第7話 騎士の悔恨
ノルヴィスの屋敷の厨房で、アリーシャが食材のリストを確認する。そろそろ寒くなり始める時期であるので、保存の利く芋の類を多めに仕入れておいたほうがいいだろう。他の使用人へと向けた買い出しの指示を書き連ねてから、隣の大鍋の様子を窺う。ぐつぐつと赤く煮えた鍋の中身から、ふわりと香りが立ち上った。
すんと鼻を鳴らしてからアリーシャは眉を寄せて、近くの戸棚から香草をひと束取り出した。手早く刻むと大鍋へと放り込み、数度混ぜてからまた蓋を閉じる。煮込む時間を加味しても夕食には間に合いそうだ。何かもう一品作り足そうかと戸棚の中身を吟味した。
こうしてゆっくりと調理場に立つのも少し久しぶりのことだ。この日は騎士の仕事が休みであったので、朝から屋敷の各所を点検して、備品の在庫確認や掃除、軽く剣の鍛錬を挟んでから、王城から帰ったノルヴィスを出迎えて夕食の準備をしているところだった。
王城と違い突き刺さる嫌な視線もなければ、これみよがしにひそひそと妙な噂話をされることもない。普段よりも時間の流れがゆったりとしているようにさえ感じて、アリーシャは小さな笑い声を漏らした。
厨房の扉が控えめに開く。隙間から顔を覗かせたのは、確かここに勤め始めて半年程度の若い使用人の女だった。
「あの、侍女頭。ノルヴィス様がお呼びです」
「承知致しました。呼びに来てくださり、ありがとうございます。それから、私は侍女頭ではありませんよ」
「で、でも、皆さんそう呼んでいらっしゃるから……何でも、先代様が亡くなられる時にそうお決めなさったと」
「騎士として王城に上がる際に、その呼び名は返上しました。屋敷の世話を片手間に行うなど、先代は絶対にお許しにならなかったでしょうからね」
首を傾げる女に大鍋を任せると、アリーシャはエプロンを外しながら厨房を後にした。
「ノルヴィス様、お呼びですか」
「ああ」
私室へと足を踏み入れると、ノルヴィスは机に向かったまま目を上げずにそう答えた。ちょい、とペンを持った指先が軽く曲げられる。
こっちへ来い、というその指示に従い、アリーシャが男のそばへと歩み寄る。大きな机の上には所狭しと書類が積み上げられ、その山の中央でノルヴィスは少し苛立たしげに髪を掻いていた。
アリーシャの服の裾が椅子に当たると、ノルヴィスは紙面からようやく顔を上げた。軽く椅子を引き、机の下から現れた自分の膝を指し示す。意図を察して、アリーシャはため息を吐いた。
「大変失礼致します」
そう言ってノルヴィスの膝の上に腰掛ける。できる限り体重を掛けないように腰を浮かせてみたが、腹に巻かれた腕に引き寄せられたのでその思惑は失敗に終わった。
あの侍女頭が生きていれば何と言って叱責されただろうかと、そのようなことを思いながら、アリーシャは男の肩に後頭部をつけるようにして振り返った。
「ノルヴィス様、毎回申し上げておりますが仕事がやりにくくはないですか?」
「問題ない。それでなくとも気が滅入る。黙って主人を癒していろ」
「ああ……先の戦の後処理ですか。領土を手に入れたのはいいとして、アルバート殿下の軍が散々に荒らされたそうですね。しばらくは野盗や、それから流れ込んでくる亡命の民が増えることでしょう」
アリーシャが机の上の書類を一瞥する。先月に東の国境付近の集落を攻め落としたが、彼の地の管理に関するもののようだ。ついでにその戦帰りで、王都の石畳を馬に乗って悠然と闊歩する第一王子の顔を思い出した。頬に掠らせた矢傷すら勲章のような面持ちで、同じく屈強な兵たちをぞろぞろと引き連れて。きっと最後尾に続く民兵の死んだような表情も、家の働き手を失って嘆く女たちの声も、あの剛健な王子には何一つとして届いてはいないのだろう。
ぐ、と腹に回された手に力が込められて、同時にアリーシャの意識は目の前へと引き戻された。頭上からは深いため息が降ってくる。
「あの馬鹿兄はやるだけやって、残りは部下に丸投げだ」
