第23話 地獄へと向かうには
その日は、冷たい風の吹く日だった。
夜空を覆っていた黒雲がようやく流れ去り、現れた星々の光が朝焼けに溶けていく。
地上では鎧を纏った集団がぬかるんだ道を進んでいた。夜を徹した行軍。深い疲労と、雨で身体が冷え切ったことも重なり、馬を持たない傭兵や民兵の間からはひそひそと不平が囁かれた。
民衆に召集をかけての出兵。その目的は、いよいよ見つかったという魔族の隠れ里への侵攻だった。
隊列の最後方に近い位置で、一人の男が兜を脱ぐ。年若い男だった。普段は城下で肉屋を営んでいる。隣を行く小隊長に苦言を受けたが、兜と頭との間に溜まった水がどうにも気持ち悪かった。
濡れた髪を掻き、吹き抜ける風で水滴を飛ばしながら男が身震いする。早朝の森は冷えるものではあるが、それにしても今朝の風は凍えるようだと思った。
さっきより一層冷たく感じる兜を被り直す。兜といっても、布に少しの鋼を貼り付けただけの粗末なものだ。命を預けるには心許ないが、しかし聞けば今回の侵攻は普段の戦やなんだとは違い、ただ森を焼きに行くようなものだという。
魔族というものは、瘴気を撒き散らすということの他に大して知りはしない。そんなことより森を焼くことの方が、男には問題であるように思えた。森が減れば獣が減る。獣が減れば肉が減り、つまり商売は一層厳しくなる。
ただでさえ、第一王子の服喪だと数週間も店を開けなかったのだ。他の商人と同様に、兵の目を盗んで馴染みの客にはいくらかを売ったが、それでも肉は多くが駄目になってしまった。
つまらないことを思い出して男が舌打ちする。腐ってしまった商品は路地裏に廃棄したが、自分が例えばパン屋でなくて良かった。嗅ぎつけたようにやってくる孤児や浮浪者の類を追い払うのが大変だったらしい。
(魔族だか何だか知らないが……そんな奴らより、がめつい役人でも死んでくれた方がずっといい)
欠伸を漏らしながら男はそんなことを思った。
悪どい所業をすることで有名な貴族や役人が立て続けに路地裏で殺された時、何やら庶民の味方をする者が現れたと街は密かに沸き立った。しかし、次第に死体はよく知らない貴族であることが増え、遂には暴動に参加したらしい平民まで嬲り殺しにされ、彼らはようやく理解した。
あの連続する不審死は、救世主によるものなどではない。ただの異常者による蛮行だ。
ばしゃ、と足が水溜まりを踏んだ。冷たい水が染み込んでくる。この靴も随分と古くなった。行軍でついに駄目になれば、或いは城が補償してくれるのだろうか。そのような訳もないな、と男は破れそうな足先を睨み付けた。
その時、一瞬だけ足元に影が走ったような気がした。まだ雲が残っていただろうかと思っていると、やがて地響きのような振動を感じる。
どうやら前方から伝わってきたらしい混乱が、間もなく男のいる辺りを飲み込む。微かに聞こえる馬の声。戸惑ったようなざわめき。落ち着けという怒声。
静かだった早朝の森はすっかり騒ぎとなり、そんな中で、ようやくその報がここまで届いた。
「賊だ! 国王様が……身罷られた――‼︎」
「は?」
反射的に男が呟く。何をそんな馬鹿なことがあるか。敵国からも遠く、これだけ衛兵に囲まれた行軍で。賊だなどと、一体どこから。
少し遠くなったような気がする喧騒の中で、男は、さっき一瞬だけ横切った黒い影をぼんやり思い出していた。
その襲撃は余りにも急なことだった。
馬に跨る衛兵の耳に、最初に届いたのは鳥の鳴き声のような甲高い音。それが何かが風を切る音なのだと気が付いた時には、既に空からの襲撃犯は表情が見える距離まで降りて来ていた。
「死にたくない者は頭を下げていろ!」
王城に勤める者にとって余りに聞き覚えのある怒声。この国の第二王子であるはずの男が何故このような場所に。まるで不吉の象徴のような黒い翼を纏わせて。
衛兵の一人が剣を取り落とし、切先が馬の足を傷付けた。轟く嘶き。それを中心に混乱が伝播する。
王の護衛、賊の迎撃、驚愕、保身、逃亡――複雑な混乱を裂くように白刃が朝日を反射させた。
「忌み子が……!」
地を這うような怨嗟の籠った声を、王の側にいた兵が確かに捉えた。その次の瞬間には兵の視界を赤が覆う。
妙にゆったりとした動きで、頑強な巨体がぐらりと傾く。やがて地面に伏せ落ちた身体の下からは、おびただしい量の血が流れだした。落下の衝撃にも関わらず男はぴくりともしない。駆け寄って確認するまでもない。この国の王が、死んだ。
「お、追え……! 追えー!」
誰かが叫んだ。一太刀の下に王を斬り殺した男は既に、兵らの頭上を滑るようにしてこの場を離脱していた。
何頭かの馬が弾かれたように隊列を抜け出る。蹄がぬかるんだ地面を蹴り、泥を巻き上げた。その規則的な音で我に返ったようにさらに何人かの兵が続き、それを繰り返して、隊列は少し寂しい有様となった。
すっかり荒らされ切った地面の窪みには濁った水が溜まり、そしてそこには濡羽色の羽が浮かんでいた。
◇
木々の間から、裸の地面が空を突くように崖が迫り出している。
遥か昔には処刑場であったらしいこの場所は、今も断罪者の崖と呼ばれている。
