第8話 茶会
「……そのようにまじまじと見られると、やりにくいのですが」
昼下がりのノルヴィスの屋敷の庭で、アリーシャは湯を注いでいるポットから目を上げずに言った。
どうやら客人は座ったまま姿勢を正したらしい。さすがに椅子を鳴らすという無作法はしなかったが、ほんの微かに机が揺れたような気配があった。
「あっ、すまない。その、手際が良い、というのは君にとって失礼なのだろうな」
レオンハルトがそう言い、アリーシャは、ええ、と頷いた。
「これでももう七年近く、このお屋敷には勤めています。お客様へ茶の一つも満足に淹れられないようでは、とうにクビになっていますよ」
「七年前というと……十六、七の頃だろうか。ノルヴィス殿下とはその頃に?」
「詳しい話はどうぞ、ノルヴィス様がいらっしゃられてからに。お客人と世間話に花を咲かせていては、私が怒られてしまいます」
「そうか、分かった。だが……やはり不思議な気分になるな。君がいつもの鎧ではなく、そのような装いをしているというのは」
レオンハルトがしみじみとした声でそう言って、アリーシャはまた全身に視線を感じた。茶葉を揺らさないように、無言で小さく肩を竦めて答える。黒を基調とした給仕服は、騎士団の団服や鎧よりはずっと涼しかったが、今日は日差しがある。汗をかかないうちに会が終わればいいと思った。
静かな空間に草木の擦れる音がする。中庭の植え込みを抜けて、微風がレオンハルトの前髪を揺らした。それでもなかなか逸らされない視線に、あまり淑女をじろじろと見るものではない、と忠言してやるべきか考える。
(まあそのようなことはわざわざ言わずとも、高位貴族出身である団長が知らぬ訳はないですね)
そう結論づけて、アリーシャは文言を飲み込んだ。きっとこの茶会の主人の思惑でも探りたくてこちらを窺っているのだろうが、正直言ってこうも見られると仕事がやりにくい。早く本人が来ないだろうかと、そう思ったところでようやく気配を感じた。
「……レオンハルト騎士団長殿、貴殿の部下とはいえ、そう彼女を注視すべきではないと考えるが」
庭へと続く扉の辺りからそんな声が聞こえて、レオンハルトは今度こそ椅子を鳴らして勢いよく立ち上がった。
「も、申し訳ありませんノルヴィス殿下! その、彼女の所作が美しかったもので、つい」
「茶の一つも満足に淹れられないようであれば、とうに俺の屋敷からは解雇している」
少し呆れた様子でノルヴィスが言い放った。ほらそう言ったではないか、とアリーシャは内心で彼に続く。
間もなくやって来た主人のために椅子を引きながら、ちら、と騎士団長の顔を窺う。やってしまった、という表情に、やはり先に釘を刺してやれば良かったなとそんなことを考えた。
ノルヴィスがレオンハルトを屋敷に招くと提案した時、アリーシャにとってさしたる驚きはなかった。
むしろ王や城からの監視が厳しい彼を呼びつけることなど可能なのかと思ったが、貴族にとっての茶会とは重要な政治の一つであり、それ故に招待自体は制止しづらいのだとノルヴィスは答えた。
それをレオンハルトに伝えた時の彼の驚き様を思い出し、アリーシャはくすりと笑う。密かにノルヴィスを支持している彼ではあったが、まさか屋敷の茶会に招かれるとは思ってもいなかったらしい。その日の手合わせでは久しぶりに二本も取ってやることができた。
「ノルヴィス殿下、今日はお招き頂きありがとうございます。まずは、何故、とお聞きしても宜しいでしょうか」
現在のレオンハルトはというと、既に冷静を取り戻したようで、対面するノルヴィスにそのようなことを聞いている。
ノルヴィスは一口だけ茶に口を付けてから、ソーサーを置いて小さな笑い声を漏らした。
