第37話 病の王と、宰相の影
第37話 病の王と、宰相の影
謁見室の扉を開けた瞬間、ロザリンの胸は強く締めつけられた。
椅子に身を預ける父──レオンハルト国王は、以前のような威厳をまとう姿ではなかった。
痩せた頬、青白い肌。
浅い呼吸が胸元をわずかに上下させるたび、弱り切った身体が痛々しく見える。
焦点の合わない瞳が、娘の姿を探すように揺れた。
「……ロザ……リン……」
かすれた声が、空気を震わせた。
ロザリンは駆け寄り、父の手をそっと握る。
「お父様……」
国王は握り返そうとしたが、力が入らず、指先が震えるだけだった。
そのとき──
背後から、静かに足音が近づいた。
「姫様。陛下は長く話せる状態ではありません」
ヴァルガ宰相だった。
深々と頭を下げながらも、その目は冷たく、計算された光を宿している。
ロウはその姿を見た瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
──この男の“魔術の気配”だ。
少年の頃、地下研究所で嗅いだあの匂い。
父が実験で命を落としたあの日の気配。
自分の力を奪われかけた、あの冷たい手。
(……宰相。
あなたが……また何かをしているのか?)
ロウの指先がわずかに震えた。
だが、ロザリンの前で感情を露わにするわけにはいかなかった。
宰相はロザリンの前に進み出て、
まるで“王の意思”を代弁するかのように告げた。
「姫様。
隣国より、正式な婚姻の申し出が届いております」
ロザリンは息を呑んだ。
「婚姻……?」
宰相は淡々と続ける。
「王国の安定のため、そして隣国との同盟強化のため、極めて重要な縁談でございます」
ロザリンは父を見る。
国王は苦しげに息をしながら、かすかに首を動かした。
「……ロザ……リン……すま……ぬ……」
その声は、娘を思う気持ちだけが残った、弱々しい響きだった。
ロザリンの胸が痛む。
(お父様……本当に……あなたの意思なの?
それとも……宰相が……?)
宰相はその隙を逃さず、静かに言葉を重ねた。
「陛下も、この縁談を前向きに検討すべきとお考えです」
ロザリンは震える声で言った。
「……お父様が……本当にそうおっしゃったのですか?」
宰相は微笑んだ。
その笑みは、氷のように冷たかった。
「もちろんでございます。
陛下は……姫様の将来を案じておられます」
ロウは一歩前に出た。
「宰相殿。
陛下の病状は、私の知る“自然な病”とは違う。
あなたが──」
宰相はロウの言葉を遮った。
「ロウ殿。
あなたは護衛であって、政治に口を挟む立場ではありません」
ロウの拳が震える。
怒りではない。
──恐怖だ。
この男が再びロザリンに手を伸ばすかもしれないという恐怖。
宰相は静かに告げた。
「姫様。
この縁談は、王国の未来を左右するもの。
どうか……賢明なご判断を」
ロザリンは父の手を握りながら、胸の奥で何かが崩れていくのを感じた。
(……お父様は……
もう自分の意思で話せないほど弱っているの?
それとも……宰相が……?)
ロウはその横顔を見つめながら、静かに誓った。
(宰相……
今度こそ、あなたの思い通りにはさせない。
姫様は……絶対に守る)
その決意は、かつて地下研究所から逃げたあの日よりも強かった。
第38話「揺らぐ日常 ― 姫を外へ誘う影」
謁見室を出たあとも、ロザリンの胸は重く沈んでいた。
父の弱り切った姿が、まぶたの裏に焼きついて離れない。
(……お父様。
本当に……あの縁談を望んでいるの?)
宰相の言葉は冷たく、
父の意思を代弁しているようには思えなかった。
ロウはロザリンの横を歩きながら、
何度も後ろを振り返っては、宰相の気配を探っていた。
「……ロウ?」
ロザリンが声をかけると、ロウは小さく首を振った。
「姫様。
宰相の言葉を……そのまま信じてはなりません」
ロザリンは立ち止まる。
「どういう意味……?」
ロウは言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「陛下の病は……自然なものではない可能性があります。
宰相が……何かをしているのかもしれません」
ロザリンの胸がざわつく。
「……ロウ。
あなた、何か知っているの?」
ロウは一瞬だけ目を伏せた。
幼い頃の記憶──地下研究所、父の死、奪われかけた力。
そのすべてが胸を締めつける。
だが、ロザリンにその過去を語ることはできなかった。
「……いえ。
ただ、宰相の動きが不自然なのです」
ロザリンはロウの横顔を見つめた。
その瞳には、言葉にできない強い警戒が宿っている。
(ロウ……何を隠しているの?
でも……あなたが私を守ろうとしてくれているのは分かる)
ロザリンは小さく息を吸った。
「……ありがとう、ロウ。
でも、私は……お父様の意思を確かめたいの」
ロウはその言葉に胸が痛んだ。
(姫様……あなたは優しすぎる。
だからこそ、宰相に狙われる)
その日の夕刻。
ロザリンの部屋に、侍女が一通の封書を持ってきた。
「姫様。宰相閣下より、お届け物です」
ロザリンは眉をひそめながら封を切る。
中には、丁寧な筆致でこう書かれていた。
『姫様。 明日、城下の視察にご同行いただきたく存じます。 王家のご威光を示すためにも、ぜひご出席を。 宰相 ヴァルガ』
ロザリンは息を呑んだ。
(……視察?
