第135話 影が動く─証拠提出前夜
角を曲がった瞬間、ロウは足を止めた。
廊下の奥、灯りの届かない場所に、黒い影がひとつ、じっと立っていた。
ロウは声を出さず、腰の剣にそっと手を添える。
影は動かない。ただ、こちらを見ている。
(……宰相派の影班)
ロウが一歩踏み出すと、影は音もなく後退し、闇に溶けるように消えた。
追うべきか──ロウは一瞬迷ったが、すぐに判断を切り替えた。
(今は姫様の護衛が最優先だ)
ロウは急ぎ団長室へ向かった。
扉を叩くと、すぐに団長の声が返ってきた。
「入れ」
ロウは中へ入り、影班の気配を報告した。
団長は眉をひそめる。
「……やはり動いたか」
机の上には、重鎮たちへ提出するための証拠の束が置かれていた。
革表紙の研究ノートの写し。侍医の記録の断片。偽造された診断書の写し。宰相の筆跡の照合結果。
どれも、宰相を逃れられない場所へ追い込む証拠だ。
団長は低く言った。
「ロウ。宰相派は“証拠そのもの”を狙ってくる。そして──姫様もだ。」
ロウの胸が強く締めつけられた。
「……必ず守ります」
団長は頷いた。
「明日の提出までは、私とお前で姫様を守る。他の者は信用できん」
ロウが戻ると、ロザリンは机に向かい、革表紙の研究ノートの写しを見つめていた。
その横顔は静かで、しかし深い決意を宿していた。
ロウはそっと声をかける。
「姫様。宰相派が動き始めました。今夜は特にお気をつけください」
ロザリンはゆっくりと顔を上げた。
「……来るのね。証拠を提出される前に、何としても止めたいのでしょう」
ロウは頷いた。
「はい。姫様を狙う可能性も高いです」
ロザリンは胸元を押さえ、静かに息を整えた。
「ロウ……私は逃げません。母上のためにも、この国のためにも」
ロウはその言葉に、深く頭を垂れた。
「姫様。僕が必ずお守りします」
ロザリンは微笑んだ。その微笑みは、どこか儚く、しかし強かった。
その夜──王城のあちこちで、黒い影が動き始めた。
廊下の端。中庭の影。塔の階段。
どれも、ロザリンの部屋へ向かう“道筋”を探るように。
ロウは扉の前に立ち、剣に手を添えたまま、静かに目を閉じた。
(来るなら来い……姫様には指一本触れさせない)
夜は深まり、影はさらに濃くなっていく。
明日──証拠が提出されれば、宰相ヴァルガは終わる。
だからこそ、今夜が最も危険だった。