「仮にも王族である俺の返答を待たずして、不躾な問いを重ねる豪胆よ。さぞ普段からあの王をやり込めているのだろうな」
「それは、お気を害されたのであればお詫び致します。しかし殿下はお忙しい方で、端的なやり取りを好まれるとのこと」
「どうやらうちの侍女からしっかりと教育を受けて来たようだ。周りくどい謙遜もへりくだった物言いも要らん。率直に話せ」
ノルヴィスから視線を受けて、アリーシャは一礼する。茶と合わせた菓子を簡素な机に並べてから、ノルヴィスの斜め後ろに影のように立った。
レオンハルトの顔を見るとぱちりと目が合った。出したばかりの焼菓子を視線で指し示してやると、彼は素直にそれらに手を伸ばしそのまま口に運んだ。
「ん……? これは、美味いな……⁈」
手にした菓子をまじまじと見ながら、レオンハルトが心底驚いたような声を出した。
それはよりをかけた甲斐があった、とアリーシャは服の裾を引いて軽く腰を折る。
「団長のお母様のご出身である北の国境近く、その辺りの集落でよく使用されている香草を混ぜ込んでみました。恐らく馴染みのあるお味なのでは?」
「ああ、確かに生家でよく食べた匂いがする……これはつまり、私についての調べはついていると」
目を瞬かせていたレオンハルトは、菓子の残りを飲み込んでから、真面目な顔でノルヴィスへと向き直った。
話が早い、とノルヴィスは口角を上げる。
「出自、家柄ともに問題なし。大きな罪歴もなければ、将来足を掬われそうな不祥事もない。国想いで、義理堅く、比類なき剣技を誇る。まさに王国騎士団長として申し分のない男だ」
「そこまで仰って頂けることは光栄ですが、しかし私はまだ騎士として充分な仕事を果たしているとは言えません」
「それは何故に?」
「殿下もご存知の通りです。度重なる戦、増え続ける重税、市井では民が困窮に喘いでいます。そしてそれは私が団長職を引き継いでから悪化の一途を辿るばかりです」
問いに対して、間髪入れずにレオンハルトが答えた。
対するノルヴィスが片眉を上げる。
「驕るな、レオンハルト騎士団長。国の政治を執り行うは王族と一部高位貴族の仕事だ。貴公が如何に優れた剣士であろうと立ち入れる領域ではない」
「それでも――」
そう言ってレオンハルトが立ち上がる。粗暴に見えて気品のある所作。茶の水面は揺れることなく、穏やかな空を映していた。
それでも、とレオンハルトが繰り返す。
「この剣で守れる命があります。弱きを助け、蔓延る悪行を挫く。皆がより良い明日を信じて眠りにつける、そんな正しい国を目指す。民の希望を切り拓く、私はその為の剣となると、この立場を拝命した時に誓いました」
「貴公の信念は弱者救済か。その剣一つで本当に叶えられるとでも?」
「はい。ノルヴィス殿下のような、真に民を想われる方をお支えすることができれば」
はっきりとレオンハルトが言い切った。
中庭をまた風が吹き抜ける。
ノルヴィスはしばらく黙った後で、ちら、と背後に視線をやった。こちらへと向けられた赤い瞳の、その意図するところを察してアリーシャは首を横に振ってみせた。
「王と、加えてアルバート第一殿下に対する重大な不敬罪ですね。私は何度か忠言差し上げました」
「どうやらお前に聞いていた通りの男のようだ。それもなかなか本心と見える」
「ええ、自白剤入りの焼菓子を食べてなおこの調子ですからね」
「なっ、薬⁈」
レオンハルトが慌てた様子で口を押さえる。
アリーシャは思わずため息を吐いた。いつもの軽口をまさか本気にするとは思っていなかった。どうやらさしもの彼も少なからず緊張しているようだ。
冗談だ、と続けると、素直な騎士団長は安堵したように口元から手を離した。
