19、■中つ国(ミドガルズオルム)■
フェンリルは唖然とした。
薄々思っていたことだが、ティスは本当に物怖じしない。ヨルムンガンドの鱗に触れると、大樽の蓋より大きいのねと笑った。ヨルムンガンドも、嬉しそうにティスの掌に舌を這わす。彼なりに親愛の情を示しているのだ。
ティスはその口元を撫でた。
「おい」
つい声を掛けて、阻んでしまった。
神に散々痛め付けられた所為で、不用意に触られると怯えるのだ。本能に刻み込まれた恐怖は、一生消えないだろう。
ティスは慌てて手を引いた。
「ごめんなさい。いけないことだった?」
「いいよ、ニイサン。大丈夫」
ヨルムンガンドは嫌がらない。そればかりか、自らティスの肩に鼻先を押し付けた。もっと構って欲しいと、強請っているのだ。
ティスの方も首筋を舐められて、平然としている。
彼の持つ毒牙を知らないはずがない。一筋でも傷が入ると死に至るというのに、ヨルムンガンドの頭に頬を付けて、そっと目の上を撫でている。
「ちゃんと治してあげられたら、良かったのに」
「ありがとう。もう痛くないから、平気だよ」
ここまで甘えるヨルムンガンドを、今まで見た覚えがない。しかも、ティスは女神の娘だ。
「そうだ。ニイサン、先を急ぐんでしょ?」
思う存分戯れて満足したのか、ヨルムンガンドがティスから身を離した。蜷局を巻いた体躯から、頭だけを砂浜に下ろす。
「さあ、どうぞ」
先に飛び乗ったフェンリルは、ティスの手を掴むと引き上げてやる。彼女は感心したように呟いた。
「とても高いのね」
「怖くねぇか?」
「大丈夫よ。フェンリルがいてくれるもの」
フェンリルは、ティスが落ちないようその肩を抱き寄せた。
さすがは、神々をも手古摺らせた巨体だ。波を掻き分け、広大な海を難なく渡る。
「えぇ!? 神様って毎日、そんなご馳走ばっかり食べてるの? ずるいよ、ボクも食べたい!」
本当に、すっかり懐いている。
彼女から宴会で供される料理を聞き出し、一喜一憂していた。まるで駄々っ子だ。
「〝豚肉団子の苔桃煮汁掛け〟、〝鮭の黒胡椒乳酪焼き″、〝鶏の燻製黒麦麺麭添え〟、〝沼酸木の焼菓子〟。おまけに、麦酒! いいなぁ。ニイサンも、食べたことあるの?」
「ああ、分け前は貰ってた」
全部が全部、口にしたことがあるかと問われれば、正直思い出せない。第一、フェンリルは、何となく美味だったことぐらいしか記憶にない。
「フェンリルには、姉さま達が特別に用意したものもあるわ。ユグドラシルの牡鹿とかヒュミルの牛とか」
「牛! まるまる太った牛! 全部食べたい!」
フェンリルは呆れてしまった。
「お前、何時も何喰ってんだ?」
別に食べなくても、餓死にはしないのだ。昔から、喰い意地だけは張っている。
「だから、鯨だよ。でも、アイツ等脂っぽいから、直ぐに飽きちゃうんだよねぇ。焼いたら、また違うのかな?」
ヨルムンガンドは弾んだ声を出す。
「あ、ほら。向こうにあるの、中つ国だよ」
言われるまま正面を向くと、波が打ち寄せては返す浜辺が見えた。ヨルムンガンドは浅瀬まで近付くと、大きな体躯を横たえる。
先に飛び降りたフェンリルは、ティスの手を取った。身の軽い彼女は、ふわりと着地する。
砂丘を越えた辺りは、緑の樹々が固まっている。予想外に深く、生い茂った森だ。
フェンリルの鋭敏な耳は、生き物の気配を捉える。
鳥か獣か。
まだ、この国までは毒されていないのだろう。
ティスは、二歩三歩と、砂の感触を確かめるように歩き出した。何かに気付いたかのように、顔を上げる。瑠璃の耳飾りを揺らして、彼方の樹木に目をやった。
ヨルムンガンドは大きく欠伸をすると、頭の向きを変えた。
「動いたら、お腹が空いちゃった。しばらく眠ることにするよ」
「ヨルムンガンド」
ティスが慌てて呼び止めた。
「送ってくれてありがとう」
ヨルムンガンドは、ちろりと舌を出した。ティスを見詰める瞳孔が、細くなる。まるで内緒話をするように何事かを囁くと、彼女は驚いたようにヨルムンガンドを見返した。
此処からでは、聞こえなかった。一体、何を言われたのだろう。
考え込むような顔で、ティスがフェンリルの元へやって来た。だが、視線に気が付くと、直ぐさま笑みを浮かべる。
何だか、誤魔化されたみたいだ。
「ニイサン!」
問い掛けるより先に、ヨルムンガンドがフェンリルを呼んだ。もっと近くへ寄れというように、首を振る。
如何したというのだろう。フェンリルは、波打ち際まで戻る。ヨルムンガンドはそっと耳打ちをした。
「あのコ、優しくて、いいコだけど、危ういよ」
それは、フェンリルも感じていることだった。
否、だから危ういとでも言うべきだろうか。自分達に、ああまで親しげに振舞うなど、尋常ではない。
「ちゃんと、守ってあげてね」
ヨルムンガンドは言葉を切って、さらに声を低めた。
「それと、知ってると思うけど、此処から先にあるのは……」
フェンリルは目を細めて彼方を見やる。
「ああ、分かってる。――妹の国だ」




