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偽りの姫は闇夜に微笑む  作者: 宵乃凪
二章

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第9話 雨夜の私憤

 この日は朝から何やら王城の雰囲気が妙だった。


 廊下で幾度目かに耳に届いた笑い声。明らかにこちらを蔑んだような嘲笑に、アリーシャは表情を変えずに足を進めた。


 やがて訓練場に辿り着く。ざわざわとしていた場内の空気が、自分が足を踏み入れた途端にぴたりと静かになる。はあ、とアリーシャは不快を表した。


「一体何事かと、私が聞いても良いことですか?」


 そう近くにいた一人の男に尋ねる。彼は王国騎士団に属する者のうちの一人であり、さほど人が悪くない男だと知っている。


「あー……いや、多分お前は聞かない方が……」


 そんなことを男はもぞもぞと言った。屈強な身体付きと無骨な顔に似合わない所作。きっと彼なりにこちらを気遣っているのだろうと分かり、それで流れている噂の内容をほとんど察した。


「ああ、そう言うことですか」


 アリーシャがそう納得したと同時に、どん、と肩に何かがぶつかる感触がした。


 わざわざこちらを避けずに訓練場に入ってきた男は、有事のために各地から集められている傭兵の男だった。午前中の王国騎士団の仕事は彼らの訓練であったが、それどころではなさそうだなとアリーシャは内心でため息を吐く。


「おう、これはこれはお美しい騎士殿。悪いな、細っこくて見えなかった。その小枝みてぇな身体で、一体何人の男を満足させてきたんだ?」


 そう言って男はげらげらと声をあげて笑った。共にいる傭兵仲間であろう男たちもそれに続く。


 恐らくはどこかから娼館の頃の話を耳にしたのだろう。このような扱いを受けることは慣れたことで、もはやどうでも良いのだが、それにしても面倒なことになったなと思った。


 すぐそばに立つ騎士の男が何かを言おうとするのをとどめて、アリーシャがやれやれと大袈裟に首を横に振る。


「残念ながらお答えすることはできませんね。風紀を乱す言動は、王国騎士団の団則にて禁じられております」


 淡々と答えると、また何か琴線に触れたのか、男たちは顔を見合わせてから勢いよく吹き出した。


「ぶはっ……よりにもよって風紀だってよ! 知ってるぜ、お前の居たっていう館、ありゃいわゆる闇娼館だ。国に届け出も出さず、無法地帯でやりたい放題。変態男どもからさぞ面白い目にあってきたんだろうなぁ」


「私を貶めたいことは理解しましたが、ここでやられるのは迷惑です。お話があるのであれば仕事の後で――」


「これは何の騒ぎだ?」


 言葉の途中で訓練場に入ってきたレオンハルトが、異様な空気に眉を寄せる。アリーシャの顔と向かい合っている男たちの顔とを交互に見て、何があったのか、ともう一度尋ねた。


 アリーシャは首を横に振る。大事にならないよう、言葉を選びながら何とか穏便にこの場を収めようと思った。


「少し意見の相違があっただけです。申し訳ありませんが、お話はまた後日にお願いできますでしょうか」


 レオンハルトの肩越しに、男たちに向かってそう言うと、芋のようなごつごつとした顔がカッと赤らんだ。暗に、逃がしてやる、と言ったつもりだったが、どうやら馬鹿にされたと感じたようだった。


 ああ失敗したなとそう思っていると、男は訓練場の床に唾を吐き捨てた。


「けっ、お高く止まりやがってよ。男を悦ばせることしか能のねぇ角付き売女が――ぐふぅっ⁈」


 瞬間、男の身体が吹き飛んだ。集まりかけていた騎士たちの間を抜けて、訓練場の壁に当たって崩れ落ちる。男の仲間たちは唖然とした顔で、拳を突き出した男を見た。


 レオンハルトの表情は、穏やかに見えて、瞳には静かな怒りが燃えていた。


「失礼、だが、その物言いは舌が裂けようとも淑女に投げつけるようなものではない」


 お前たちも同じようなことを言ったのかとレオンハルトが一歩詰め寄る。ひいぃ、と男たちは後ずさった。


 ぽん、とアリーシャは怒れる男の肩に手を置いた。


「団長、王城内での乱闘は如何なる理由であろうとも服務規定違反です。上司をお連れするのは恐縮ではありますが、私が連行させて頂きます」


 もはや無限に溢れ出そうになるため息を飲み込むと、アリーシャはそう言ってレオンハルトの腕を掴んで訓練場を後にする。途中、渡り廊下の向こうに知っている顔の男を見かけて、噂の発端はそこだったかと大した感慨もなく納得した。



