第89話 揺らぐ記憶 ― ロウの沈黙の理由
記録庫を離れ、
ロザリンを部屋まで送り届けたあと。
ロウは一人、
人気のない回廊に立ち尽くしていた。
夕陽が差し込む石畳の上で、
影が長く伸びる。
胸の奥が、まだざわついている。
(……あの症状……間違いない……)
ロウは拳を握った。
国王の診断書に記されていた言葉。
“魔力反応の乱れ”
“説明不能の衰弱”
“急激な悪化”
どれも──
自分が子供の頃に経験したものと同じだった。
ロウは目を閉じた。
暗い部屋。
冷たい床。
鉄の匂い。
魔術陣の光。
身体の奥から力が抜けていく感覚。
魔力が乱れ、視界が白く滲む。
(……あれは……
忘れられるものじゃない……)
ヴァルガの声が、
耳の奥で蘇る。
「月の力は美しい。
奪えば奪うほど、輝く。」
ロウの背筋が震えた。
(……あの男が……
国王に……?)
胸の奥が冷たくなる。
(……姫様に……
言えるはずがない……)
ロザリンの顔が浮かぶ。
記録庫で震えていた手。
父の記録を見て揺れた瞳。
ロウは唇を噛んだ。
(……姫様に……
自分の過去を背負わせるわけにはいかない……)
ロザリンは優しい。
まっすぐで、
人の痛みに敏感だ。
だからこそ──
ロウの過去は、
彼女にとって“重すぎる”。
(……姫様は……
知りたいと言った……
でも……
今はまだ……)
ロウはゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に沈んでいるものは、
言葉にできないほど深い。
あの夜。
逃げ出した時のこと。
魔術陣の光が背後で弾け、
身体が裂けるように痛んだ。
走って、
走って、
走って──
気づけば、
月の光の下で倒れていた。
(……あの時……
死んでもおかしくなかった……)
ロウは目を開けた。
夕陽が沈みかけ、王宮の影が長く伸びている。
(……ヴァルガ……
あの男が……また同じ魔術を……)
胸の奥がまた冷たくなる。
(……姫様を……巻き込むわけにはいかない……)
ロウは静かに歩き出した。
足音は軽いのに、
心は重い。
(……姫様には……
笑っていてほしい……
自分の過去で……曇らせたくない……)
だから言えない。
まだ言えない。
ロウは拳を握りしめた。
(……でも……
いつか……
話さなければならない日が来る……)
その時、ロザリンはどう思うだろう。
軽蔑するだろうか。
恐れるだろうか。
距離を置くだろうか。
胸が痛む。
(……それでも……姫様が望むなら……
私は……)
ロウは立ち止まり、
夕陽に染まる空を見上げた。
「……姫様を守る。」
その言葉は、
誰に向けたものでもなく、
自分自身への誓いだった。
沈黙の中で、
ロウの心は揺れ続けていた。




