第108話 影が寄る
ロウは、
姫の部屋の前に立ったまま動かなかった。
扉の向こうでは、ロザリンが静かに筆を走らせている。
その音が、いつもより遠く、薄く感じられた。
(……空気が重い)
廊下の石壁が、
わずかに湿っているように見える。
王城は、“何かが動く前”だけ、
こうして沈む。
ロウはゆっくりと息を吸い、吐いた。
(団長……裏を取ったんだな)
胸の奥で、団長の静かな決意が響いているようだった。
だが──
それとは別に、
もっと直接的な“異変”があった。
廊下の奥で、影が揺れた。
ほんの一瞬。
だが、ロウには分かる。
(……影班)
足音はない。
気配も薄い。
だが、“空気の揺れ” は隠せない。
ロウは扉から一歩も離れず、視線だけで廊下の奥を探る。
影班は、姫を見ていない。
“俺を見ている”。
(……監視か)
ロウは目を細めた。
影班は、宰相の命令で動く。
つまり──
宰相が“姫の部屋の前にいる俺”を気にしている。
(……俺が離れた瞬間を狙うつもりだ)
団長の言葉が、胸の奥で重く響く。
ロウは扉に手を置いた。
(姫様……絶対に離れません)
その時だった。
廊下の奥から、もう一つの影が現れた。
影班ではない。
もっと静かで、もっと薄い。
宰相の側近──“影を運ぶ者”。
ロウは息を潜めた。
側近は、姫の部屋の前まで来ない。
だが、廊下の角で立ち止まり、
こちらを一度だけ見た。
その目は、“確認”の目だった。
そして──
その背後に、“もっと冷たい気配” があった。
姿は見えない。
声もない。
だがロウには分かる。
(……宰相の“気配”だ)
ヴァルガ宰相は、王城のどこにいても
“空気の温度”を変える。
今、廊下の空気が沈んだのは──
宰相の意志がここに届いたからだ。
側近は何も言わず、何もせず、
ただ静かに去っていった。
だが、その沈黙が何よりも重かった。
ロウは廊下の奥を見つめたまま、
ゆっくりと息を吐く。
(……宰相は、姫様を“今”狙っている)
影班の気配が、さっきより増えている。
廊下の空気が、さらに重く沈んでいく。
ロウは扉に背を預けた。
姫の部屋の中から、ロザリンの筆の音が聞こえる。
その音が、今は妙に心細く感じられた。
(……来るなら来い)
ロウは目を閉じた。
(姫様の前では……俺は絶対に負けない)
王城の奥で、確かに“宰相の影”が動き始めていた。




