第75話 手を離すまで
医務室の朝は静かだった。
薄い光が床に落ち、
その上にロウの影が細く伸びている。
ロウは壁に手をつき、
ゆっくりと立ち上がった。
昨日までと同じ動作。
けれど胸の奥は、
昨日とはまったく違っていた。
(……姫様が…… 誰かを想っている……
その“誰か”が…… 私かもしれない。)
否定しようとすると、 胸の奥が痛む。
(……私は…… 姫様が好きだ。)
その自覚が、 足に力を与えていた。
ロウは壁に手を置いたまま、
ゆっくりと一歩を踏み出した。
足は震えている。
けれど、昨日よりも確かに前へ出る。
担当医が後ろから見守っていた。
「……ロウ。 その調子だ。 焦らずに。」
ロウは小さく頷き、 もう一歩、
壁づたいに進んだ。
(……姫様の隣に立つために。)
胸の奥の熱が、 足を前へ押し出す。
三歩目を踏み出したとき、
ロウはふと立ち止まった。
壁に置いた手を見つめる。
(……離せる……?)
昨日までなら、 考えもしなかったこと。
けれど今日は違う。
ロウはゆっくりと息を吸い、
壁から手を離した。
ふらついた。 膝が揺れた。
倒れそうになった。
担当医が思わず身を乗り出す。
「ロウ……!」
ロウは歯を食いしばり、 足に力を込めた。
(……倒れない…… 姫様の前で……
もう倒れたくない……)
震えながらも── ロウは立っていた。
自分の足だけで。
担当医が息を呑んだ。
「……立てている…… 自力で……!」
ロウは胸の奥が熱くなるのを感じた。
(……できた…… 本当に……)
医務室の扉が静かに開いた。
ロザリンが入ってきた。
ロウは壁から離れたまま、
ゆっくりと立っていた。
ロザリンは息を呑んだ。
「……ロウ…… 今……
壁に触ってなかった……?」
ロウは少し照れたように頷いた。
「……はい。 立つだけなら…… なんとか……」
ロザリンは胸の奥が震えた。
(……ロウ…… どうして…… こんなに……)
「……歩ける……?」
ロザリンの問いに、
ロウは小さく首を振った。
「……まだ…… 歩くのは……無理です。」
ロザリンはそっと微笑んだ。
「……でも、立てたんだね。 すごいよ。」
ロウは静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます。」
ロザリンはロウの横に立ち、
その姿をしばらく見つめていた。
(……ロウ…… あなた…… 本当に……)
胸の奥が熱くなる。
けれど、 ロザリンは言葉にしなかった。
ロザリンが去ったあと、
ロウはベッドに腰を下ろし、 静かに息を吐いた。
(……姫様の前では……
弱いところを見せたくない。)
胸の奥が熱い。
(……明日は…… 歩けるようになりたい。)
ロウは足を見つめた。
震えている。 痛みもある。
けれど── 昨日までとは違う。
(……姫様の隣に立つために。
私は……もっと強くなる。)
医務室の静けさの中で、
ロウの決意だけが 強く、静かに燃えていた。




