第110話 花の力
ロウは、姫の部屋の前に戻ってきた。
夜明け前の空気は冷たく、
胸の奥に残った“あの空気”の名残がまだ微かに疼いている。
けれど──
扉の向こうにある気配が、その疼きを静かに押し返してくれる。
(……姫様)
ロウはそっと扉を開けた。
ロザリンは、まだ眠っていた。
月の光を受けた横顔は穏やかで、
その呼吸はロウの胸のざわつきを少しずつ溶かしていく。
ロウは結界を解除し、ベッドのそばに膝をついた。
その瞬間──
ロザリンのまつげが揺れ、ゆっくりと目を開けた。
「……ロウ?」
ロウは姿勢を正した。
「おはようございます、姫様。」
ロザリンは上体を起こし、ロウの顔をじっと見つめた。
「ロウ……手が……」
ロウは一瞬だけ視線を逸らした。
指先が、震えていた。
「……失礼しました。お気になさらず」
ロザリンは布団から出て、ロウの前に歩み寄った。
そして、そっとロウの手を取る。
冷たい。
ロザリンの胸がきゅっと痛んだ。
「……ロウ……また、地下に行ったの……?」
ロウの喉が、わずかに上下する。
すぐには答えない。
言葉を探している沈黙だった。
ロザリンは急かさなかった。
ただ、ロウの手を包み、温めるように握りしめた。
「……影班を追って地下に入った時……
またあの頃と同じ匂いと、同じ空気を感じて……
その後に……宰相の研究室に入りました」
ロウは視線を落としたまま続けた。
「……また身体が……勝手に反応しました。
そうしたら、震えが止まらなくなって……」
ロウの震える指先が、ロザリンの手を離さない。
ロザリンは、その手をぎゅっと握りしめた。
「ロウ」
名前を呼ぶだけで、喉が熱くなる。
ロザリンは近づき、そっとロウを抱きしめた。
ロウの身体が、一瞬だけ硬くなり──
ゆっくりと力が抜けた。
額が、ロザリンの肩に触れる。
ロザリンはロウの背に腕を回し、静かに目を閉じた。
胸の奥で、花の気配がふわりと広がる。
ロザリンの中に宿る花の力が、静かにロウの震えに触れていく。
温かなものが、じんわりと広がるように。
ロウの呼吸が、少しずつ整っていく。
手の震えも、ゆっくりと弱まっていった。
ロザリンは、ロウの背を撫でながら囁いた。
「……ロウ……私のために……
ありがとう」
ロウは、ロザリンの肩越しに、
かすかに息を吐いた。
ロウはゆっくりと顔を上げる。
「……姫様。
もう一つ、お伝えしなければならないことがあります」
研究室から持ち帰った箱を取りに行く。
そしてロウは箱を開け、中のノートを一冊取り出す。
「研究室の棚の奥に……王妃様の記録です」
ロザリンの指が止まる。
「宰相が王妃様に施していた術式、
魔力の推移、体調の変化……
すべてが記されています」
ロザリンはノートを受け取り、ページをめくった。
そこに並ぶ文字は、
彼女の知らない“母の最期”だった