「それをわざわざ引き取ってこられるから、夕食間際まで執務に追われることになるのでしょう。仕事熱心なことは結構ですが、この屋敷を整えている者としては、少しは主人に休んで頂きたいものです」
「だから今こうして休息を取っている」
そう言ってノルヴィスは、アリーシャの腹に片腕を回したまま、反対の手でペンを走らせ始めた。
たまにするすると脇腹をなぞる指先に、アリーシャはくすぐったいと身を捩る。幾度目かで堪らず手を取ってやめさせると、角に唇が触れる感触があった。
「そういえばこの国境付近で、他国へ売られかけた孤児の集団を保護したらしいな」
そのまま囁かれたのは、戦の話の延長線上にある話題だった。この後、夜にでも話そうと思っていたが先を越されたらしい。アリーシャはとん、と指先で机上に置かれた地図を指差した。
「さすがお耳が早いですね。レオンハルト団長の機転です。このような戦の混乱の後には、どうしても人の出入りが不明瞭となる。そこを狙う商人がいるかもしれないと」
「その奴隷商は」
「主犯格は取り逃しましたが、既に素性は洗ってあります。今夜にでも行かれますか?」
「いや、今はこちらが先だ」
ノルヴィスはそう言ってペン先でアリーシャの指をつつき、紙面上から退けさせた。
アリーシャは腹に触れる手を握ったまま、筋張った指に自らの指を絡める。角が男の喉を突かぬよう注意を払いながら少しだけ身を擦り寄せてみせた。
「ノルヴィス様、折角私が職場を増やしているのです。もっと王国騎士団もご活用頂ければ嬉しいのですが」
「そうしたいのは山々だが、王は既にあの男に目をつけている。俺の一存では動かせぬよう、裏では雁字絡めだ」
「団長であれば上手くやりますよ。抜けているように見えて意外と強かなところがあるお方です」
先程話した国境付近の見回りの件も、正式な許可は下りてはいなかったが、違法な商人の捕縛や野盗の討伐といった功績で独断先行への処罰は有耶無耶となっていた。
アリーシャがくすりと笑い声を漏らす。
「あの傍若無人な国王も、あれでいて臣民の支持を損ないたくはないようですね。団長が輝かしい名声で目立てば目立つほど、表立って敵対することは避けたいようで」
「とかく人の目を惹きつける男だ。国の象徴としては手放したくはないだろうよ」
「先手を打って接近しておいて正解でしたね。あの方は私たちにとっても有益です。不義を許さず、人望に厚く、そして何よりノルヴィス様を高く評価されています」
人を見る目があることが最も好ましい。そう続けてアリーシャがくすくすとまた笑う。
ふと、ペンの動きが止まっている事に気が付いた。振り返ろうとするより一手早く、首の後ろに口付けられる。ぴり、とした痛みにアリーシャは一瞬だけ身を震わせると、首だけで背後を窺った。男の目は既に自分の肩越しに書面へと向けられていた。
腹に巻かれた腕がいつの間にか緩んでいる。そこからするりと抜け出て、アリーシャがようやく床へと降り立った。今度は身体ごと振り返り、仕事に勤しむ主人に向けて一礼する。
「ノルヴィス様、申し訳ございませんが今宵の夕食は少し遅くなります。私としたことが香草を入れ忘れました。もう少し煮込んでからお出ししたく存じます」
そう流暢に告げると、ああ、とだけ返事があった。
アリーシャはもう一度頭を下げてから、部屋を後にしようと扉の方へと向かう。ドアノブに手をかけたところで名を呼ばれて振り返った。
「どうなさいましたか?」
「悪いな、気を遣わせた。だが、この処理はなるべく早く終わらせたい。もうじき厳しい寒さが訪れる」
「ええ全て理解しておりますよ、ノルヴィス様。私が何年貴方にお仕えしているとお思いで?」
そう言って挑発的に笑ってやる。視線は返されなかったが、微かな笑い声だけはしっかりと耳に届いた。
◇
ちょうど日が昇り始めた街の空気はひやりとしている。もう一枚羽織ってくれば良かったなと思いながら、アリーシャは王城へと向かう足取りを少し速めた。