「とはいえ、あまりこうした場で出されたものを毒味も付けずに召し上がらない方が良いですよ、団長。茶会はプライベートな空間です。或いは死体ごと闇に葬り去られるか……もっと微笑ましいものであれば薬を盛られて御令嬢と既成事実、という例もあるようです」
ついでにそう釘を刺してやる。レオンハルトは、そうか、とまるで剣技の知見を得た時のように頷き、また席に着いた。
ふと視線を感じる。またカップを持ち上げていたノルヴィスが、立てた親指でこちらを指差していた。嫌な予感がするな、とアリーシャは思ったが、その予想は概ね間違ってはいなかった。
「見ての通り、うちの義妹は人一倍用心深い。甘さの残る貴公を補助するには適任だろう。上手く使え」
さらりと告げられた言葉の内容に、レオンハルトはまったく理解が追いついていないようだった。
透き通った青い瞳が瞬き、何度も瞼の裏に隠れるのを見ながら、アリーシャは内心でため息を吐いた。先日のニコラに続き、この厄介な虚言を知られるのは立て続けに二人目だ。あれ以来既に三回、ニコラの屋敷には密かに呼び出されていたが、また面倒事が増えたなと思った。
(まあ団長であれば、ニコラ様のような無理難題は言ってこないでしょうが……多分)
それにしたって、せめてあらかじめ言っておいてくれればいいのに。そう考えながら、相変わらず秘密主義の主人の背をちらりと見る。
机を挟んでたっぷりと沈黙が流れてから、ようやくレオンハルトからの返答があった。
「アリーシャは、ノルヴィス殿下の……?」
「父違いの妹だ。訳あって身分を隠した上で、屋敷で侍女紛いのことをさせている」
紛いとは何だと、そう思ったが口を挟まず黙っておく。強い視線を感じた。じっとこちらを向いたレオンハルトの瞳は、何故黙っていた、とそのようなことを訴えているように感じた。
「お忘れですか、私は角付きですよ」
「王直々の緘口令だ。口に出せば消されると思え」
ノルヴィスは何でもないことのようにそう言うと、残った茶を一気に飲み干した。
お替わりは要るかと視線で尋ねたが、否定の意を返された。短い茶会もお開きのようだ。
立ち上がったノルヴィスに、レオンハルトが一言だけ問う。
「それを……何故今、私に」
「貴殿が国のための剣となると言ったのだろう。俺の秘蔵を貸し出すからには、その理想、ゆめゆめ忘れるな。それから……役立てるのは構わんが、無駄に傷付ければその首が飛ぶと思えよ」
一方的にそれだけ言って、ノルヴィスはさっさと屋敷の方へと歩き出した。
その背に向かってレオンハルトが普段よりも潜めた声で叫ぶ。
「ノルヴィス殿下、私は、殿下のような方にこそ……!」
「俺にそのような資格はない」
ばさりとそう切り捨てて、そのままノルヴィスは屋敷の中へ姿を消した。
しばらくの沈黙の後で、アリーシャは振り返る。レオンハルトがじっとこちらを見ていた。
「外までお送り致します、お客様」
聞きたいことが満載だという男の顔に向かい、そう言って一礼を返してやった。
◇
ノルヴィスの屋敷は王都の外れの辺鄙な場所に設けられている。門を出て、大通りの方へと向かいながら、これまでずっと黙っていたレオンハルトがようやく口を開いた。
「その、なんだ……それならそうと、言ってくれれば、というのは君にとっても酷な話か」
言い出しにくそうに切り出しておいて自己完結した男に、アリーシャはそうですね、と返す。
「私も、団長にこの話をすることを、ノルヴィス様が話してから知りましたよ」
「それは、何というか……あの方もなかなか無茶を言うお方だな。今日の会も、仮に私の回答が気に食わなければ何か手を回されるおつもりだったんだろう?」
「さあ、それはどうでしょう。私にもあの方のお心の中までは」
