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16、◇夜の海◇

 夜の海はとても静かだ。


 波に削られた岩を背に、ティスは耳を澄ました。間断なく繰り返す潮騒が、眠気を誘う。


 浜辺に沿って見付けた洞窟で、夜を明かすことになった。太陽が沈んで空気は冷えてゆくが、生憎、燃やす物がない。フェンリルは入口側に座った。狼姿のまま、吹き込む風を防いでくれる。


 これから先のことを思うと、ティスは不安になった。


 神の国(アースガルズ)は、ニーズヘッグが吐き出す瘴気に覆われつつある。空は掻き曇り、大地は罅割れ、川の水は干上がってしまった。湖も澱んでいる。此処に到るまで、立ち枯れた森を何度通り抜けただろう。無事に逃げたのか、それとも死んでしまったのか、鳥や獣の姿も減っていた。彼方此方が、すっかり荒廃している。


 一刻も早く、何とかしないと、手遅れになってしまう。


「海の向こうに行きてぇって、中つ国(ミドガルズオルム)かよ」


 ティスから話を聞くなり、フェンリルは大きな溜息を吐いた。


「ごめんなさい。遠いわよね」


「虹の橋(ビフレスト)が通れりゃ、何とかなるだろ」


 神の国(アースガルズ)から、中つ国(ミドガルズオルム)へ繋がる、唯一の道だ。

 問題は、その橋が無事か如何かだ。


「でも、目的地は其処じゃねぇんだろ?」


「多分……」


 何て伝えれば良いのだろう。今は、曖昧に頷くことしか出来ない。


「オレも、そこまで詳しくねぇけどさ、中つ国(ミドガルズオルム)の他にも、幾つか国があったよな」


「ええ」


「その何(ど)れかくらいは、分かんねぇのかよ?」


 ティスは俯く。正直なところ、全く見当も付かない。


 フェンリルは呆れたように笑った。


「しょうがねぇなぁ。最後まで付き合うからさ、そんな顔すんなよ」


「フェンリル」


「何だ?」


「そっちに行ってもいい?」


 しばらくの間があった。フェンリルは、まじまじとティスを見詰める。


「構わねぇけど」


 ティスは遠慮がちに前肢(まえあし)の辺りに腰を下ろした。


「本当に、ごめんなさい。わたしの所為で、大変な思いばかりさせているわ」


「その為に、オレを逃がしたんだろ?」


「そんなつもりは……」


 ティスは驚いて振り返った。フェンリルは、揶揄うように口の端を歪める。


「オレの言い方が悪かった。そりゃあ、ティスにはそんな気、なかっただろうけどさ」


 一旦、言葉を切ると、ぽっかり開いた穴の入口を背中越しに見やった。


「あんたの〝かあさま〟は、どうだか分かんねぇぜ」


 そう言われてしまえば、何も返せない。


 あの混乱の中、魔法の鎖(グレイプニル)の鍵を渡されただけで、その意図までは訊いていなかった。〝かあさま〟は、一体、何を考えているのだろうか。

 確かに、フェンリルがいなければ、こんな遠くまで辿り着けなかった。けれども、彼がティスを助けてくれるとまで、予見出来たとは思えない。

 すっかり物思いに沈んでしまったティスに、フェンリルは声を掛けた。


「ほら、もう休めよ。肩ぐらい、貸してやるぜ」


「いいの?」


 吃驚して、聞き返してしまった。


「何だそれ? 今更だろ」


 確かに、ずっと背中に乗せて貰っているのだ。夜のフェンリルは似姿でいたから、何となく距離を置いていた。

 ティスは、そっとフェンリルに身を寄せた。



 誰かに呼ばれたような気がして、目が覚めた。


「〝かあさま〟?」


 ぼんやりと、周囲を見回す。振り返ると、フェンリルが交差した肢に顎を付けて、目を閉じていた。三角の両耳は、用心深く外へ向けられている。

 確か、あまり眠らないと言っていた。今までも、睡眠を取っている様子はなかった。相当に、疲れているのだろう。


 当たり前だ。


 自分といるだけで、フェンリルの負担は、かなり大きい。荒野を駆け抜け、途切れる度に新たな道を探す。危険が迫れば、身を挺して守ってくれる。


 今日も、怖い目に遭った。

 崖崩れに巻き込まれるところを、助けて貰った。だが、大きな岩が激突して、フェンリルが気を失ってしまったのだ。


 思わず、ゾッとした。


 ほんの一瞬、彼の死が過ったのだ。幸い怪我がなかったようなので、安堵する。


 如何して、そこまでしてくれるのだろう。


 あの雪崩に、躊躇いもなく立ち向かってくれた。フェンリルだけなら、逃げられたはずだ。


 そっと、その黒い毛並みに触れた。

 滑らかで、綺麗な闇の色だ。仄かに温もりが伝わってくる。


 本当に、彼が側にいてくれて良かったと思う。フェンリルの存在に、どれだけ救われているか分からない。


 ずっとこのまま――ティスは頭を振って、慌てて打ち消した。


 それ以上は、いけない。

 その望みは、あまりに酷だ。


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