 アリーシャとレオンハルトが王城の廊下を進む。さすがにもう腕は離したが、彼は心なしか項垂れているようにも見えた。


「アリーシャ、すまない」


 人気の少なくなったところで、レオンハルトが小声で囁いた。アリーシャは静かに振り返る。


「庇おうとしてくださったことにはお礼を言います。しかし、事を大袈裟にされるとノルヴィス様にも迷惑が掛かります」


「殿下は」


「幸運なことに、今日は王城にいらっしゃいます。騎士団長に罰則を与えられる者など限られていますからね。このような用件で国王やアルバート殿下のもとへ行くことにならなくて良かったです」


 場合によっては自分の首が飛ばされるところだった。そう付け加えると、レオンハルトはもう一度すまない、と謝った。


「短絡的な行動で君や殿下に迷惑を掛けた。そのことは謝る。だが、あれは……」


 レオンハルトがそう言って自らの拳に視線を落とす。アリーシャも横目で、握られた手を見た。自分のものよりも二回りは大きそうな手。あの重たい剣を難なく扱うこの拳に力一杯吹き飛ばされて、気の毒な男はしばらく目を覚まさないことだろう。余計に面倒なことになるところだったので、うっかり死んでいなくて良かったなと思った。


 ふと、レオンハルトの足が止まった。なるべく人の少ない廊下を選んできたが、周囲にはちょうど誰の姿もない。そのことを確認してからアリーシャが男に声を掛けた。


「処罰の件であれば、私が口添えします。団長が来られるまで諍いを長引かせた私にも非があります」


「違う……! 君に非などない!」


 レオンハルトが弾かれたように低い声で叫ぶ。姿は見えないとはいえ、ここは誰が通るとも分からない王城だ。アリーシャは眉を寄せると、素早く男の腕を引いて共に柱の影へと身を隠す。


「やめてください団長。ノルヴィス様に迷惑を掛けたくないと、そう言っているでしょう」


「すまない、だが……何故君はそんなにも自分のことには無頓着なんだ。君にどのような過去があれ、衆目の場であのような謂れを受ける理由など、それを看過する正当性などないはずだ。君はもっと怒るべきだ、アリーシャ。他でもない君までもが、君の尊厳を傷付けることは……私が耐えられない」


 極限まで潜めた声でレオンハルトは堰を切ったように捲し立てる。


「何故それを……今、貴方が……」


 アリーシャの口から呟きが漏れた。いつの間にか掴まれている腕が少し熱い。まさに粗相をした今このタイミングで、かつて自分を救った男と全く同じことを言う彼が、煩わしくどこか腹立たしかった。


 ふう、とアリーシャが息を吐き出す。手を離してくれ、と静かに言うと、男の手は素直に離れていった。じっとこちらを見据える青い瞳を見返しながら、アリーシャがはっきりと告げる。


「レオンハルト団長、私にとってあの頃のことは既に過去のことです。故に、何を言われたところで、私の尊厳が傷付くことはありません」


「だが――」


「団長」


 きっぱりとアリーシャが言葉を遮る。一呼吸おいてから静かに宣言した。


「私の過去について、貴方が私を憐れむのであれば。それは、揶揄してきたあの男たちと同じです。貴方の目の前にいる私は、ノルヴィス様の屋敷にお仕えする侍女であり、この国を護るべき騎士です。違うのですか」


