13、■魔文字(ルーン)■
夜明け前のこの時間が、一番、冷え込むのだ。パチパチと爆ぜる火の粉を眺めながら、似姿のフェンリルは欠伸をした。
ずっと、焚火の番をしていた。
大きな岩盤が迫り出した、崖の下だ。元々、あまり眠らなくても大丈夫な体質だが、さすがに堪える。けれども、次に何が襲い来るか分からない。一瞬たりとも、気が抜けなかった。
火を挟んで、ティスは丸くなって目を閉じている。被ったフードから、白金の髪が零れ落ちていた。炎が揺れると、ティスの顔に影が映ろう。精彩な瞳の印象が薄れると、ますます儚げな雰囲気になる。雪の結晶のように溶けてしまわないのが、不思議なくらいだ。
打たれた頬の腫れは、ようやく引いたみたいだ。フェンリルに心配を掛けさせまいと、無理をしていたことは分かっていた。だから、敢えて知らぬ風を装っていたのだ。余計な気を遣わせるのも悪い。
ティスとは魔法の鎖に囚われてからの付き合いだ。それなのに、この数日が一番、話をしている。今まで、彼女のことを知ろうともしなかった。最も、あの頃はフェンリルにも余裕がなかった。主神に対する恨み辛みの只中にいたのだ。
ティスは、とても優しい。
彼女の言葉の端々から、大切にされてきた娘だということは察せられた。あまりにも臆せず接してくるのが不可解だったが、納得する。相手に悪意や害意があるとは、微塵も思っていないのだ。
それだけに、〝戦乙女〟から受けた仕打ちは衝撃的だっただろう。操られていた可能性があるとは言え、抜身の刃を向けられたのだ。フェンリルが戻るのが後少し遅ければ、バッサリと切り捨てられていたに違いない。
〝戦乙女〟程度なら、フェンリルの敵ではない。あっさり逃げたのは、ティスの心情を慮ってのことだ。目の前で同族が傷付くと、悲しむと思ったのだ。
魔文字のことも気になる。心当たりがない訳でもないが、これ以上、彼女を怖がらせたくはなかった。
フェンリルは空を見上げた。まるで一枚の布を捲るように、色を変え始める。東から射し込む光が、濃紺の夜を追い遣ってゆく。
今日は何処まで行けるだろうか。ずっと大陸を横断していた。このまま進むと、また海に出る。
彼女も不安で仕方がないのだろう。
最初は遠慮がちだったのが、今では真っ直ぐにフェンリルを頼ってくる。必要とされて悪い気はしないが、あまり縋られても困るのだ。
一刻も早く、〝かあさま〟に会わせてやりたい。
ティスが身動ぎをした。ゆるゆると瞼が持ち上がり、透き徹った蒼い瞳が覗く。
焦点の定まらない、ぼんやりとした表情だ。どんな夢を見ているのか、寝起きはしばしばこんな顔をする。
「大丈夫か?」
何度か瞬きをして、ティスの目がフェンリルを捉える。造り物めいた顔立ちに、ようやく精気が戻った。
「フェンリル、また起きていたの?」
首を傾けると、瑠璃の耳飾りが揺れた。
「オレのことは、気にすんな。呪歌を使って疲れたんだろ?」
「フェンリルだって、ずっと走りっぱなしでしょう?」
上目遣いで此方を窺ってくる。薄っすらとした疲労感はあるが、耐えられない程ではない。
「問題ねぇよ。ティスが心配することじゃねぇさ」
案じる眼差しを避けるように、話を切り替えた。
「で、今日はどっちへ行きゃ良いんだ?」
空はもう白み始めている。ティスは遠くに見える尖った山々を指差した。
「あの山脈を越えたいの」
やはり、このまま突っ切るみたいだ。しかし、それだと神の国から出ることにならないだろうか。
「ティスを乗せて、山越えはさすがに無理だぜ。ぐるりと大回りしなきゃなんねぇよ。それでも、構わねぇか?」
「勿論よ。フェンリルが危なくないようにしてちょうだい」
ティスは自分の身の安全より、フェンリルを優先させる。こういうところが、如何にも彼女らしい。
「分かった。陽が昇り次第、動くぜ」
不意に、ティスが俯いた。炎に煽られて、彼女の影が岩壁で不気味に踊る。
何だろう。
徒ならぬ雰囲気を感じて、フェンリルは口を閉ざした。
「わたし、フェンリルに謝らないといけないわ」
おずおずとした声に、フェンリルは怪訝な眼差しを向けた。
「どうした?」
「あのね、初めは、フェンリルに食べてもらえれば、いいと思ったの」
「何を喰えって?」
「わたしを」
フェンリルは、息を呑んだ。
一瞬、聞き違えたかと思った。言葉の意味がまるで理解出来ない。
「何だよ、それ」
「独りぼっちは、嫌だったの」
ティスの声は震えている。
フェンリルは深い溜息を吐いた。
「オレを自害の道具に使うなよ」
ようやく、彼女が言わんとしていることが分かった。呆れて、物も言えない。
「違うの。ごめんなさい。わたし、ちゃんと頑張るから……だからお願い」
顔を上げると、ティスは慌てて畳み掛けた。
見捨てないで、とでも続けようとしたのか。
けれども、彼女が懇願の言葉を口にする前に、フェンリルは遮った。
「〝戦乙女〟に言われたこと、気にしてんのか?」
「え」
潤んだ瞳に見詰め返された。フェンリルは揶揄するように笑う。
「何言われたかは、聞かねぇけどさ。そんな顔すんな。ちゃんとティスを、〝かあさま〟の処まで連れてってやるよ」
ティスが僅かに目を瞠る。
揺れる影が、うん、と小さく頷いた。




