15、■記憶■
自分達は、夜の住人だ。
フェンリルは何時だってそう思う。最も、妹が太陽を嫌がる所為でもあるが。
すっかり日が暮れて、群青の空が広がっていた。
フェンリル達は、棲み家にしている岩屋を出て寛いでいた。山の麓にあるこの場所は、目に付きにくい。小さな泉が流れを作り、草原が広がっている。その向こうは深い森だ。妹は紅や紫の花を摘んでは束にして、石の上に並べて遊んでいた。
闇は良い。全てを覆い隠してくれる。見えなければ、いないのと同じだ。
今夜は満月だった。弟ならば、黄色い林檎みたいだと喜ぶだろう。夜空を刳り貫いて、円く大きな月が此方を見下ろしている。
その弟は探検に出掛けたまま、帰ってこない。フェンリルは心配になった。何処まで行ったのだろうか。この間は、野兎を追って森の奥まで入り込んでいた。あまり遠出をするなとは言ってあるが、好奇心旺盛な弟は、直ぐに忘れてしまうのだ。
そろそろ、迎えに行くべきか。
フェンリルが立ち上がった時、傍らの繁みが音を立てて揺れた。驚いて振り返ると、よろよろと弟が這い出てきた。所々鱗が剥がれ、肉が裂けている。地面に、血の痕が残った。
「どうした!?」
傷だらけの弟に、慌てて駆け寄った。妹は今にも泣きそうに、おろおろとしている。
「ただいま……ちょっと、ヘマ、しちゃって」
今日は麓を回って、湖まで足を運んだらしい。その畔で、沼酸木を見付けたのだと言う。熟れた甘酸っぱい果実を、夢中になって頬張っていると、運悪く女神の一行と出くわした。
偶々、行楽に集っていた女神達は、弟を見るなり恐慌をきたした。汚らわしい、悍ましいと罵られ、護衛していた〝戦乙女〟に、槍で突き回された。
文字通り、這う這うの体で逃げ帰って来たのだ。
「よっぽど、噛み付いてやろうかと思ったけど、我慢したよ」
「偉いじゃねぇか」
フェンリルは弟の頭を撫でた。下手に反撃すると、後々どんな目に遭うか分からない。
「でもね、助けてもらったんだ」
ついに追い詰められた時、ある女神が間に入ってくれた。まだ幼子なのだから赦して下さいなと言って、他の神から庇ってくれたのだ。
フェンリルは首を傾げた。そんな奇特な神族がいるとは、俄には信じ難い。
「女神?」
「うん。とってもねぇ、綺麗だったよ」
「それだけじゃあ、分からねぇよ」
女神は大抵、途方もなく容姿端麗だ。ただでさえ、区別が付かない。
弟は妹に視線を移した。
「あ、お土産があるんだよ」
口を開くと、小石を落とした。弟は妹のために、色々と持って帰るのが好きなのだ。
「どう? キラキラしてるでしょ」
夕焼けの色に似ている。妹は小さく歓声を上げると、月明かりに透かした。
弟はそんな様を嬉しげに眺めている。
「あんまり、無茶すんなよ」
フェンリルはまだ血の滲む傷口を舐めてやる。弟はしょんぼりと俯いた。
「何もしてないのに、どうして虐めてくるのかな?」
悲しげな声に、フェンリルは弟を抱き寄せた。
「お前は、何も悪くないさ。あいつ等が、おかしいんだ」
妹もはしゃぐのを止めて、ボロボロになった鱗に触れた。必死に慰めている。
邪神ロキの子であるフェンリル達は、神々に匹敵する力を持っている。少しばかり姿形も異なる。それだけで、何故ここまで、忌み嫌われなければならないのか。
自分は兄なのだ。
弟妹を守ってやらなければならない。
これ以上、彼等が辛く悲しい思いをすることを、許すものか。
何処か遠くから、声が聞こえる。
名を呼ばれているのだと、ぼんやりと思った。
弟でも妹でもない。
柔らかな声音が、必死に呼び掛けてくる。一体、誰だろう。
「フェンリル、フェンリル! お願い、起きて!」
長い微睡から覚める時のように、急に五感が研ぎ澄まされた。
瞼が開いて、真っ先に飛び込んできたのは白金の絹糸だった。僅かな陽射しに、一本一本が艶やかに照り映える。
違う。
これは髪だ。長い髪の娘が、自分の首に縋り付いていた。
「フェンリル!? 気が付いたのね、良かった!」
ティスが、安堵と不安が綯交ぜになった顔をする。
「悪ぃな。一瞬、意識が飛んでた」
落石を真面に受けて、気絶してしまった。背後を見やると、大量の土砂で埋まっている。自分達のいる場所は、辛うじて樹の根に防がれていた
危なかった。あれに巻き込まれていれば、ただでは済まなかっただろう。フェンリルは軽く体躯を震わせて、背に付いた砂を払った。
そっと肢を除けて、彼女が動けるようにしてやる。だが、腕を解こうとしない。
「ティス、怪我は?」
「わたしは平気。フェンリルとこの樹が、守ってくれたもの」
ティスは後ろの大樹を見詰めた。幾つかの瓦礫を、枝葉が遮ってくれたのだと言う。
フェンリルは、ホッと息を吐いた。
梣は頑丈な樹だ。この程度では倒れないだろうと踏んでいた。それに草木は、〝水の乙女〟に友好的だ。林檎の庭で、精霊達がティスを歓迎している声を聞いた。自分は兎も角、彼女だけでも守って貰える可能性に賭けたのだ。
「痛ってえな、おい――何だって、こんな目に遭わなきゃなんねぇんだ」
フェンリルは似姿に変わると、首の後ろに手をやった。ようやく、ティスは身を離す。
「大丈夫?」
「こんくらい、何でもねぇよ」
伸ばされた指を、頭を振って断った。傷は大したことなさそうだ。
「だけど、どうして伝令の鴉が……もしかして、主神様」
ティスは、ハッと言葉を切った。だが、期待を込めた眼差しは、一瞬で戸惑いに変わる。
「それはねぇだろ。あいつが無事なら、態々、手下を寄越すかよ」
第一、ティスが狙われる理由にはならない。フェンリルを逃がすよう命じたのは、女神ネルトゥスだ。主神が事情に通じていないとは考えられないし、女神の娘がそこまで蔑ろにされるとも思えない。
「だったらどうして……」
ティスは黙り込む。襲撃の経緯に想像を膨らませて、怖くなったのかも知れない。
気持ちを切り替えようと、フェンリルは努めて明るい声を出す。
「天気も悪ぃし、そろそろ動くか。今日は、早めに休みてぇ」
「大丈夫? 雨宿り出来る場所を見付けなきゃ」
ティスは立ち上がると、梣の幹に手を添えた。
「助けてくれて、ありがとう」
その言葉に応じるかのように、樹は枝先を震わせた。