そう答えながら、幾つか予想はついたがいずれも碌でもないものであったので黙っておくことにした。
はああ、とレオンハルトが感慨深げな息を吐く。じっとこちらを眺める視線に、不躾だ、と今度こそ忠告してやった。
「す、すまない……」
「殿下にも釘を刺されたでしょう。前から思っていましたが、団長は少し女性との距離感に気を付けた方が良いですよ。団内と、貴族令嬢方、それから市井の民の間にも、団長の奥方の座を狙っている者が後を絶たないと、まさか気づいていない訳ではないでしょう」
「それは……いや、そうだな。これでも教育は受けているんだ。貴族にとっての婚姻が何を意味するかは理解している」
「政略婚というものを団長はお嫌いそうですね。お母君様はそうではありませんでしたか?」
「少なからずその目的もあったとは思う。だが、私が幼き頃からずっと、父も母も幸せそうだった。少なくとも私にはそう見えた」
「それは良いことでしたね。ですが今後は一層気を付けて頂きたいものです」
大通りへ続く分かれ道で、アリーシャは足を止めてそう含みを持たせて言った。
あえてその先は続けなかったが、レオンハルトはきちんと意図を把握したらしい。ああ、と真面目な顔をして頷いた。
王国騎士団長がこちら側についたと、ノルヴィスに敵対する者たちがいつ勘付くかは分からない。しかし、こうなった以上はレオンハルトに対する妨害や工作にも気を張らなければならないなと、アリーシャは寄せた眉の下でそのようなことを考えた。
「アリーシャ」
「何でしょうか」
名を呼ばれて振り向くと、レオンハルトの目は真っ直ぐにこちらを見据えていた。常に意志の強い瞳は、先程屋敷にあった時よりもほんの少しだけ眼光を弱めているように感じる。
「あの場では偉そうなことを言ったが、しかし私の力が及んでいないと、そう告げたこともまた事実だ。この国を良くするために日々邁進しているつもりだが、民は戦に疲れ、重税に喘ぎ、その苦しみから犯罪が跋扈する。この間、君と捕縛した商人がいただろう」
「租税を不当に吊り上げ、さらには物資の流通を阻害していた男ですね」
「ああ。あの男が、昨日同じ場所で商売をしていた。恐らくは法で定められた罰則を受けず、不正にかき集めた金を警吏や兵に握らせて。そのすぐ向こうの路地裏では、薄い布だけ纏った子供が踏み潰されたパンを大事そうに抱えて――」
そこでレオンハルトは言葉を詰まらせた。大丈夫か、と問うと、すまない、と絞り出すような返答があった。
「アリーシャ、私はこの国を愛している。だが同時に、やはり今の状況は間違っていると思うんだ」
「ノルヴィス様も同じく国を憂いておられますよ。だからこそ団長の仰った理念に共感なさったのでしょう」
「……ああ」
レオンハルトはそう答えたが、そこには憔悴が容易に見てとれた。いつの間にか視線は地面の方へと伏せられている。
アリーシャは何も言わず、ちら、と屋敷の方角を見た。まったく、とため息を吐きたくなるのを堪える。
どうにもこの二人は、妙なところが似ていると思った。こうして何でもかんでも背負い込みたがる。碌でもない人生において、力のない者が奪われ殺されていく様は嫌というほど見てきたが、力を持って産まれてきた者もそれはそれで大変なのだなと他人事のように思った。
(しかし、その調子では困るのですよ、団長。それでは引き込んだ意味がない)
その理想主義を手放しで称賛することもできないが、しかしそれによって己が助けられ、今ここに立っていることも事実だ。ひとまず、少しは人の話を聞く方から攻めようかと、そんな結論に至る。
「団長」
アリーシャはレオンハルトを振り返ると、そっとその肩に手を触れさせた。
