第103話 姫様の笑顔
ロウが戻ってきたのは、
夕刻の光が部屋に差し込む頃だった。
「……ただいま戻りました」
ロザリンは顔を上げる。
(……歩き方が、少し違う)
けれどロウは、いつものように膝をついた。
「影班の追跡に行ってきました…」
「どうだったの?」
ロザリンが促すと、
ロウは淡々と報告を始めた。
「影班は、城の地下通路を抜け……
旧研究棟の“地下室”に向かいました…」
ロザリンは瞬きをした。
「……地下室?
そんな場所があるの?」
「はい。姫様がご存じない区画です。」
ロザリンの胸がざわつく。
ロウは続けた。
「……そこで影班と宰相が、
接触しているのが扉の隙間から見えて……
”宰相閣下のご指示で──”
”王の衰弱は—順調です”……
”…術式の準備をなさいますか?”……
と声が漏れ聞こえてきました。」
ロウは必要なことだけを選ぶように言葉を並べた。
「……ご報告は以上です、姫様」
声は整っている。
でも、奥に揺れがある。
ロザリンは息を整えようとしたが、
その時ようやく気づいた。
ロウの指先が、わずかに震えている。
「ロウ……?」
ロウは顔を上げる。
ロザリンは立ち上がり、
ロウの前に歩み寄った。
「ロウ。手が震えてる」
ロウは一瞬だけ視線を逸らした。
「……失礼しました。
お気になさらず」
「気にするわよ……」
ロザリンはそっとロウの手を取った。
冷たい……
(……この震えは……)
ロザリンは声を落とした。
「……ロウ。
その地下で……なにかあったの?」
ロウの喉が、わずかに上下する。
すぐには答えない。
言葉を探している沈黙だった。
ロザリンは、
その沈黙を急かさなかった。
ロウの手を温めるように包みながら、
離さずに待つ。
やがてロウは、
押し出すように低く言った。
「……影班を尾行しているとき、
昔の地下の……空気を……思い出しました」
「空気……?」
ロウは、視線を落としたまま続けた。
「……金属の匂い。
薬品の刺激臭……
湿った石壁……
……あの頃と、同じでした」
ロザリンの胸が痛む。
ロウは、
言葉を選ぶように続けた。
「……ヴァルガ宰相の術式の……実験体の頃です……」
声は低く、硬い。
でも、その奥に揺れがある。
「月の力を抽出する……宰相の禁呪です」
ロザリンは息を呑む。
ロウの指先に、
さらに力が入った。
「その実験のせいで………刻印を刻まれ……感情が揺れると……暴走する体質になってしまいました。
ロザリンの胸が締めつけられる。
「……そしてある夜に………研究所を逃げ出しました。
……月の力を……全て取られる恐怖と……逃げなければ殺されるという本能が………トラウマとして……今も思い出します。」
ロザリンは、ロウを見つめながら
話を受け止める。
ロウは続けた。
「……今日、影班を追って地下に入った時、
あの頃と同じ匂いと…雰囲気と……」
喉がひくりと動く。
「……身体が………勝手に反応しました。
震えが止まらなくなって……
剣を握る手に……力が入りませんでした」
ロウは、悔しそうに目を伏せた。
「騎士として……
本来あってはならないことです」
ロザリンは首を振った。
「ロウ………
それは、騎士とか関係ないわ」
ロウは、
一瞬だけロザリンを見た。
その目の奥に、揺れがあった。
「……でも」
言葉が一度途切れる。
ロザリンは待った。
ロウは、ゆっくりと息を吸った。
「……でも姫様の笑顔を思い出したら、
少し落ち着きました………」
ロザリンの胸が強く揺れる。
「……ここに戻ると、決めていますので。
そして姫様に報告をすると………」
ロウの震える指先が、
ロザリンの手を離さない。
ロザリンは、
その手をぎゅっと握りしめた。
「ロウ」
名前を呼ぶだけで、喉が熱くなる。
ロザリンは一歩近づき、
そっとロウを抱きしめた。
ロウの身体が、一瞬だけ硬くなり──
ゆっくりと力が抜けた。
額が、ロザリンの肩に触れる。
ロザリンは、ロウの背に腕を回したまま、
静かに目を閉じた。
胸の奥で、花の気配がふわりと広がる。
ロザリンの中に宿る花の力が、
静かに、ロウの震えに触れていく。
温かなものが、じんわりと広がるように。
ロウの呼吸が、少しずつ整っていく。
震えも、ゆっくりと弱まっていった。
ロザリンは、
ロウの背をゆっくり撫でながら囁いた。
「……ロウ……
話してくれて、ありがとう」
ロウは、ロザリンの肩越しに、
かすかに息を吐いた。
「……こちらこそ。
姫様が……ここにいるから、
戻れました………」
その声は、ロウの静かな誓いだった。