今、この時期に?
お父様があんな状態なのに……?)
ロウがすぐに駆け寄ってきた。
「姫様、その手紙……」
ロザリンは震える指で手紙を差し出した。
ロウは一読し、表情を固くした。
「……宰相が、姫様を外へ連れ出そうとしている」
「外へ……?」
ロウは深く頷いた。
「姫様。
これは“偶然”ではありません。
宰相は……あなたを城から離したいのです」
ロザリンの胸が冷たくなる。
(……お父様のそばから、私を遠ざけるため?
それとも……別の理由?)
ロウは手紙を握りしめ、低く言った。
「姫様。
明日の視察……僕は、絶対に同行します。
宰相が何を企んでいようと、あなたを守る」
ロザリンはロウの瞳を見つめた。
その中には、揺るぎない決意が宿っている。
(ロウ……
あなたは、どうしてそこまで……)
胸が熱くなる。
だが同時に、
宰相の影がじわりと迫ってくるような恐怖が、
ロザリンの背筋を冷たく撫でた。
その夜。
ロザリンは窓辺に立ち、月を見上げた。
(……お父様。
私はどうすればいいの?
宰相の言葉を信じるべきなの?
それとも……ロウの警告を?)
月の光が静かに部屋を照らす。
ロザリンは胸に手を当てた。
(……明日、何が起こるのか分からない。
でも……ロウがそばにいてくれるなら……)
小さく息を吐き、目を閉じた。
(……私は、前に進む)
その決意は、
まだ弱く、揺れていた。
だが確かに、
ロザリンの中で何かが動き始めていた。
第40話「揺れる心、動き出す影」
視察を終えた広場には、まだ民のざわめきが残っていた。
風が旗を揺らし、馬の蹄が石畳を軽く叩く音が響く。
ロザリンは馬車の前で立ち止まり、
宰相ヴァルガの言葉を胸の奥で反芻していた。
「この後、もう一か所だけお立ち寄りいただきたい場所がございます」
返事をしようとしたが、喉が固まった。
ロウはロザリンの横で、静かに宰相を見ていた。その視線は鋭いが、声は出さない。
宰相もまた、ロウを観察するように目を細める。
微笑みは崩さないまま、瞳だけが冷たい。
二人の間に、言葉のない緊張が走った。
ロザリンはその空気を肌で感じ、胸がざわつく。
(……二人とも……何を考えているの……?)
父の弱った姿が浮かぶ。
(……お父様……
本当に、私に“外へ出ること”を望んでいるの……?)
宰相の言葉は本当なのか。
父の意思はどこにあるのか。
胸の奥に冷たい疑問が沈んでいく。
ロザリンの視線がわずかに揺れた。
ロウが静かに口を開いた。
「姫様の安全が最優先です」
その一言に強い意志が宿っている。
宰相は微笑みを崩さず、柔らかく返した。
「もちろんですとも。
だからこそ、姫様には私がご案内を」
言葉は丁寧。
だが、ロウの言葉を“上書きする”ような響きがあった。
ロザリンは二人の間に立ち、
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
広場の端では、まだ民が名残惜しそうにこちらを見ている。
子どもが手を振り、母親がその手をそっと押さえた。
(……民の前に立つのは、王女として当然……
でも、今の私は……)
責任感が胸を重くする。
ロザリンの指先が、ほんの少しだけ強張った。
ロウは宰相の部下たちの動きを観察していた。
(……馬車の準備が、早すぎる)
視察が終わったばかりなのに、
次の移動のための馬車はすでに整えられている。
(……姫様の返事を待つ気がない……)
さらに、
広場の出口には兵が増えていた。
視察のときよりも明らかに多い。
(……これは“護衛”ではなく“誘導”だ)
ロウの視線が鋭くなる。
宰相はロザリンの迷いを見抜き、
柔らかい声で追い打ちをかけた。
「姫様。
陛下も……姫様が民の声を聞くことを望んでおられます」
ロザリンの胸が揺れる。
宰相はさらに続けた。
「先ほどの視察で、民は姫様の姿に大いに喜びました。
このままお戻りになれば……
“姫様は民を見捨てた”と噂されるやもしれません」
ロザリンの呼吸が浅くなる。
(……そんな……)
ロウは一歩前に出た。
声は低いが、明確な拒絶があった。
「宰相殿。
姫様を追い詰めるような言い方はお控えください」
宰相は微笑んだまま、
その目だけが冷たく光った。
「追い詰めてなどおりませんよ。
私はただ……姫様の“責務”をお伝えしているだけです」
言葉は柔らかい。
だが、その裏にある意図は鋭い。
ロザリンはロウの横顔を見つめた。
(ロウ……
あなたは、どうしてそこまで……
何を知っているの……?)
“信じたい気持ち”と“分からない不安”が交差する。
迷いは深い。
宰相の部下たちは馬車の扉を確認し、
兵たちは道を整え、
誰かが旗で合図を送っていた。
ロザリンの決断を待たずに、
宰相の罠はすでに動き始めている。
ロウはロザリンの前に立ち、
静かに言った。
「姫様。
流されてはなりません」
ロザリンは息を呑む。
宰相は微笑みを保ったまま、
その瞳だけが冷たく光った。
ロザリンの迷いはまだ終わらない。
だが、
その迷いを利用する影は、
すでに彼女を囲み始めていた。
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