第39話「揺れる心、動き出す影」
視察を終えた広場には、まだ民のざわめきが残っていた。
風が旗を揺らし、馬の蹄が石畳を軽く叩く音が響く。
ロザリンは馬車の前で立ち止まり、
宰相ヴァルガの言葉を胸の奥で反芻していた。
「この後、もう一か所だけお立ち寄りいただきたい場所がございます」
返事をしようとしたが、喉が固まった。
ロウはロザリンの横で、静かに宰相を見ていた。その視線は鋭いが、声は出さない。
宰相もまた、ロウを観察するように目を細める。
微笑みは崩さないまま、瞳だけが冷たい。
二人の間に、言葉のない緊張が走った。
ロザリンはその空気を肌で感じ、胸がざわつく。
(……二人とも……何を考えているの……?)
父の弱った姿が浮かぶ。
(……お父様……
本当に、私に“外へ出ること”を望んでいるの……?)
宰相の言葉は本当なのか。
父の意思はどこにあるのか。
胸の奥に冷たい疑問が沈んでいく。
ロザリンの視線がわずかに揺れた。
ロウが静かに口を開いた。
「姫様の安全が最優先です」
その一言に強い意志が宿っている。
宰相は微笑みを崩さず、柔らかく返した。
「もちろんですとも。
だからこそ、姫様には私がご案内を」
言葉は丁寧。
だが、ロウの言葉を“上書きする”ような響きがあった。
ロザリンは二人の間に立ち、
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
広場の端では、まだ民が名残惜しそうにこちらを見ている。
子どもが手を振り、母親がその手をそっと押さえた。
(……民の前に立つのは、王女として当然……
でも、今の私は……)
責任感が胸を重くする。
ロザリンの指先が、ほんの少しだけ強張った。
ロウは宰相の部下たちの動きを観察していた。
(……馬車の準備が、早すぎる)
視察が終わったばかりなのに、
次の移動のための馬車はすでに整えられている。
(……姫様の返事を待つ気がない……)
さらに、
広場の出口には兵が増えていた。
視察のときよりも明らかに多い。
(……これは“護衛”ではなく“誘導”だ)
ロウの視線が鋭くなる。
宰相はロザリンの迷いを見抜き、
柔らかい声で追い打ちをかけた。
「姫様。
陛下も……姫様が民の声を聞くことを望んでおられます」
ロザリンの胸が揺れる。
宰相はさらに続けた。
「先ほどの視察で、民は姫様の姿に大いに喜びました。
このままお戻りになれば……
“姫様は民を見捨てた”と噂されるやもしれません」
ロザリンの呼吸が浅くなる。
(……そんな……)
ロウは一歩前に出た。
声は低いが、明確な拒絶があった。
「宰相殿。
姫様を追い詰めるような言い方はお控えください」
宰相は微笑んだまま、
その目だけが冷たく光った。
「追い詰めてなどおりませんよ。
私はただ……姫様の“責務”をお伝えしているだけです」
言葉は柔らかい。
だが、その裏にある意図は鋭い。
ロザリンはロウの横顔を見つめた。
(ロウ……
あなたは、どうしてそこまで……
何を知っているの……?)
“信じたい気持ち”と“分からない不安”が交差する。
迷いは深い。
宰相の部下たちは馬車の扉を確認し、
兵たちは道を整え、
誰かが旗で合図を送っていた。
ロザリンの決断を待たずに、
宰相の罠はすでに動き始めている。
ロウはロザリンの前に立ち、
静かに言った。
「姫様。
流されてはなりません」
ロザリンは息を呑む。
宰相は微笑みを保ったまま、
その瞳だけが冷たく光った。
ロザリンの迷いはまだ終わらない。
だが、
その迷いを利用する影は、
すでに彼女を囲み始めていた。