「それは……いや、その通りだ。すまないアリーシャ、君を蔑むつもりなどなかった。君は共に剣の道をいく同志であり、私の最大の好敵手だ」


「……だからそれは、せめて私の勝率が四割を超えてから仰ってください。今の状況で言われたところで馬鹿にされているようにすら感じます」


「す、すまない、そんなつもりでは……」


 狼狽えた様子のレオンハルトをちらと見ると、アリーシャはやれやれと首を振ってみせた。


 ノルヴィスの部屋は目と鼻の先だ。報告に上がる前に、少しは彼の気を取り直させる良い話題はないかと考えて、ふとあることを思い出した。


 耳を貸してくれ、とレオンハルトに言うと、彼は素直に少し身を屈めた。アリーシャは厚い耳に口を近付ける。


「この度の噂を流したのは、恐らく今王城に上がっている商人の男です。先程姿を見かけたのですが……彼とは、皆が期待するようなことは何もありませんでしたよ」


「……というと?」


 レオンハルトが首を傾げる。アリーシャはくすりと笑った。


「お客として館へ来ると、彼はまず私の膝枕を所望するのです。あの恵まれた体躯と強面に似合わない、まるで赤子のような物言いで。それから――」


「ふはっ……⁈」


 ひそひそと囁いてやると、レオンハルトが吹き出す。あの館内でのやり取りは女たちの間ですら口外が禁じられていたが、とっくにノルヴィスに潰されているのだから良いだろう。そもそも先に禁を破って王城内で噂を言いふらしたのは向こうだ。そうアリーシャは結論付けて、せいせいしたなと息を吐いた。


 レオンハルトは口を押さえてこれ以上の笑い声を出すことを堪えているようだった。男の小刻みに震える肩をぽんと叩き、アリーシャは落ち着いたらノルヴィスに叱られに行こうと言って大袈裟に肩を竦めた。


 ◇


 夜の城下町をアリーシャはレオンハルトと共に進む。


 このところはたまに地下水道の方から瘴気が漏れ出すことがあり、またノルヴィスによる悪官の不審死が続くこともあってか、大通りにもほとんど人影は見えない。街の夜警は本来であれば王国騎士団の持ち回りではなく、兵や警吏が行うことが多い。それが何故こうして見回っているかというと、昼間の乱闘事件の罰則ということだった。


 このような雑用ごと一つで片付けられるようなものではなかったであろうが、レオンハルトの立場やこれまでの功績、さらにはノルヴィスが先に手を回せたことが大きかった。アリーシャが小さく安堵の息を吐く。


「寒いか? すまない、アリーシャ。君まで付き合わせることになってしまって……」


 何か勘違いしたらしいレオンハルトがごそごそと外套を脱ごうとするのをアリーシャは止める。それで風邪でも引かれた日には面倒だと考えたが、同時にこの男は病の類には無縁だろうなとも思った。


「団長はお身体が丈夫そうですね」


「ん? ああ、そうだな。幸いにして大病を患った記憶はない。そのような恵まれた生活を送ってきたんだ。少しでも市井に還元しないとな」


「団長は自信家で無遠慮なところがありますが、そのようなところは個人的にも好ましいと思いますよ」


 そう言ってアリーシャは地下へと繋がる錆びついた蓋を見た。外套の隙間から冷たい風が吹き込んだので、首元の布を軽く握って閉じる。王国騎士に配布されているこの布は無骨な造りだが分厚く暖かい。これ一枚があるだけで、何人の孤児が冬を生き延びられただろうかと考えた。


 ふと自分の足が止まっていることに気が付く。隣で同じく立ち止まった男に謝罪すると、レオンハルトはいいや、と首を横に振った。


「アリーシャ、私には冬を路上で越した経験もなければ、生きるために身を売らざるを得なかったこともない。それでも、今君が何を考えているかは分かるつもりだ」


「そう言われてあまり良い気分ではありませんね。私の過去には興味がないのでは無かったのですか?」


 アリーシャが問うと、レオンハルトは再度首を振った。


「聞かないとは言ったが、興味がないわけはない。……ああそうだな、興味があるんだ。君がそれだけ強くあられるのは、一体何を見聞きして、何を考えて、感じてきたのか。私は君という人間をもっと深く知りたいと思う」


「それではまるで求婚のような物言いです。注意しろ、と先日忠告差し上げましたが、さっぱり響いておられないようで」


 アリーシャが呆れを込めた目でレオンハルトを見上げる。


 何やら数秒視線を彷徨わせた男は、意を決したように頷き、そっとアリーシャの手を取った。


「ああ、アリーシャ。私は君に婚姻を申し込んでいる」


「はい?」


 ぴたりとアリーシャは動きを止めた。眉を寄せ、何故この男がそのような結論に至ったのか少し考えて、さほどかからずに答えに思い当たった。


「はあ……それで、あのような噂を流させないようにすると?」


 昼間の件を持ち出すと、レオンハルトはまた頷いた。


 彼の生家は政治権こそないものの、王国でも相当の高位貴族にあたる。そこの夫人ともなれば、確かに今回のようなつまらない中傷をすることは憚られるだろう。少なくとも、表立っては。


