第87話 記録庫からの脱出/宰相の部下との遭遇
棚の奥に身を潜めたロザリンは、
胸の奥で脈打つ鼓動を必死に抑えていた。
ロウの手が、
そっとロザリンの手を包む。
言葉はない。
ただ、
“ここにいる”という確かな温度だけが伝わる。
記録庫の扉が軋み、
誰かが入ってくる気配がした。
コツ……コツ……
硬い靴音。
ゆっくりと、
棚の間を確かめるように歩く。
ロザリンは息を止めた。
(……宰相の部下……?
どうして……こんな時間に……)
ロウは棚の影からわずかに覗き、
足音の主を確認する。
黒い制服。
腰の徽章。
宰相直属の監察兵。
ロウの目が細くなる。
(……やはり来たか……
ヴァルガ……)
監察兵は棚を一つずつ確認しながら、
低く呟いた。
「……鍵が開いていた形跡があるな……
誰か入ったか……?」
ロザリンの背筋が震える。
ロウはロザリンの肩に触れ、
ほんのわずかに押した。
“
下がって”
声はない。
でも伝わる。
ロザリンは静かに頷き、
棚の奥へさらに身を寄せた。
監察兵は棚の前で立ち止まり、
何かを拾い上げた。
紙片。
ロザリンがさっき落としかけた、
父王の診断書の端。
監察兵は眉を寄せる。
「……誰かが……
王の診療記録を……?」
ロザリンの心臓が跳ねた。
ロウはロザリンの手を握り、
微かに首を振る。
“動かない”
監察兵は周囲を見回し、
棚の奥へ一歩踏み込む。
ロザリンの喉がひゅっと鳴りそうになる。
ロウはロザリンの手を包み、
その震えを吸い取るように
静かに圧をかけた。
監察兵は棚の影に近づき──
ピタリと足を止めた。
「……誰か……いるのか……?」
ロザリンの呼吸が止まる。
ロウはロザリンの前に
わずかに身体をずらした。
庇うように。しかし気づかれないように。
監察兵は耳を澄ませ、
棚の奥をじっと見つめる。
沈黙が、
刃物のように張り詰める。
ロザリンの指先が冷たくなる。
(……ロウ……どうしよう……)
ロウはロザリンの手を握り返し、
ほんのわずかに親指を動かした。
“落ち着いて”
その一動作だけで、
ロザリンの呼吸がわずかに戻る。
監察兵はさらに一歩踏み出そうとした──
その瞬間、
廊下の向こうから声が響いた。
「おい、巡回の時間だぞ。
何をしている。」
監察兵は振り返る。
「……鍵が開いていた。
誰か入った形跡がある。」
「管理官の仕業だろう。
宰相殿は急ぎの用件がある。
戻れ。」
監察兵はしばらく迷ったが、紙片を懐にしまい、
扉の方へ向かった。
「……後で報告する。」
扉が閉まる。足音が遠ざかる。
静寂が戻った。
ロザリンはその場に崩れ落ちそうになったが、
ロウが支えた。
「……姫様。
今のうちに出ます。」
ロザリンは頷き、
ロウに導かれて棚の影から出た。
二人は音を立てないように
記録庫の奥の非常扉へ向かう。
ロザリンは小声で囁いた。
「……ロウ……
さっき……危なかった……」
ロウは短く答えた。
「……大丈夫です。
姫様が静かにしてくださったから。」
ロザリンの胸が熱くなる。
(……ロウ……
あなたがいなかったら……
私は……)
非常扉を開け、
二人は薄暗い裏廊下へ出た。
ロウが先に周囲を確認し、
ロザリンに手を差し出す。
「……姫様。急ぎましょう。
宰相の目が動き始めています。」
ロザリンはその手を取り、
深く頷いた。
(……ヴァルガ……あなたは……
お父様に何をしたの……)
二人は影の中を駆け抜け、
記録庫を後にした。




