18、◇ヨルムンガンド◇
突然響いた声に、ティスは驚いて振り返った。
「そこにいるのは、ニイサンでしょ!?」
砂丘の頂に、小柄な人影が現れる。真っ直ぐな黒い髪を一つに編み込んで、ぐるりと首に巻いていた。伸びた前髪に半ば覆われているが、白く整った顔をしているのは分かる。継ぎ接ぎだらけの、変わった模様のケープを羽織っていた。
「あれぇ? でもニイサンは、確か悪い神様に捕まったんじゃ……」
フェンリルをずっと幼くしたような容姿の持主だ。眦の辺りが、特に似ている。琥珀色の瞳孔は鋭いが、剣呑な雰囲気を感じさせない。舌足らずで、のんびりとした口調のためだろうか。
笑うと、尖った歯が目立つ。
狼姿のフェンリルにも臆することなく、おっかしいなぁ、これは夢なのかなぁとブツブツ呟いている。
「ヨルムンガンド」
フェンリルの言葉に、ティスはしげしげと相手を見詰めた。
中つ国を取り巻く、猛毒を持った大蛇の名前だ。
何時だったか、姉達が話してくれたことがある。やがて脅威になるとの予言を受けて、主神が遥か彼方の海に投げ落としたのだ。
フェンリルと同じく、似姿にもなれるのだろう。
〝弟〟と言っていたのは、ヨルムンガンドのことだったのだ。
フェンリルは、ティスから離れて前へ進み出た。
「丁度良かったぜ、一つ頼みがある」
「何ぁに?」
にこにこと笑いながら、その眼差しが、ふっとティスへ流れる。何を問われるかと身構えたが、その笑みは変わらない。フェンリルの声が棘を含む。
「お前――親父の奴に、何か言われたな?」
ティスは、ハッとした。確かに、自分の存在を疑問に思わないのは怪しい。
ヨルムンガンドは、ペロリと舌を出す。
「バレちゃったか」
次の瞬間だった。
目にも止まらぬ速さで、フェンリルとティスの間に割って入る。驚いて退こうとしたが、砂に足を取られた。突き飛ばされて、そのまま抑え込まれる。
ヨルムンガンドは上から圧し掛かり、首を絞めてくる。
「ティス!」
「動かないでね、ニイサン」
口の端をにんまりと歪めて、笑った。
「ボクの毒のこと、知ってるでしょ?」
鋭い牙を見せ付け、ティスに顔を寄せる。白金の髪の一房を掬い上げ、弄ぶように指先に絡めた。
「へぇ、なかなか可愛いね。ニイサン、こんなコが好みなの?」
「ヨルムンガンド」
恐ろしく冷えた声が、周囲に響いた。
「頼むから、その娘には手ぇ出すな」
凄んだフェンリルを、まるで意にも介さず、ヨルムンガンドは首を傾げる。
「わっかんないなぁ」
前髪から覗く片方の瞳が細められた。
「何で、トウサンの邪魔すんのさ。アイツ等、意地悪ばっかりじゃん。いなくなった方が清々するよ」
「ヨルムンガンド!」
フェンリルが咎めるように唸った。ヨルムンガンドはあっけらかんと続ける。
「ねぇ聞いてよ。ひっどいんだよ。雷神のヤツ」
ティスに視線を落とすと、片手を広げた。
「この間ね、こんがり焼けた牛の頭が、落ちてきたの。こーんなに大きいのが!」
何時でも殺せるという優越感か、にこやかな笑みは変わらない。ティスは身を強張らせた。彼が何を考えているのか分からず、怖いのだ。
「鯨ばっかり食べてるからさ。そんなご馳走出てきたら、迷わず飛びつくよねぇ――そしたらさぁ、いきなり引っ張られて、ガツンだよ、ガツン!」
大袈裟な身振りで、片手を振り回す。ティスは驚いて顔を背けた。
「ボクを釣り上げて、神鎚で、打ん殴ってきたんだ」
慄くティスを前にして、ヨルムンガンドは気にする風もなく言う。
「ねぇねぇ、見てよ、これ。――酷いよ、ボク何もしてないのに」
ゆっくりと、顔の半分を隠していた前髪を上げた。額から右の目にかけて、膿んだ傷口が覗いた。瞼は腫れて、半ば閉じられている。
「まだズキズキするんだ。全然、良くなんないの」
可哀想に、とても痛そうだ。
ティスは思わず腕を伸ばした。
ヨルムンガンドは、慌てたように身を引く。
「あ、触んない方がいいよ。ボクの血も毒だから」
傷口を手で覆いながら、頭を振った。ティスは耳飾りに触れる。
「お呪いを、かけてあげる」
「え?」
その手の上に、躊躇いなく指を重ねる。唇から澄んだ詩が零れた。
「刻むよ、和蘭芹。
分けるよ、薬緋衣草。
迷迭香を摘み取って。
昨日の血は、明日の痕。
明日の血は、昨日の痕。
立麝香草と共に刈り取った」
手応えはあった。
きょとんとした顔のまま、ヨルムンガンドは何度も瞬きをしている。首に掛る力が、なくなった。呼吸が楽になる。
ティスは、そっと長い前髪に触れた。傷は消え、すっかり腫れは引いている。だが、瞼の上だけ薄っすらと色が違う。新しく出来た皮膚が、白い顔に斜めに走っていた。
ああやはり、自分では力不足なのだ。ティスは項垂れた。
「ごめんなさい。これが、わたしの精一杯なの」
「わぁ、ありがとう! すっごく、楽になったよ!」
ヨルムンガンドは、手を叩いて喜ぶ。満面の笑みを浮かべたまま、ティスから飛び下りた。
「体当たりしちゃって、ごめんね。キミ、いいコだね」