「言い方は悪いが、あの手の輩は家柄があれば黙る。正直、実力ではなく家の名をひけらかすことは好きではないし、それに君の矜持にも似合わないだろうが……」


「お断りします。実に団長らしくない馬鹿げた提案です」


 ばさりと切り捨てると、レオンハルトは一度小さく肩を跳ねさせて、眉尻と同時に下げた。


 はああ、とアリーシャは深いため息を吐く。片手を腰に当て、反対の指先でとんと男の胸を軽く突いた。


「まず第一に、公になることはありませんが私は王籍に連なる者です。加えて王家の脛たる私をそう易々と娶れると? 魔族の血を引く者がこの国の貴族となったという例も過去にありません。王国騎士団の長たる貴方が、団員に手を出すというのは風紀違反。何より、私が屋敷を離れることはあり得ませんし、ノルヴィス様にそれを報告したくありません」


 一息でそう言い切ると、男の眉はすっかり下がり切っていた。恐らくは自分でも愚策だとは理解していたのだろう。


 レオンハルトは口を開き、一度閉じて、少し考えた後でもごもごと歯切れ悪く言った。


「わ、分かってはいたが、なんだ……そうまで拒まれると、こう、さすがに傷付くものがあるな……」


「失策と分かっているものを明言なさるからでしょう。ですが……そのお気持ちだけ、受け取らせて頂きます」


 気遣ってくれてありがとう。アリーシャがそう言って頭を下げようとすると、レオンハルトの両手が肩を掴んで動きを止めた。


 伏せかけた顔でちらりと男の顔を見上げる。少し気まずそうな様子に、アリーシャはくすりと笑い声を漏らした。彼の胸に当てたままであった指先を、なぞり上げるようにして首の方まで滑らせる。


「それに……団長ほどの家ともなれば、お世継ぎが必要です。私とそのようなことができると仰られるのですか?」


 とん、と足先で地面を蹴って男の耳元でそう囁いてやる。肩を掴む手が強張った感触がした。するりと抜け出して振り返ってやると、まったく想像通り、レオンハルトの顔は真っ赤になっていた。


「すまない、私が悪かった。だからあまり……揶揄わないでくれ」


「それは大変失礼致しました。……団長」


「ああ」


 アリーシャの目が、暗い道の随分先で商人の屋敷に盗みに入ろうとしている男を捉えた。


 その一声だけで状況を把握したレオンハルトは、一瞬でいつもの鋭い瞳に戻って頷く。


 無言で視線を交わした二人は狼藉者を捕縛するため、静かな城下町を音を立てずに駆けた。


 ◇


 ざあざあと雨音がする。夕暮れ時から降り出したこの雨は、真夜中を過ぎた今、一層激しさを増していた。


 濡れた顔を手の甲で拭い、アリーシャが地面に倒れ伏す男の顔を見る。その視線に気が付いたのか、どうした、とノルヴィスが問うた。


「ああいえ、大したことでは。知っている顔だと思っただけです」


「何?」


 眉を寄せるノルヴィスをアリーシャが呼び寄せる。薄暗い路地裏はこの天気でいつもよりさらに見通しが悪い。小さな屋根の下へとノルヴィスを押し込めると、アリーシャは男の濡れた肩を軽く払った。この後どうせ帰路で濡れはするのだが、新調した外套が返り血で悪くなっていなければいいがと、そんなことを考えた。


「それで、この男をどこで? 用心深く自領からなかなか出ようとしない男だ。ここに呼びつけるのも苦労した」


 ノルヴィスが後ろ手に男を指差す。既に物言わぬ死体となったこの男は、次に王国が仕掛けようとしている他部族との戦に兵を出す予定の貴族だった。


 この頃王国領の情勢はますます悪化している。広がり続ける瘴気によって駄目になった土地が増え、城下町だけでなく、広大な農地を抱えているはずの郊外の領地ですら飢え死にする者が増え始めた。


