第72話 噂
ロザリンが宰相の執務室を出たあと、
城の空気は、ほんのわずかに揺れ始めていた。
まだ誰も声には出さない。
けれど、
廊下を歩く侍女たちの視線が、
いつもより長くロザリンを追った。
ロザリンは胸に手を当てた。
宰相に告げた言葉が、
まだ体のどこかに残っている。
「……好きな人がいるからです。」
あの瞬間の自分の声は、
驚くほど静かだった。
(……でも、まだ誰にも言ってない。
宰相以外には。)
そう思いながら歩いていると、
すれ違った侍女たちが 小さく会釈をしながら、
そのあとでそっと顔を寄せ合った。
声は聞こえない。
けれど、 “何かを話している”空気だけが伝わる。
ロザリンは足を止めなかった。
止まったら、 胸の奥が揺れてしまいそうだった。
侍女控え室では、湯気の立つ茶器のそばで
二人の侍女が静かに話していた。
「……姫様、
今日は宰相閣下のところへ行かれたんでしょう?」
「ええ。 でも……
理由は聞かされていないの。」
「政略結婚の件……
何かあったのかしら。」
声は小さい。
誰にも聞かれないように、
扉の方を何度も確認しながら。
「姫様…… 最近、少し……
雰囲気が違う気がしません?」
「分かる。
なんというか…… 迷っているような……
でも、決めているような……」
「……誰か…… 想っている方がいるのかも。」
「まさか…… そんな……」
二人はそこで言葉を止めた。
名前は出ない。
出せるはずもない。
けれど、
“姫様が誰かを想っているらしい”
という曖昧な形だけが
静かに部屋の空気に溶けていった。
兵士たちの間にも、
同じような“空気”が漂い始めていた。
「……姫様、
今日は宰相閣下のところへ行かれたらしい。」
「政略結婚の件か?」
「だろうな。
でも…… 姫様の表情が……
なんというか…… いつもと違った。」
「違った?」
「うまく言えないが……
何かを決めた人の顔だった。」
「……誰かを想っているのか?」
「さあな。
ただ…… そういう雰囲気はあった。」
兵士たちの会話は、
侍女たちよりもさらに曖昧で、
さらに遠い。
けれど、
“姫様の心に誰かがいるらしい”
という形だけが静かに広がっていく。
ロザリンは自室に戻り、
窓辺に腰を下ろした。
外の庭では、風が木々を揺らしている。
(……まだ噂にはなっていない。
でも…… 空気が変わってる。)
胸の奥がざわつく。
宰相に言った言葉が、
自分の中で何度も反響する。
(……ロウ…… あなたに伝わるのは
…… いつなんだろう。)
ロザリンは目を閉じた。
(……でも、まだ言わない。
これは…… 政治の理由。
恋の言葉じゃない。)
自分に言い聞かせるように、
ゆっくりと息を吐いた。
ロウはベッドに腰を下ろし、
足をゆっくり動かしていた。
医務室の空気は静かで、
外のざわつきなどまったく届いていない。
ロウはただ、
昨日より少しだけ軽くなった足の感覚を
確かめていた。
(……姫様…… 今日は……
どこへ行かれたんだろう。)
ロウは知らない。
ロザリンが宰相に何を言ったのかも、
城の空気が少しずつ変わり始めていることも。
噂はまだ、 ロウの耳には届かない。
ただ、 静かな時間だけが流れていた。