すかさず、フェンリルが駆け寄って来る。
「大丈夫か、ティス!」
ティスは、そろそろと起き上がる。乱れた髪に付いた砂を、手櫛で払い落とした。
「ええ、平気よ」
フェンリルは、無邪気にはしゃぐヨルムンガンドを見やる。
「助かったぜ。あんなことも出来るんだな」
「だけど、大きな傷は癒せないわ。〝かあさま〟なら、痕一つ残さないのに」
ティスに視線を向け、ヨルムンガンドは心から不思議そうに首を捻った。
「変だなぁ、トウサンから聞いた話と、全然違うんだけど」
フェンリルは怪訝な顔をした。
「お前、何を吹き込まれたんだ?」
「えっとねぇ、ニイサンが、おかしな娘に誑かされてるってさ」
「はぁ!?」
途端に、憤慨の声を上げる。
「あのクソ親父、言うに事欠いて……」
「ニイサン!」
突然、ヨルムンガンドがフェンリルに抱き付いた。
漆黒の柔らかな首筋に、顔を埋める。声音が、さらに幼くなった。
此方が彼の本来の姿なのだろう。
「ニイサン、ニイサン! 会いたかったよ!」
フェンリルは眼差しを和らげた。愛おしげに弟を見詰めて、その頬を舐める。
「オレもだぜ、ヨルムンガンド」
似姿に変わると、小さな背中に腕を回した。あやすように、何度か軽く叩いてから、ヨルムンガンドの前髪を掻き上げる。
「何時も、こんな目に遭うのか?」
そっと、優しく傷痕に指を這わせる。ヨルムンガンドは首を横に振った。
「大丈夫。ここまで酷いのは、初めてだよ」
「そうか」
フェンリルはヨルムンガンドの頭を撫でた。砂浜に腰を下ろすと、弟はその膝に寄り掛かる。フェンリルにしがみ付いて、離れない。
「随分上手く、姿を変えられるようになったな。見違えたぜ」
「うん、いっぱい練習したんだよ。ほら、ボク大きいから。そのままじゃ、一緒に暮らせないでしょ?」
「偉いじゃねぇか」
フェンリルは、ずっとヨルムンガンドを撫でている。時折、前髪を掻き分けて傷痕に触れると、ヨルムンガンドは擽ったそうに身を捩じらせた。
「もう。止めてよ、ニイサン」
鼻に掛かったような声で笑うと、フェンリルの手を絡め取り、頬擦りした。その指先を口に含み、柔らかく食んでいる。
フェンリルは、弟が可愛くて仕方がないのだろう。ヨルムンガンドに、なされるがままだ。
ティスは、ただ二人の遣り取りを眺めていた。
何だか、胸の辺りが苦しくなる。ぎゅっと、襟元を握り締めた。
フェンリルは本当に弟を慈しんでいるのだ。そして、ヨルムンガンドも兄を慕っている。
隔てられた時間の分だけ甘えさせてやり、それに応えるように甘えているのだ。
如何して、これ程までに仲睦ましい兄弟が、引き離されなければならないのだろう。
「ところで、頼みって何ぁに?」
フェンリルを見上げながら、ヨルムンガンドが口を開いた。
「中つ国へ行きてぇんだ」
「えぇ? 虹の橋があるんじゃないの?」
「ものの見事に落ちてんだよ」
「何で?」
「ニーズヘッグの仕業だろ」
「え」
ヨルムンガンドの受け答えは鈍い。認識に齟齬があるらしい。フェンリルは溜息を吐いた。
「お前、本当に何も知らねぇのか? 親父がまた、一騒動起こしてんだ。此処も直に、瘴気に飲み込まれるぞ……」
フェンリルから話を聞くなり、ヨルムンガンドは、がばりと身を起こした。
「それじゃあ、ボクのご飯はどうなっちゃうの!? トウサン、そんなこと、一言も言ってなかったよ!」
ティスにも、段々とヨルムンガンドの思考が読めてきた。彼はとても食いしん坊で、未だに幼いのだ。
「それで、ボクに海を泳げって言うんだね」
大袈裟に、肩を竦めて見せる。
「面倒だなぁ……まあ、ニイサンの頼みなら、仕方ないよねぇ」
立ち上がると、波打ち際まで歩き出す。フェンリルはティスの側に寄った。
「悪かったな。久し振りに会えたもんだから、つい相手をしちまった」
「もういいの?」
小さい頃に別れてしまったと聞いた。きっと、ヨルムンガンドはまだ遊び足りないだろう。
「ああ、大丈夫だ」
フェンリルは、ヨルムンガンドの後姿を見やる。ティスへ振り向くと、静かに告げた。
「一応、言っておくぜ。あいつのこと、出来たら怖がらないでやって欲しい」
「え?」
ヨルムンガンドは、ざぶざぶと海の中程まで入る。次の瞬間、するりと姿を変えた。
物凄く大きな蛇だ。
ティスが今まで見た、どんな生き物より巨大だった。黒っぽい斑模様をしているが、右目の上の鱗だけ白く光る。先刻、癒したばかりの傷痕だ。琥珀色の瞳は縦長で、視線はティスを見詰めて動かない。口を開けると、氷柱のような鋭い牙が覗いた。
噛まれたら一溜りもない、猛毒を持った牙だ。
「へぇ……キミ、やっぱり変わってるねぇ。普通なら、『きゃー』とか、『気持ち悪いー』とか言って、逃げ出すよ」
その大きさに感嘆していると、ヨルムンガンドは舌先を近付けて笑った。姿形が違っても、何処かあどけなさが残る笑みだ。
「ま、ニイサンといるくらいだから、ボクの姿くらい、何ともないか」