昨夜は結局ノルヴィスの執務が夜明け近くまで続けられ、登城前に短い時間であっても眠ってくれと半ば強制的に男を寝かし付けてから屋敷を出てきた。
「ふ、わ……」
つい漏れ出しかけた欠伸を飲み込む。昨日が休日であった分、今日は早めに城へ行って幾つかやることを終わらせておこう。その予定はしていたのだが、完全に徹夜となることは想定外だった。
(今日は午前中に兵の訓練、午後は東の森の調査でしたか……団長と手合わせをする暇はなさそうで良かった)
そんなことを少し眠い頭で考える。今日は恐らくいつもよりも剣に精彩を欠くことだろう。重い一撃を受け損ねて大怪我でもした日には、王城でも屋敷でも仕事が滞って仕方がない。
あまり無理をせずに過ごそうと、そう結論づけかけた時、ふと視界の端に見慣れた金髪が映った。
「……団長?」
アリーシャが眉を寄せる。それはほんの一瞬のことで、恐らく路地裏の方へと駆けて行ったのだろう。男の姿は既に見えなくなっていた。
やれやれ、と首を振る。記憶によれば彼は昨日の夜番ではなく、巡回の時間でもない。主人と同じく仕事好きのあの男は、どうやらまた厄介ごとに首を突っ込んでいるらしい。
アリーシャはため息を吐いてから、腰の剣を押さえて男を見かけた方角へと走り出した。
現場に辿り着いた時、レオンハルトは薄汚れた身なりの悪い男と対峙していた。泥で汚れた痩せた手が背後から羽交締めるようにして、更にボロボロの布を纏った子供を押さえつけている。さほど珍しいことでもない。困窮した民による孤児の誘拐だ。
彼らに見つからない脇道からアリーシャが様子を窺う。捕縛自体はレオンハルトが行うであろうが、何か不測の事態が起こらないとも限らない。どうせ見かけたのだから仕事を手伝うかと、腰の剣をほんの少しだけ抜いた。
「その手を離して投降しろ。もはや逃げられはしないと理解できるだろう」
既に剣を抜き去ったレオンハルトが人攫いの男に告げている。早朝のためかいつもより抑えられた声は随分と低く感じる。埃っぽい路地裏に、男の荒い息と口を押さえられた子供の鼻息が聞こえる。
男が何かを答えるより早く、ざり、とレオンハルトの足が音を立てた。
「離せ、と言っているんだ。たとえ君が生活に困っていようとも誘拐は重罪だ。それ以上罪を重ねる前に大人しく捕まった方がいい」
「う、う……うるせぇ、この……お貴族様が!」
圧に耐えかねたのか、そのようなことを男が唾液混じりに叫んだ。恐らく子供を掴んでいる腕の力が増したのだろう。男の手の隙間から見える子供の顔が痛みに歪んでいる。
だから余計な問答をしていないで手早く叩きのめせばいいものを、この真面目な騎士団長はしばしばこのような失態をやらかす。仕方がない、とアリーシャが身を滑り出させようとした時、男は言ってはならない文言を告げた。
「だ、大体こいつは孤児だ! 俺は知ってるんだ! この国ではこいつらの存在は記録されねぇ! 存在しないものをどう扱おうが、俺の勝手だろ!」
ああ、とアリーシャが思わず額を押さえる。瞬間、ぶわり、と路地裏に漂う空気が威圧感を増した。物陰から覗き見ると、レオンハルトの青い瞳はすっかり怒りに燃えており、人攫いの男だけでなく孤児までもが酷く怯え切っているようだった。
「それは、この国に住まう民として――」
「はい、横から失礼致します」
レオンハルトがさらに一歩踏み出すと同時にアリーシャは脇道から飛び出し、人攫いの背後から両腕を掴んで捻り上げた。先代頭直伝の捕縛術だ。硬い地面に頬骨を強かに打ちつけた男が低い声で呻いている。そのまま後頭部を踏みつけて意識を奪い、ついでに両肩を外してやった。
「ア、アリーシャ……」
その驚いたような声にアリーシャは呆れた表情を返す。男を地面に放って立ち上がると、腰の辺りにしがみ付く子供の体温を感じた。たまに周囲が見えなくなる騎士団長への忠言は後回しにして、泥で汚れきった子供の頭を撫でてやる。
