに見下ろす。
「それにしても、残念だよ。てっきりあのまま、噛み殺してくれるかと思ったのに」
甘やかな声音で、物騒なことを告げた。
フェンリルは濡れた髪を乱暴に拭うと、距離を取った。
ロキは魔文字の使い手だ。相手に刻むことで、意のままに効果を発揮することが出来る。迂闊に触れられると、面倒なことになる。
「やっぱり、貴様か!」
フェンリルは吠えた。
「〝戦乙女〟も主神の鴉も、親父が嗾けたんだろ?……まさか今度のも」
「嫌だなぁ、誤解だよ。小人は違うさ。彼等は、偶々ヨルムンガンドの姿を見掛けて、吃驚したんだろうね」
フェンリルの怒りを含んだ声にも、あっけらかんとロキは応じる。
「まあ、そのまま何事もなければ、ちょっとばかり、手を回すつもりではあったけどねぇ」
「貴様!」
その剣呑な表情を意に介することもなく、ロキは囁いた。
「ねぇ、戻っておいでよ。今ならまだ間に合うよ」
まるで、良いことを思い付いたとでもいうように、手を叩く。
「そうだ。フェンリルの気が咎めるというのなら、あの娘を差し出すだけで良い」
柔らかに垂れた灰青の双眸が、歪む。
「私が始末してあげよう」
フェンリルは怒鳴った。
「させるかよ!」
ロキは首を傾げる。雪のような髪が、さらりと流れた。心底不思議そうな顔をする。
「分からないなぁ。どうして、そこまで入れ込むんだい? 連中のこと嫌っているだろう? フェンリルは、あの娘が何か知っているのかな」
「〝水の乙女〟だろ。女神ネルトゥスの娘だ」
「〝娘〟、ねぇ」
ロキは何故か意味ありげに微笑んだ。その愉悦に満ちた眼差しに、背筋が冷える。
「まあ、いいさ。君が全てを知った時、どうするのか、楽しみになったよ」
バサリと、鷹の翼を広げた。
「またね、フェンリル」
呆気なく、飛び去ってゆく。
一体、如何いう意味だろう。言外に含みを持たせた言い回しは、何時もの戯言とは異なるような気がした。何だか、胸騒ぎがする。
嫌な予感だけは、よく当たるのだ。
その時、背後の茂みが、音を立てて動いた。咄嗟に、振り返る。視界の隅に、瑠璃の石が揺れた。
ティスだ。
右腕に布が巻かれている。その色よりも白い顔が痛ましい。よく見れば、マントもドレスも所々赤茶色に汚れている。自分の所為で、沢山の血を流させてしまった。
「此処にいたの。随分探したわ」
にこやかに、フェンリルへと蔓を編んだ籠を差し出した。木を刳り貫いた器が二つに、油紙に包まれた菓子のようなものが入っている。
「お礼にもらったの。フェンリルの分もあるのよ」
倒木に腰掛けたティスは、円筒形の器を手渡してくる。なみなみと液体が注がれていた。清々しい湯気が立っている。香草茶だろう。
「冷めないうちにどうぞ。村長が、フェンリルにも気の毒なことをしたって、謝っていたわ」
そうだ、怪我をしたのはティスだけではない。
小人相手に、随分と暴れてしまった。彼女が途中で割って入ってくれたお蔭で、命を奪うまでには至らなかったが、酷いことをしてしまったのだ。
「わぁ、蜂蜜菓子よ。わたし、これ好きなの」
木の実を混ぜ込んだ菓子に、ティスは歓声を上げる。
「後で、花を探すのを手伝ってね。お返しをしなきゃ。籠を置いておけば、取りに来るって、言っていたから」
ティスは無邪気に言う。
如何して、当たり前のように振舞えるのだろうか。
フェンリルは俯いたまま、呟いた。手の中の器を握り締める。
「あんた、一体、何なんだよ」
「え」
「あんな目に遭っても、オレのこと、少しも怖くねぇのかよ」
「だって、フェンリルは悪くないもの」
ハッとして顔を向けたフェンリルへ、ティスは柔らかに告げる。
「あのね。わたしが後先考えずに、手を出してしまったの」
細い指が右腕に触れた。
「この傷は、あなたの所為じゃないわ」
ふわりと浮かべた微笑みに、魅せられた。
ああ、そんな風に笑うから、何とか助けてやりたいと思うのだ。