男の顔が上がる。ぱちりと目が合ってから、アリーシャは大袈裟に肩を竦めてみせた。
「失礼を承知で申し上げます。驕るな、とノルヴィス様に忠言を受けていたかと思いましたが」
「それは……」
「いくら団長がお強いからといって、そのようにお一人で何もかもをやろうとされるのは傲慢では? 確かにずっと負け越している身ではありますが、貴方の剣を追う者として正直あまり気分の良いものではありませんね」
滔々と並べ立てて、ついでにため息と呆れた視線もおまけしてやる。さすがに王城でやることは憚られるが、今の装いは騎士でないのだから許されるだろう。
きょとんと虚を突かれたような顔をしていたレオンハルトは、やがて肩を揺らして笑い始めた。
「……ふっ、はははっ、ああ、それもそうだな。確かに傲慢で、仲間である君たちに対して余りにも失礼だった」
どうやら調子を取り戻したらしい男が、明日は時間があるからまた手合わせしよう、といつもの提案をする。アリーシャはお手柔らかに、と腰を折った。
いつの間にか陽は傾き始めて、大通りの方角からは賑やかな喧騒が聞こえてくる。そろそろ買い出しに行かせた使用人が帰る頃だろう。夕食の仕上げをするためにもう戻りたいという旨を告げると、長く引き止めてすまないと返答が返った。
アリーシャはその場で背筋を正す。頭を覆う布をするりと解くと、角に風が当たる感触があった。
「団長、陳腐な物言いにはなりますが、国を守護するべき者の頂きとして貴方にはその剣で民を守って頂きたいと、私もまたそう思いますよ。そのためであれば、どうぞ私をお使いください」
「君は今でもよくやってくれているさ。だがそうだな……強いて言うのであれば、たまにあの菓子が食べたいというのは強欲だろうか」
「承知致しました。ご用命があれば登城前に焼いていきましょう」
くすりと笑ってアリーシャが答える。
王城の方角へレオンハルトが振り返った。そのまま歩いて行くかと思ったが、男の足は踏み出されない。
「アリーシャ、私はノルヴィス様の力になれるだろうか」
視線を向けず、背中越しに投げ掛けられた問いに対し、アリーシャは深く腰を折る。
「殿下は敵の多いお方です。どうかお味方になって頂ければ嬉しいと――これは騎士としてではなく、私個人の希望です」
ささやかに見えてその実、王城での立ち回りを実に複雑化する要望だったが、レオンハルトは少しも間を置かずに頷いた。
「約束する。私はこの剣をもって殿下と、それから君の味方となろう」
「いえ、私のことはどうでも良いのです」
そんなことより、と続けようとすると、レオンハルトはぐるりと音を立てそうな勢いで振り返った。その表情に、どうやら失敗したなとアリーシャは思った。
「どうでも良くはない。路地裏暮らしのことといい、出自のことといい……思えば屋敷の侍女が身辺警護のために武術を身に付けるという話は聞くが、それでも騎士になるなどそうある話じゃない。それもきっとノルヴィス殿下のためなんだろう? 君の過去について、君が話したいというまで聞く気はないが……それでも私にできることがあれば何でも言ってくれ。同じ騎士団の仲間だろう?」
捲し立てるレオンハルトに、アリーシャはもはや遮らずに聞いた。もうすっかり夕食の支度は他の給仕が始めている頃だろう。言葉選びを誤った失態を後悔しながら、目の前の男が好みそうな返答を返す。
「はあ……分かりました。では明日の手合わせを楽しみにしています。ちょうど試してみたい動きがありました」
「ああ! いや待て、さっきノルヴィス殿下は君に怪我をさせれば許さないと……す、すまないアリーシャ、もしかしてこれまでに負わせた傷のことで殿下に何か……」