「怖かったですね、大きな怪我はないようで何よりです。あなたは幸運でした。彼はこの国の騎士の中でも一番強い人です。どんな商人に捕まろうとも、必ず助けてくれますよ」
「……」
視線でレオンハルトを指しながら告げると、子供はちら、と彼の方を見てから無言で頷いた。アリーシャは身を屈め、小さな耳の泥を軽く払ってからそこへと唇を寄せる。
「折角なので一つ助言です。この時間は人目を避けたい悪党が彷徨いています。盗みを働くのであれば早朝は避けた方がいい」
そう囁いて子供の服の膨らみを指差してやる。孤児がびくりと身を竦ませたので、捕縛する気はないと付け足して、おまけに朝食にする予定だったパンを握らせてやった。
もうじき大通りを巡回の兵が通りかかる。保護されたいのであればそちらへ、そうでないなら反対側へと二方向を指差すと、孤児は迷わず路地裏奥の薄闇へと駆けて行った。
子供の体温は平熱より少し温かく、首元には瘴気に侵された病によるあざが見えた。恐らくさほど長くはないだろう。ふと、鼻奥にあの地下水道の臭気が漂った気がした。きっと仲間内で分けるだろうパンが、もう少し大きければ良かったなと、そんなことを考えながらアリーシャは膝の泥を払って立ち上がった。
「さて……」
気絶した人攫いを兵へと引き渡し、周囲に人が少なくなったのを見計らってから、王城へ向かう道の途中でアリーシャが切り出した。隣を歩く背の高い男を見上げる。いつも伸ばされた背筋が心なしか丸くなっているように感じた。
「言いたいことはお分かりですね」
「ああ。その、すまないアリーシャ。助かった」
「団長には威圧感がお有りです。悪党を震え上がらせるのは良いとして、救出対象まで怖がらせてどうします」
「面目次第もない。その……つい、カッとなってしまった」
そう言ってついにレオンハルトは項垂れた。すっかり下がった眉尻は、先程気配だけで相手を圧倒していた人間だとは思えない。
気を付けてください、とアリーシャが再度釘を刺す。このところ、完璧に見える騎士団長には今回のような失態が目立った。
眩しいまでの存在感は、時に対峙する者を強く威圧する。それがたとえば戦場であったり、弱い腹を見せれば喰い殺される王城では有用な武器であったが、剣を握ったこともない市井の者相手にやられるとたまったものではない。
足を止めないまま、アリーシャは無言の下で考えた。剣の頂きに登り詰めるだけあって、彼は自分を律することは得意である筈だ。現に、策謀渦巻く王城では並み居る貴族や王すらも相手に上手く立ち回っている。王に存在価値を認めさせ、ノルヴィスにはできないことをやってもらうには、この男には清廉な騎士団長であってもらわねば困る。
「はあ……どうやら団長は、孤児の扱いに固執するところがありますね」
わざとらしいため息の後で、少しばかりの棘を含ませてそう言うと、レオンハルトはすまない、と謝罪してから、ぽつぽつと語り始めた。
「……昔、知り合った者がいたんだ。名前も知らない。自分より少し幼い少年だったと思う。路地裏に迷い込み、人買いに遭いかけたところを助けられたことがあるんだ。か細い身体で、大人でさえ迷うような路地裏をぐんぐんと走って、彼がいなければ私は売り飛ばされていたと思う」
「それは命拾いをしましたね。団長は丈夫な身体をされていますから。炭鉱か鉱山にでもやられて、事故か、生き埋めか、瘴気に侵されていたかもしれませんね」
「ああ。彼のおかげなんだ。だというのに私は、彼を見殺しにした」
レオンハルトはそう言って顔を顰めた。
話を聞いてもいいかと、アリーシャが一拍置いてからその先を促す。以前に聞き損ねた騎士としての矜持を知り、彼の本質を探る好機だと思った。
男からは、長い息を吐き出す音の後で、ああ、と肯定の意が返る。
「……パンを、盗んでいたんだ。それはいけないことだと、どんなに貧しくとも、盗みに身を落としてはならないと……そんな説教をするうちに、店主に見つかって彼は連れて行かれてしまった。その後なかなか姿を見ないので、周囲の大人に聞いたんだ。そうしたら、『そんなものはもうとっくに殺されているに決まってるだろう』って」
