11、■瑠璃の石■
何だか、ティスのことが分からなくなってきた。
ほとんど神格の感じられない、か弱い娘だとばかり思っていた。けれども、枯れた庭に雨を降らせ、強欲な大蜥蜴を眠らせる。
否、何者なのかは、分かっている。
雨と豊穣の女神ネルトゥスを〝かあさま〟と呼ぶ、〝水の乙女〟の一人だ。
だが、本当にそれだけなのだろうか。
行き先が漠然としているのも解せない。彼方だ此方だと、その場その場で決めるのだ。
彼女に言われるがまま走っているが、最終的に何処へ向かっているのだろう。なるようにしかならないと半ば諦めているが、出来ることなら最善を尽くしてやりたい。
小さな川を見付けて、休息を取る。
風が吹くと、木立に囲まれた淵に漣が立つ。羊歯の繁みの中に、こんこんと水が湧いていた。手を浸すと、氷のように冷たい。
フェンリルは喉を潤して、水面を覗き込んだ。顔が映る。
首筋に掛る黒髪に赫い瞳。
この姿にも、随分と慣れてきた。ロキからは、目付きが悪いと、よく揶揄われる。同じ眦をしているが、弟はまだ幼い分、愛嬌があった。美貌を誇る父親に一番似ているのは、妹だ。
ティスは岸辺に腰掛けている。幼子みたいに足を揺らして、時折飛沫を散らしていた。その眼差しは、ぼんやりと宙を見詰めて動かない。
背に流れる白金の髪は、淡く光を弾いている。本当に華奢だ。雪の結晶か霜柱みたいに、溶けてしまいそうな程、儚げで――美しい。
「フェンリル?」
視線に気付いたのか、ティスが振り向いた。透き徹った蒼の瞳に、何故か狼狽えてしまう。咄嗟に耳飾りを指差した。
「あ、いや――その石、瑠璃だよな?」
「そうよ。〝かあさま〟にもらったの」
嬉しそうに笑うと、白い指で耳朶を撫でる。
「見ても構わねぇか」
「どうぞ。だけど、絶対に外しちゃいけないの」
そう言って、編み込んだ一房を耳に掛けた。フェンリルが見えやすいように、頭を傾ける。薄く血管が浮いた首筋が、無防備に曝された。一瞬で掻き切ってしまえそうな程、細い。
相手に害意があるかもしれないとは、露にも思っていない。そんな仕種だった。
正直、そこまで信頼を寄せられても困るのだ。
「どうしたの?」
自分から話を振っておいて、今更、躊躇っても変に思われるだろう。
片膝を突いて、なるべく彼女に触れないように、耳飾りに手を伸ばした。銀鎖で繋がった石は、雫を模した形をしている。紫を帯びた濃い青色が、光の加減でとろりと艶めいた。
「姉さま達は、腕輪や首飾りを持っているの。青玉に、藍玉、青翡翠……」
「全部、青いんだな」
指を離すと、耳元で瑠璃の石が軽やかに揺れる。
フェンリルは傍らの岩に腰掛けた。
「そう言えば、そうね。十人共に、青い宝石だわ」
「その〝姉さま〟ってのも、ティスに似てんのかよ?」
その問いにゆるりと頭を振り、ティスは眩しそうに目を細める。
「皆わたしなんかよりずっと綺麗よ。とっても優しいの」
「あんた、よっぽど大事にされてんだな」
「ええ。わたしが、あまりに何にも出来ないから、心配ばかり掛けているわ」
ティスはフェンリルを見詰めた。揺ぎ無いその眼差しに、思わずたじろいでしまう。
しばらくして、不思議そうに首を傾げた。
「フェンリルは、少しだけロキ様に似ているのね」
突拍子もない台詞に、我知らず不満の声を漏らした。
「はぁ? 何処が? 褒めてるつもりかよ、それ。ちっとも嬉しくねぇぞ」
ティスは慌てて言葉を重ねた。おろおろと、狼狽える。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
恐る恐る上目遣いに、フェンリルを窺った。
「ロキ様とあまり仲が良くないの?」
「今までのあいつの所業ぐらい知ってんだろ?」
憤然と言い放つと、ティスは何事かを思い出したらしい。申し訳なさそうに、呟いた。
「姉さま達の噂なら」
フェンリルは溜息を吐く。本当に、如何しようもない厄介者なのだ。神々の間にとんでもない騒動を引き起こすが、その都度、上手に言い包めてしまう。毎回毎回、まんまと欺かれてしまう神にも呆れる。莫迦しかいないのだろうか。
第一、主神と義兄弟であることが信じられないし、雷神と最も親しいというのも解せない。
「親父は誑し込むのが巧いからな。あんだけやらかしておいて、何時も、お咎めなしだ。その分、オレ達ばかりが割を喰ってる」
つい、喉元に手をやった。ずっと、鎖で縛られていた。苦しいのが当たり前だった。もしかすると、今、この瞬間は夢なのではないだろうか。
ティスに視線を移した。白金の娘は、吃驚したように目を瞬いている。
本当に、其処にいるのだろうか。
手を伸ばそうとして、思い留まった。
大丈夫、幻でではない。
そもそも、フェンリルを自由にしたのは、ティスなのだ。否、厳密には彼女の後ろに見え隠れする〝かあさま〟だろうが、そんなことは何方でも良い。
「もうそろそろ、動くか。急がねぇと、日が暮れるぞ」
「そうね」
ティスは立ち上がった。