 そこに転がっている男が治める地も同様の状況であり、そんな中で少なくなった働き手を戦に奪われることになれば、確かに残された女子供は路頭に迷うことだろう。しかし領主を失った土地の混乱もまた推して知るべしだ。さらに兵が出せないことで戦自体がなくなれば、新たに手に入るかもしれなかった領土も失うことになる。


(でも、瘴気の拡大傾向から言って、使えたとしても数年。戦による損害の方が余程大きい。だからこその今夜なのでしょうが)


 そうアリーシャはどこか遠く考えた。瞳に映したままの男の死に顔には、想像したほどの苦悶の色はない。


 この蛮行を始めた頃は、たまに反撃を受けることすらあったが、ここのところは平和なものだ。ただ喉をひと掻き。それだけで声も上げずに標的は地面に沈む。あの水路で死んでいった孤児たちのように苦しむこともなく。あの館で自分が漏らしたような悲鳴を発することもなく――


「――、アリーシャ!」


 肩を揺さぶられ、押し殺した声でそう叫ばれて、アリーシャはようやく我に返った。自分としたことがついぼんやりとしていたようだった。酷く心配げな目の前の男に向かって、少し困ったように笑ってみせる。


「申し訳ありません、ノルヴィス様。お身体が冷えます。痕跡はこの雨が消してくれるでしょうから、早くお屋敷に――」


「あの館の客だな。何をされた」


 ノルヴィスがアリーシャの言葉を遮る。低い声にははっきりとした怒りが宿っていた。


 アリーシャは微笑みを浮かべたまま首を横に振る。


「お話しするようなことは何も」


「そうか、分かった」


 そう言ってノルヴィスは振り返った。ばしゃりと靴が雨を踏む音がする。赤黒く濁った水が跳ねてノルヴィスの靴と服の裾を汚した。


 すぐに男の死体のもとへと辿り着いたノルヴィスは、その顔目掛けて足を振り上げた。


「ノルヴィス様!」


 躊躇わず振り下ろされた足が死体の顔を踏み抜く寸前。アリーシャはノルヴィスの腕を強く引き、その行動を止めさせた。


 ノルヴィスの足が地面へと降ろされる。靴と外套はすっかり汚れて駄目になってしまっていた。


 男の腕を掴んだまま、アリーシャは眉を寄せ少し鋭い早口で囁く。


「ノルヴィス様、何をされているのですか。もう死んでいます。無駄な痕跡を残すおつもりですか」


「この男はお前の尊厳を深く傷付けた。違うか」


「概ね想像される通りですよ。正直思い出したくもありません。ですが……貴方の蛮行は、私憤のためですか」


 それであっても共にあるが。そうアリーシャが静かに続ける。


 雨足は少しだけ弱くなっていた。頬にあたる粒がさっきまでより細かくなった頃、ようやくノルヴィスが深いため息を吐いた。


「……屋敷に仕えるものとして、それは止めるべきだろうがな」


「先代なら殴ってお止めしていたでしょうね。ですが私はしませんよ。ずっとお隣で愚かな蛮行を眺めて差し上げます」


「主人に似て性格が悪いな」


 ノルヴィスはそう言ってアリーシャの身体を抱き寄せた。


 自分の外套の裾も赤黒く汚れていくのを見ながら、アリーシャは勿体ない、と呟く。


「先日頂いたばかりでしたのに」


「仕立て直せばいい。俺の侍女は裁縫も上手い」


 騎士団で付与されている外套を切って繋げばどうだと言うノルヴィスに、寸足らずで仕事をしろと言うのかとアリーシャが返す。


「騎士団といえば、昼間の団長の件は大変失礼致しました」


「いい。あの男に恩が売れたと思えば手間など安いものだ」


「それにしても、一日に二度も()()()に会うとは思いませんでしたよ」


「災難な一日だったな。しまいにはこの雨だ」


 ノルヴィスが少し鬱陶しそうに、前髪から落ちてきた水滴を首を振って払う。


 アリーシャはくすくすと笑い、彼と自分の身体の間から手を抜け出させると、雨に濡れた男の目元をそっとなぞった。


「ノルヴィス様、地獄に落ちるその日はお天気が良いといいですね」


「この身には過ぎた願いだな」


 薄く笑ってそう答えてから、ノルヴィスはアリーシャの唇へと触れるだけの口付けを落とす。


 やがて解放されたアリーシャは男の手を取り、雨の滴る暗い路地裏の奥へと消えて行った。

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