そこでついにレオンハルトの足が止まった。ぎり、と拳が握られる。青い瞳は瞼の向こうに隠れ、端正な顔の中で唇が微かに戦慄いていた。
やがて、常に自信に溢れた太陽のような男の口から、まるで似合わない震える声が絞り出される。
「世間知らずだった。国の綺麗なところばかりを見て育ち、分かった気になって、私の無知と傲慢が、友を殺した。だから、変えなければいけないと思ったんだ。罪滅ぼしになどなりはしないが、それでも私にできる限りのことをしなければ……私はあの子に、顔向けができない」
レオンハルトはそう言って告白を終えた。周囲にすっかり人影はなくなっている。ざあ、と二人の間を風が通り抜けてから、アリーシャが首を傾げた。
「顔は、向いていますね」
目は閉じているが、とアリーシャは男の顔を見ながら続ける。
数秒の沈黙の後で、レオンハルトは目を開いた。
「……ん?」
「少年ではなく、少女です。長々と語らせてしまったところ悪いのですが、この通り生きています」
アリーシャは両腕を開き、そう淡々と宣言する。話の途中からもしかしてとは思っていたが、あの時の少年だとはなかなかどうして想定外だった。
あのパン屋の主人に殺されはしなかったが、危うく仲間たちまで痛い目に遭わせるところだった。それ故に以来一度も近寄らなかったが、この男がしばしば路地裏を徘徊しているのはこういうことだったかと、何やら潔癖な執念のようなものを感じた。
そんな内心の驚きを完全に覆い隠したアリーシャに対して、レオンハルトはぱくぱくと口を戦慄かせてから小声で叫んだ。
「なっ……か、髪の色は深緑だったと……!」
「地下水道の苔か何かでしょうね」
「角だってなかった!」
「地上に出る時には隠しますよ。無駄に殴られるのも面倒です」
「それでは……」
「人攫いから助けられておいて、偉そうにご高説をする少年が団長の他にあれば話は別ですが、そうでないのなら私のことかと」
アリーシャは大きく肩を竦める。上がった肩が降りるよりも早く、鋭く伸びてきた二本の腕に引き寄せられた。
「良かった……良かった……! あの時はすまない、私のせいで痛い思いを……! 傷は? 角に欠けがある、もしかしてあの時に――」
両腕で強くアリーシャを抱き締めて、レオンハルトが捲し立てる。
アリーシャは一瞬だけ身を竦ませてから、太い腕の中で何とか身を捩った。角先に触られそうになったので、やめてくれと頭を振って避ける。
「それは別件です。もう良いのでどうか離してください。いくら早朝とはいえ、この道は人が通ります。誰かに見られれば非常に面倒なことになります」
「うわっ……す、すまない……! その、生き延びてくれてありがとう、アリーシャ。君のおかげで、私はもはや迷わず進むことができる」
酷く慌てた様子でアリーシャを解放すると、レオンハルトはそう言って爽やかに笑った。
すっかりさっきまでの憔悴が嘘のような男に、アリーシャはまたため息を一つ吐く。軽く身体を払ってから、じっと真っ直ぐに男の目を見上げた。
「団長の目指す道とは?」
以前に聞き損ねた問いを重ねてやる。レオンハルトは今度は少しも言い淀まなかった。
「言うまでもない、この国に住む民を守ることだ」
「お綺麗な理想です」
「ああ。綺麗事だ。だがそれでも、いつの日かこの国に住まう全ての者が、幸福を感じて生きることができればと、ノルヴィス殿下であれば実現くださるのではと、そう思っている」
建物の隙間から現れ始めた太陽を背にして、レオンハルトがそう言い切る。逆光で分かりにくいが満面の笑みを浮かべているように見える。
アリーシャは眩しさに目を細めた。どうやら期待されているようですよ、と心の中で主人に報告してから、仕事の開始に遅れないよう目の前の男に登城を促した。