大きな身体が狼狽えている。アリーシャが深いため息を吐く。さっそく面倒なことになったと、この場にいない主人に心の中で文句を言った。
「もし手を抜いたら、明日は私が団長の骨を折りますよ」
そうぴしゃりと答えて、アリーシャはレオンハルトの身体をぐるりと回すと、王城の方角へと背中を押した。
◇
「お客様はお帰りになりました。それから申し訳ありませんが、今日の夕食はいつもよりも遅くなります」
部屋の入り口でアリーシャがそう報告と謝罪をする。ああ、とノルヴィスは執務机から顔を上げずに返事を返した。
そのまま振り返って部屋を出ようとすると、背後でカタンという軽い音がした。鼻に届く独特の匂い。再度振り返ると想像通り、インクを倒してしまったようだった。ぽたぽたと水滴が机から床へと滴り落ちている。
「お召し物が汚れます、どうぞそのままで」
「ああ……悪いな」
「私の仕事ですよ、ノルヴィス様。お疲れが溜まっているのでしょう。どうやら先程の茶に入れた催眠剤が効いてきましたか?」
「お前はそう主人を揶揄うな。有能な侍女を首にしたくはない」
「今晩もお眠りにならないようであれば、明日こそは本当に入れさせて頂きますよ」
そのようなやり取りを交わしながら、アリーシャは手早く机と床に零れたインクを片付ける。暗褐色に染まった指先を軽くエプロンで拭おうとすると、するりと手を取られた。
「ノルヴィス様、汚れますよと言っておりますのに」
そう言う間にもノルヴィスの手はアリーシャの指へと絡められ、同じ色に染まっていく。まったく、とアリーシャは反対の手を差し出した。
ノルヴィスはアリーシャの両手を取り、しばらく弄んだ後でぐいと引いた。椅子に座った男にしなだれ掛かるような体勢で、アリーシャは眉を寄せる。
「お顔まで汚れてしまいました。食事の前に湯を浴びねばなりませんね。それでなくとも遅くなると言いましたのに」
「腹が減ったのであれば、湯殿に何か持って来させるか?」
「そのような無作法、仮にも王族がするものではないでしょう。それにノルヴィス様は私が味を調整しなければ食べられないではないですか」
せめて先程の焼菓子を食べていれば良かったのに、とアリーシャが口を尖らせる。
そう怒るな、とノルヴィスの手がアリーシャの髪を撫でる。少しほつれた前髪が顔に落ちた。視界の端に映った毛先が少しだけインクで汚れて黒っぽくなっている。
「お前の上司は、実に清廉実直な男だな。民のためだと嘯けば、それが猛毒であろうが躊躇いなく飲みそうだ」
「隙と甘さの残る男ではあります。だから私を付けたのでしょう?」
「ああ、俺の義妹は誰より用心深いからな」
「その件は事前に一言欲しかったものですね。ノルヴィス様が判断されたのであれば構いはしませんが」
ちくりと棘を刺してやると、怒るな、ともう一度囁かれ、頬に手が触れた。べたりとした感触に、こちらの顔まで洗わなくてはならなくなったなとアリーシャは思った。
至近距離で見下ろしてくる目を見つめ返す。何か痛みを堪えたような赤い瞳に、アリーシャはふうと息を吐いてから、身を捩って男の唇へと軽く口付けた。
「身を清めて、夕食こそはきちんと頂いてください。その後は予定通りに、件の商人の屋敷へと向かわれますか?」
「ああ。悪官とはいえあの辺りの市場を牛耳っている男だ。暫くは街が荒れる。注意しておけよ」
「既に該当区画の巡回頻度を増やしていますよ。しかも明日は私と団長の担当です」
いつもより捕縛者が増えることであろうが、袖の下で即日放免されないようお願いしたい。そう続けると、ノルヴィスは薄く口角を上げて頷いた。
するりとアリーシャがノルヴィスの身体の上から降りる。主人へと手を差し伸べて椅子から引き剥がすと、指先に口付けてから湯殿へと促した。