翼を畳んだアリーシャはノルヴィスの身を支えながらその崖の縁に立った。下を覗き込むと深い森が広がっている。この方角は隣国との境までずっと森林地帯が続いている。あの王は結局正確な場所までは突き止め切らなかったようだったが、魔族の住まう隠れ里もきっとこの近辺だろうと、周囲に感じる魔力からアリーシャは推察した。
背後で馬が止まる音がする。随分と遠い距離だ。アリーシャはぐらついたノルヴィスの身体を支え直してから、ゆっくりと振り返った。
何頭かの馬、それからそこに跨った衛兵の目がこちらをじっと見ている。皆最初の言葉を発することを躊躇っているようだった。
やれやれ、とアリーシャは勢い良く翼を広げる。ばさり、という羽音。牢での拷問と、ここまで無理を続けたせいだろう。羽の重みで背中が引き千切れそうな痛みがあった。
衛兵たちは再びざわめいている。しかし誰も何も宣言しようとしない。
アリーシャが息を吸う。声を発しようとした瞬間に、支えていた身体が軽くなった。
「こんなところまで追ってくるとは。さぞあの愚王に盲信する者どもらしい」
自らの両足で立ったノルヴィスが兵たちに向けてそう告げた。朗々としたようで、どこか嘲ったような声だった。
アリーシャは小さくため息を吐き、まさに発しようとした言葉を飲み込んだ。深手を負った足を無理やり動かしてでも、この主君は最期まで矢面に立ちたいらしい。本当に良い趣味だ、とアリーシャは、男の背中に向けて声を出さずに囁いた。
戸惑っていた兵たちの間から、やがて凶行を問い詰める声が上がり始めた。
本当にノルヴィス様なのか。何故このようなことを。王殺し、さらに父親殺しなど、ついに気でも触れたのか。
「それとも……後ろにある魔に唆されましたか。翼を持つなど魔族とも違う。一体それは何なのですか」
最後に兵の一人が問うた。他よりも一段落ち着いた声。屋敷で聞き覚えのある声だなとアリーシャは思い、そんなところまで舞台を整えていたのかと思わず小さな笑い声が漏れた。
アリーシャの声が聞こえたらしい兵たちがまたざわめき立つ。漂う緊張感。抜きかけた剣が戻されたような音がする。どうやら得体の知れない者相手に、更には国の王子を相手に、剣で迫る気にはなれなかったらしい。
代わりに矢が取り出される音がした。しかしなかなか弦が引かれない。アリーシャは無言で翼を羽ばたかせ、軽く地面を蹴った。
「なっ……ま、待て!」
兵の慌てた声がする。アリーシャは背後から抱き上げたノルヴィスの身体を更に強く引き寄せた。両腕を深く絡み付かせるように胸と腹に回し、男の首元に唇を寄せる。意図を理解したらしいノルヴィスが、後ろ手に腕を回してくる。さほど力の入っていない腕を首に掛けるように受け止めると、アリーシャは兵のうちの一人の顔を見た。
「逃げるぞ!」
先程アリーシャのことを問うた兵が鋭く叫んだ。屋敷の同僚である老齢の彼は、まるで本物の衛兵のように手慣れた動きで矢をつがえ、強く引き絞った。
男に釣られるようにして他の兵たちも慌てたように矢を準備する。鈍い色の矢尻が一斉にこちらを向いた。
頭の高さまで浮かび上がったアリーシャが、木々の向こう側に昇った光を見て眩しそうに目を細める。次いで、くすくすとノルヴィスの耳元で笑った。
「ほら、見てください。空がこんなにも美しい。地獄へと向かうのには、絶好の日和ではないですか」
「ああ……温かい、な」
ノルヴィスが溢すように囁いた。先程の声が嘘のような、消え入りそうな弱々しい声だった。潰された目と反対の瞳も、汚れ切った瞼の向こう側に隠れている。
ぎゅ、とアリーシャが両腕に力を込める。血で濡れた男の頭に愛おしげに頬を寄せた。
「おやすみなさい、ノルヴィス様。愛しているわ」
まるで幼子に告げる眠る前の挨拶のように。慈愛を込めた柔らかな声でアリーシャは囁き、そして次の瞬間、身体を衝撃が襲った。
吹き抜ける風に押し返された矢は、それでもアリーシャとノルヴィスのもとへは届いた。肩と足に鋭い熱さ。アリーシャは空中でぐらりと体勢を崩した。
それでも離れぬよう両腕だけに意識を集中させ、空を泳ぐように男共々仰向けに倒れ、そしてアリーシャの身体は頭から真っ逆さまに崖下へと落ちて行った。
「甘い、男だ……」
落ちる風の中でノルヴィスの声が聞こえた。呆れたような掠れ声だった。
先程身を貫かれる寸前、衛兵たちの遠く向こう側に見えた馬を駆る姿。木陰でも輝く金の髪。くすり、とアリーシャも笑い声を漏らした。
「ノルヴィス様に、そっくりです」
「実に……不服、だな」
青く染まる空に血を撒きながら。翼を持つ女と、それに捕らわれた男。二つの身体は深い森へと飲み込まれた。
混乱の翌日。王国中に報せが触れ渡った。
――国王が急逝。凶行に及んだ第二王子は「魔に取り憑かれた逆臣」として既に処断された。
城下町を賑わせる報を聞きながら、肉屋の青年は疲れたように肩を回した。街の噂によれば、その処刑されたという王子の死体はまだ見つかってはいないらしい。
どっちでも関係ないが、と彼は思った。どっちにしても王が死んだことで、またこの城下は商いを制限される。
常連のために包丁を研ぎながら、青年はふと、あの靴に染みた泥水の、凍るような冷たさを思い出していた。




