第73話 耳に届く
医務室の窓から差し込む光は、
昼に近づくにつれて柔らかくなっていた。
ロウはベッドの端に腰を下ろし、
足をゆっくりと動かしていた。
昨日よりも、 ほんの少しだけ軽い。
(……姫様…… 今日は来られるだろうか。)
そんなことを考えている自分に気づき、
ロウは小さく息を吐いた。
(……期待してどうするんだ。
姫様は……姫様だ。)
そのとき、 医務室の扉が静かに開いた。
侍女が入ってきて、 ロウに軽く会釈した。
「ロウ様。 お加減はいかがですか。」
「はい。 昨日より……
少し、動きやすいです。」
侍女は微笑んだ。
けれど、
その表情には どこか“言いにくそうな影”があった。
ロウは気づいた。
「……何か、ありましたか。」
侍女は一瞬迷い、 視線を落とした。
「……城の中で…… 少し、噂が……」
ロウの胸がざわつく。
「噂……?」
侍女は声を潜めた。
「姫様が…… どなたかを
…… 想っておられるのではないか、と。」
ロウは息を呑んだ。
「……姫様が……?」
侍女は慌てて手を振った。
「い、いえ! まだ名前は出ていません。
ただ…… 姫様が宰相閣下の執務室へ
行かれたあとから…… 少しずつ……」
ロウは胸の奥がざわつくのを感じた。
(……姫様が…… 誰かを……?)
侍女は続けた。
「侍女たちの間では……
“姫様の表情が違った”とか……
“誰かを想っているようだった”とか……
そんな程度です。」
ロウは言葉を失った。
胸の奥が、 静かに、
しかし確かに揺れていた。
(……姫様が…… 誰かを……想っている……?)
侍女は、 さらに言いにくそうに続けた。
「……兵士たちの間では……
“医務室に通っている青年ではないか”
という話も…… 少しだけ……」
ロウの心臓が跳ねた。
「……医務室……?」
「はい。 でも、あくまで噂です。
誰も確かなことは……」
ロウは侍女の言葉を遮らなかった。
ただ、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
(……私……? そんなはず……
いや…… でも……)
ロウはゆっくりと息を吸った。
(……姫様が…… 私を……?)
胸の奥が、 痛いほどに脈打った。
侍女は深く頭を下げた。
「本当に……噂にすぎません。
お気になさらず……」
ロウは小さく頷いた。
「……はい。」
侍女が去ったあと、
医務室には静けさが戻った。
けれど、 ロウの胸の奥は静かではなかった。
(……姫様が…… 誰かを想っている
…… その“誰か”が…… 私だと……?)
ロウは目を閉じた。
(……そんなこと…… あるはずが……)
否定しようとした瞬間、
ロザリンの顔が浮かんだ。
歩行練習のときの、 あの距離。
あの声。
あの目。
(……もし…… もし本当に……)
胸の奥が、 熱く、苦しくなる。
ロウはゆっくりと立ち上がった。
足はまだ震えている。
(……確かめるわけにはいかない。
でも…… この気持ちは…… もう……)
言葉にならない。
ただ、 胸の奥で何かが静かに動き始めていた。
噂は、 ロウの耳に届いた。
けれど── まだ“自覚”には至らない。




