14、◇鴉達◇
空は重苦しく曇っていた。
ティスは思わず溜息を吐く。低い位置に、分厚い雲が折重なっている。今日は雨になるだろう。早めに、凌げる場所を探さなければならない。フェンリルが大変な思いをしてしまう。
峻厳な山脈の裾野を走っている。直ぐ近くには、深く切れ込んだ渓谷があった。山の頂は白く斑模様になっている。雪がまだ残っているのだ。けれども、今のままでは何時崩れるか分からない。一度、溶け出したら大量の土砂が流れ込み、麓は大事になる。此処に来るまでも、随分と回り道をしていた。
「それでね、夏になると、沼酸木を摘みに行くの」
黙っているのも気詰まりなので、ティスは自身の暮らしぶりについて語る。
「帰って来たら、丁寧に選り分けるわ。気が付いたら指先がね、鮮やかな紫に染まっているのよ」
何だか、とても懐かしい。たった数日前まで、姉達を手伝って過ごしていたのだ。
「綺麗なものはね、発酵乳と混ぜて、焼菓子を作るの」
「ティスは甘い物、好きだもんな」
「どうして知っているの?」
少し驚いてしまった。フェンリルは微かに笑ったようだった。
「よく籠に詰めて、持って来たじゃねぇか。あんたの〝姉さま〟が、態々用意してたんだろ?」
まさか、覚えているとは思わなかった。何だか、こそばゆい。
「ええ、そうよ。凄く美味しいの。何時かまた、食べてみて」
何時か……何気なく口にして、しまったと思った。それは、フェンリルにとっては、別の意味を持ってしまう。けれども、彼は敢えてか、そのことについては触れなかった。
「残りはどうすんだ?」
「傷んだものは砂糖で煮て、熱いうちに壜に詰めるのよ。わたしは、こっちも好き」
フェンリルにとって、面白くも何ともないに違いない。けれども、彼はちゃんと相槌を打ってくれる。きっと、妹がいるからだろう。こういう取り留めのない話にも、付き合ってくれるのだ。
「今度、セーフリームニルの猪を、もらってくることになっていたの」
「あの不死の猪肉か」
「姉さま達はどんな風に料理しようかって、話し合っていたわ。わたしは煮込んだ方が……」
途中で、言葉に詰まってしまった。フェンリルが訝しげに問い掛けてくる。
「どうした?」
「ごめんなさい。ちょっと、思い出しちゃって」
姉達の煌々しい笑顔が、脳裏を過ったのだ。食材の下拵えをしつつ、お喋りをしていた。時々、内緒で味見をさせてくれた。大好きな姉達に囲まれて、何一つ恐れるものなど、なかったのだ。果たして、あの穏やかな日々を取り戻せるのだろうか。
「大丈夫。今はフェンリルがいてくれるもの」
「そうやって、期待されるのも困るんだよな」
ティスはハッとなる。ただ素直に、側にいてくれて嬉しいと、伝えたかっただけなのだ。また、言葉の選択を誤ってしまった。今朝のことといい、何だかおかしなことばかり口にしている。
慌てて言い添えた。
「え、と。ごめんなさい。そんなつもりじゃ、なくて」
フェンリルは鷹揚に頷いた。
「ま、やれるだけのことは、やってやるさ」
不意に、三角の耳が動いた。一瞬、顔だけを後ろに向ける。
「何か来るぜ」
フェンリルの声に、ティスは振り返った。遥か後方に、黒い影が見える。小さな点が次第に大きくなるにつれ、それが二羽の渡鴉だということが分かった。物凄い速さで、飛んで来る。
かなり大きい。光沢のある風切羽で、力強く空を翔けている。
「伝令の鴉だわ。どうして、こんな処に?」
「主神の神使か――後ろの靄は何だ?」
ティスは目を凝らして、息を呑んだ。
二羽の後に続くのは、無数の鴉だ。大きな群は、雨雲のように真っ黒だ。
ガァと一声高く、渡鴉が鳴いた。
何を思ったのか、真っ直ぐに突っ込んでくる。ティスは瑠璃の耳飾りに触れた。
「阻めよ刺草、隔てよ沙棘。護れ、境界を――え?」
防御の呪歌を唱えたが、あっさりと破られた。鋭い嘴が手の甲を掠める。咄嗟に、唇へ当てがった。幸いなことに、傷にはなっていない。
渡鴉はひらりと態勢を変えると、再び襲い掛かって来る。
伝令の鴉は主神の配下だ。強靭な翼で世界中を飛び回り、あらゆる出来事を見聞きする。そのために、特別に神の力を授けられていた。
ティスでは、とても敵いそうにない。
フェンリルが炎を吐いた。それより早く、渡鴉は上空へ逃れる。フェンリルは忌々しげに舌打ちをした。
「大丈夫か、ティス!?」
珍しく、焦った声だ。
「少し無茶するぜ。しっかり掴まってろ!」
言われて、フードを深く被り直し、身を低くする。
フェンリルは傍らの崖を駆け降りる。
無数の鴉が後に続いた。ギャアギャアと耳を劈くような声が、追い掛けて来る。
迫り出した岩盤を巧みに利用して、右に左にと鴉を撒く。何羽かが、突き出た岩に打つかって、谷の底へ落ちてゆく。翼から散った羽が、顔に触れた。
ティスは思わず目を背けた。可哀想だが、生憎、此方にも余裕がない。
渓谷はすっかり水が涸れていた。河床の石を飛び越えて、フェンリルは走り続ける。渡鴉が率いる襲撃者の数は、半分に減っていた。先頭を切る二羽は隙あらば、鉤爪で引っ掻こうとする。
深い谷の中程まで、来た時だった。
ガァと、一羽が鋭い鳴き声を上げた。その号令で、鴉達は追うのを止めた。上空へと、遠ざかってゆく。
「良かった。諦めてくれたのかしら」
ティスはホッと息を吐いた。だが、フェンリルは無言だ。しきりに後ろを気にしている。
不意に、地響きが轟いた。驚いて、振り返る。渓谷に沿った山に、白い煙が上がっていた。頂から雪の塊が落ちて来る。凄まじい勢いだ。
フェンリルが吠える。
「畜生! 罠か!?」
突然の雪崩は崖を粉砕し、忽ち狭い谷を埋めてゆく。フェンリルが速度を上げる。濛々と立ち込める土埃に、思わず咳き込んだ。ティスの呪歌では防ぎ切れない。圧し潰されるだけだ。
土塊がフェンリルの足元まで迫った。このままでは、飲み込まれてしまう。
「ティス! あの樹の処へ、飛び移れるか!?」
見やった先に、開けた場所があった。周囲より高く盛り上がり、丈の短い草に覆われている。立派な樹が地面に太い根を張って、白い花を一杯に付けていた。
梣だ。
身の軽い自分ならば、出来ないこともない。けれどもその後、如何するのだろう。
言われるまま、フェンリルから樹の下に降り立った。頭上の枝葉は、傘のように広がっている。幹に背を当てて振り返ると、大量の土砂が目前に迫っていた。
「フェンリル!?」
フェンリルは、襲い来る土煙の前に立ち塞がった。そのまま、盾になるつもりなのだ。
ガラガラという物凄い音が聞こえた。ハッと見上げた。衝撃を受けて、背後の崖が崩れ始めている。
「伏せてろ、ティス!」
フェンリルの前肢に、抱き寄せられる。
その体躯を目掛けて、一塊の岩石が落ちて来た。




