第68話 ほんの数歩
数日後。
医務室の空気は、
まだロウの呼吸の余韻を含んでいた。
ロウは立ち上がった姿勢を保ったまま、
しばらく動かなかった。
足の震えが、
ほんの少しずつ落ち着いていくのを待っていた。
医務室の空気は静かで、窓から入る風がカーテンを
揺らす音だけが聞こえる。
ロザリンはロウのそばに立ち、
支えていた手をそっと離した。
けれど、すぐに触れられる距離にいる。
その距離は、
ロウが倒れそうになればすぐに支えられる、
ぎりぎりの近さだった。
「……歩けそう?」
ロザリンの声は、
期待を押しつけるものではなく、
ただロウの意思を確かめるためのものだった。
ロウは白線の先を見つめた。
ほんの数歩。
けれど、今の彼には遠い距離。
「……はい。 やってみたいです。」
ロザリンは一歩だけ下がり、
ロウの進む方向を空けた。
ロウはゆっくりと足を前に出す。
一歩。
床に触れた瞬間、 筋肉がぎこちなく反応する。
呼吸が浅くなる。
ロウは胸の前で小さく息を整えた。
二歩目。
体がわずかに傾き、 ロウは壁に手をついた。
ロザリンが近づく。 触れはしない。
けれど、すぐ支えられる距離にいる。
「……大丈夫?」
ロウは壁に触れたまま、
小さく頷いた。
「……はい。 まだ……いけます。」
ロザリンはその言葉を聞き、
胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
ロウは壁から手を離し、
もう一度白線を見た。
三歩目。
足が前に出る。 震えはある。
けれど、倒れそうではない。
ロウの背中が、
昨日よりも少しだけ大きく見えた。
「ロウ……」
呼びかけた声は、
自分でも驚くほど小さかった。
ロウは振り返らない。
ただ前を見て、
もう一歩を踏み出した。
四歩目。 五歩目。
足を出すたびに、
筋肉が“思い出す”ように震える。
痛みではない。
ただ、長く使っていなかった身体が、
ゆっくりと目を覚ましていく感覚。
ロザリンはその様子を見つめながら、
胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
ロウは足を止め、
ゆっくりと振り返った。
「……姫様。 ここまで……来られました。」
ロザリンは息を呑んだ。
ほんの数歩。
けれど、
その数歩に込められたものは大きい。
「……うん。 すごいよ、ロウ。」
ロウはわずかに目を伏せ、
静かに息を吐いた。
「……まだ……歩けます。」
その声は弱くない。
昨日までにはなかった“芯”があった。
ロザリンはそっと頷いた。
「じゃあ……もう少しだけ。
無理はしないでね。」
ロウは再び白線に向き直り、
ゆっくりと足を前に出した。
六歩目。 七歩目。
足が震えるたびに、 ロウは呼吸を整え、
姿勢を直し、 また前へ進んだ。
ロザリンはその背中を見つめながら、
胸の奥で何かが静かにほどけていくのを
感じていた。
ロウは、
確かに前へ進んでいた。
医務室の静けさの中で、
その歩みだけが、
確かな音を持って響いていた。




