21、■魔法の鎖(グレイプニル)■
――いずれお前達は、我々の大いなる厄災となる。
無慈悲にそう告げられて、非難の目が向けられる。
必死に言い掛かりだと訴えても、誰一人、自分の側に立ってくれる者はいなかった。
逆心などないと、幾ら言葉を重ねたところで、無駄だった。
自分達は、何もしない。
そんなことは、微塵も考えていない。
ただ、弟妹と神の国の隅っこで暮らしていければ、十分だ。
どれだけ、言い募っても、ヨルムンガンドとヘルを救うことは出来なかった。
ヨルムンガンドは、冷たい海へ。
ヘルは、暗い地の底へ。
離れ離れにされてしまった。
嫌がって暴れる弟を宥め、泣き崩れる妹を慰めながら、フェンリルは心の中で慟哭した。
大切な弟妹を守ってやれなかったのだ。生きてさえいればまた会えるなどという、甘い考えは初めからなかった。
フェンリルは、神々の監視の下で日々を送るようになった。神殿から遠く離れた峻厳な山に、寝床を与えられる。
其処から動かないようにとの厳命だった。
端からそのつもりはない。どの道、逃げることなど考えられなかった。ヨルムンガンドとヘルに、危険が及ぶ。
吹き曝しの風を避けるため、辛うじて見付けた洞窟を新しい棲み家に定めた。その奥に身を横たえ、フェンリルは目を閉じる。
日がな一日考えることは、遠く離れてしまった弟妹のことだった。
ヨルムンガンドは、ちゃんと食べ物を見付けられただろうか。
ヘルは、真っ暗な世界に独りぼっちで、寂しくないだろうか。
二人と引き離されてから、幾度も季節が巡っていった。最も、荒れ果てた岩山では、何一つ変わりはない。春の芽吹きも、夏の繁茂も、秋の実りも、此処からでは分からない。ただ、冬の時期には深い雪に埋もれてしまう。
決して覚めない悪夢の中にいるようだった。徒に、時間だけが過ぎてゆく。
ある日突然、神々は力試しを持ち掛けてきた。
フェンリルは、その裏にある思惑を察した。
もう自由にしてはおけないのだ。
何時の間にか、彼等が怖気を震う程、フェンリルはさらに巨きくなり、強大な魔力を持つようになっていた。
それ以前に、あの邪神の息子だ。とても信用などして貰えない。
雨露を凌げる洞窟から追い出され、岩山の頂上へ連行された。吹き荒れる風が、冷たい。分厚い被毛すら通して凍えてしまいそうだ。
フェンリルは気が進まなかった。最終的に、良くない結果を齎すことは分かり切っている。
最初は、〝革の縛め〟だった。難なく引き千切ると、〝筋の縛め〟を持ち出してきた。それも、捩じ切った。
〝魔法の鎖〟を見た瞬間、嫌な予感がした。
金属製だろうか、太い鎖が連なっている。最初に嵌められた首枷に似ているが、何より隠し切れない悪意に満ちていた。
もう逃げられない。
彼等は本気だ。フェンリルから、全てを奪おうとしている。
だから、最後の足掻きで条件を付けた。
自分の牙の間に腕を差し出す者がいれば、甘んじて受け入れると。
一瞬、慄き、怯んだ神々だったが、これでは示しが付かないと、武神が名乗り出た。
拘束された瞬間、フェンリルはその右腕を、噛み切った――。
口の中に、何故か林檎の香りが広がったような、気がした。
その違和感に、ハッと正気に返る。
ぬらりと、口の端から果汁が落ちた。地面に赤い斑点を落とす。
否、違う――血だ。
ティスの腕を、フェンリルの牙が貫いていた。
「大丈夫、大丈夫よ……」
今にも泣き出しそうな、か細い声に目を向ける。
「フェンリルは、悪くないわ」
自分の首元にしがみ付くように、もう一方の腕を回したまま、ティスは何度も繰り返す。
「あなたは、何も悪くないの」
「!」
そっと顎を開くと、慌てて似姿に変わった。ティスは解放された右腕を押さえて蹲る。止めどなく血が溢れ、白い肌を濡らす。長い髪が俯いた顔を隠した。
「何やってんだ、ティス!」
危うく、腕一つを落とすところだった。
足元にいた小人は、とっくに逃げ出している。あの状況で割って入るなど、莫迦のすることだ。
否、それよりも、我を忘れてしまった自分が悪いのだ。
華奢な肩に手を置くと、呆気なくフェンリルに寄り掛かった。
「大、丈夫、だから……」
そう言って笑みを浮かべるが、すっかり青褪めている。どう見ても、大丈夫そうではない。
虚ろな眼差しが、フェンリルの背後に焦点を結んだ。つられて、振り返った。泉の畔の樹々が、半ば燃え尽きようとしている。
「そうだ、火」
ふらりと、立ち上がる。
「火を、消さ……なきゃ」
「おい、無茶すんな。そんな身体で」
引き留めようとするフェンリルの手を擦り抜けて、ティスは歩き出した。点々と血が、痕を残す。
炎の舌先は森の奥へと伸びている。
ティスはギリギリまで近付いた。細い指が耳飾りに触れる。
ゆっくりと、両手を空へと捧げた。くるりとその場で円を描き、覚束ない足取りで黒い境界線をなぞる。
飛び跳ねると、長い髪が翻った。
瑠璃の石が、光を反して揺れる。
赤い滴が、花のように散る。
フェンリルは、呆然とその様を眺めた。
何て、綺麗なのだろう。
片足が拍子を取る。
手を打ち鳴す。
編み込んだ一房が、肩先で弾む。
まるで、命を削っているみたいだ。
女神の庭で見た踊りと同じようだが、あの時よりもずっと鮮烈で美しい。
ティスが伸ばした腕を、頭上に掲げた。指先から伝った血が、白い頬に模様を描く。
空気が、水を含んで重くなる。
湿り気を帯びた、風の匂いがする。
ポツリと、空から滴が落ちてきた。
あっと言う間に、地面に濃い染みを作る。
雨が静かにその場を濡らしていった。




