第36話 宰相、静かに糸を張る
王城の朝は、どこか落ち着かない気配を含んでいた。
昨日、ロザリンとロウの距離が決定的に近づいたことは、
まだ誰も言葉にはしていない。
けれど、王城に仕える者たちの空気は、
その変化を敏感に感じ取っていた。
侍女たちは姫の表情が柔らかくなったことに気づき、
騎士たちはロウの目に宿る静かな光を見て、
文官たちはふたりの距離が“ただの主従”ではないことを悟り始めていた。
だが──
その変化を、ただひとりだけ“危険”と捉える者がいた。
宰相ヴァルガである。
分厚いカーテンで閉ざされた執務室。
魔術灯の青白い光が、机の上の書類を照らしている。
ヴァルガは羽ペンを走らせながら、
昨日のふたりの様子を思い返していた。
(……姫様の心が、ロウに傾き始めている)
王家の決定が、ひとりの騎士の存在に左右される。
そんな未来は、
宰相にとって受け入れがたいものだった。
ヴァルガは書類を一枚取り上げる。
そこには、各国の王族・貴族の名が並んでいた。
「……姫様には、いずれ“政略結婚”の話が持ち上がる。
王家の血を継ぐ者として、避けられぬ道だ」
側近の文官が恐る恐る口を開く。
「しかし宰相閣下……
そのような話を急ぐ必要は──」
「急ぐ必要があるのだ」
ヴァルガは淡々と答えた。
「姫様の心がロウに傾ききる前に、
“王家の義務”という鎖で縛らねばならぬ」
文官は息を呑む。
ヴァルガは続けた。
「姫様の心を動かす必要はない。
“王国の仕組み”を動かせばよいのだ」
ヴァルガは机に広げた書類を並べ替えながら、
冷静に状況を整理していく。
隣国との同盟強化
王国の安定
王家の血統の保全
他国からの信頼を得るための象徴的な婚姻
どれも“正論”に見える。
だが、その裏にある意図はただひとつ。
ロザリンを縛り、ロウを遠ざけるため。
ヴァルガは静かに呟いた。
「姫様が誰かと婚姻すれば、
ロウの立場は自然と消える。
姫様のそばにいる理由がなくなるのだ」
文官は震える声で尋ねた。
「……姫様は、従われるでしょうか?」
「従うさ。
姫様は優しい。
優しさは、時に最も扱いやすい」
その言葉は、
氷のように冷たかった。
ヴァルガは新たな書状を取り出し、
丁寧に文面を整え始めた。
その内容は──
王国の安定のため
他国との友好のため
王家の血統を守るため
という名目で、
ロザリンに政略結婚を提案するものだった。
もちろん、
ロザリンの意思など一切考慮されていない。
ヴァルガは書状に王印を押し、
静かに呟いた。
「姫様……
あなたの心がどれほど強くとも、
“王家の義務”という鎖からは逃れられまい」
その声は、
王城の闇に溶けていった。
その頃、ロザリンは中庭で花に触れ、
ロウと穏やかな時間を過ごしていた。
ふたりの距離は、昨日よりも近い。
言葉を交わすたびに、
互いの心が静かに寄り添っていく。
ロウはロザリンの横顔を見つめながら、
胸の奥に温かいものを感じていた。
(姫様……
あなたの笑顔を守りたい)
ロザリンもまた、
ロウの存在に心を支えられていた。
(ロウ……
あなたがそばにいてくれるだけで、
私は強くなれる)
だが──
その穏やかな時間の裏で、
ふたりを引き裂くための“策”が動き始めていた。
ロザリンはまだ知らない。
ロウもまだ気づいていない。
王国の仕組みそのものが、
ふたりの関係に影を落とそうとしていることを。




