第109話 沈む空気の記憶
ロウは、姫の部屋の前で夜明けを迎えた。
影班の気配は、昨夜からずっと消えていない。
いつもなら、交代の気配がある。
だが今夜は──
“見張り続けている” 気配だけが、
じっと張りついていた。
(……宰相の命令だな)
胸の奥に、じわりと嫌な重さが広がる。
この重さ──
(……まさか)
ロウは扉越しに、ロザリンの気配を確かめた。
姫は深く眠っている。
呼吸は落ち着いている。
ロウは静かに扉を開け、ベッドのそばに膝をついた。
「……姫様。
少しだけ、お守りを離れます」
ロウは手をかざし、月の力で“簡易結界”を張った。
淡い光が部屋を包み、空気が静かに澄んでいく。
宰相の術式にも反応しない
短時間だけだが、絶対に破られない防御結界。
(これで……姫様は安全だ)
ロウは気配を完全に消し、影班に悟られないように後をつける。
影班の向かう先は王城の奥にある、古い石階段。
ロウは階段の前に立ち、冷たい空気を吸い込んだ。
(……やはり、ここだ)
ロウは一歩、暗闇へ足を踏み入れた。
古い石階段を降りるたびに、金属の匂い、
薬品の刺激臭、湿った石壁の冷気がする。
(……また……この空気……)
ロウの肺が、わずかに縮んだ。
(……姫様……)
ロウは階段の底にある鉄扉の前で立ち止まり、
指先に月の力を集めた。
扉に触れると、微かな“魔術封印の揺れ”が返ってくる。
(宰相の封印……古いが、まだ残っている)
ロウは静かに封印を解除し、扉を押し開けた。
ギィ……と、湿った音が闇に溶ける。
中は薄暗い研究室だった。
足を踏み入れた瞬間──
胸の奥が、ひやりと沈む。
指先が、震える。
ロウはすぐに呼吸を整え、震えを押し込めるように拳を握った。
(……大丈夫だ。今は任務に集中しろ)
机、棚、器具。
どれも埃をかぶっているのに、
“完全に放棄された”空気ではない。
(……最近まで使われていた)
ロウは部屋の中央で足を止めた。
空気の流れが、ほんのわずかに歪んでいる。
(……棚の前だけ、魔力が滞っている)
月の力で気配を読むと、
棚の奥に“魔術封印の残り香”がある。
(……ここだ)
ロウは棚に近づき、木板の表面を指でなぞった。
その瞬間──
指先に“異質な揺れ”が触れた。
(……姫様の魔力に……似ている?)
似ている。
けれど、違う。
ロザリンの魔力よりも、もっと淡く、
もっと深く、長い時間を沈んできたような──
古い花の力。
ロウの胸が冷たくなる。
(……血の繋がり……姫様と同じ系統……
なら……これは……)
喉がひとりでに鳴った。
(……フローラ王妃……)
ロウは木板を押し、隠し板を外した。
奥に──
小さな箱があった。
重い。
魔術封印が施されている。
ロウは月の力で封印を解き、箱を開けた。
中には──
革表紙の研究ノート、魔術式の設計図、花の力抽出器具の設計メモ、王妃の体調変化の記録、実験経過の走り書き、
“次の実験体”としてロザリンの名前。
ロウの手が止まった。
ページをめくるたびに、宰相の筆跡が並ぶ。
「花の力の反応、低下」
「王妃の魔力、限界」
「抽出量、予定値に届かず」
「次の適合者──ロザリン」
ロウの指が震えた。
(姫様……宰相は……)
胸の奥が、冷たい怒りで満たされていく。
ロウはノートを閉じ、深く息を吸った。
(……これが、証拠だ)
宰相が隠し続けてきた真実。
王妃の死の理由。
ロザリンが狙われている理由。
すべてが、この箱の中にある。
ロウは箱を抱え、部屋を出ようとした。
その時──
背後で、微かな“花の香り”が揺れた。
(……王妃様……)
ロウは振り返らず、そっと部屋を出た。
(姫様のところへ戻らないと……)
結界の時間は限られている。
ロザリンを守るために、ロウは震える拳で闇を抜けて行った。




