第22話 堕落
速い雲の流れに逆らうように、黒い人影が夜空を滑る。
翼で夜風を切りながら、アリーシャは一度だけ後方を振り返った。
ノルヴィスによると、屋敷を連れて出たあの使用人たちにはそれぞれの仕事をさせているとのことだった。王城に出入りするうちに気が付いたが、彼らはいずれも何某かの策謀でそこを追われた者たちだった。かつては爵位を有していた者であったり、騎士として剣を振るっていた者であったり、或いは王城の厨房に勤めていた者であったり。恐らくは王の不興を買ったか、政治争いに敗れたか、ノルヴィスに味方することで追放された者も多いだろう。
彼らの中には瘴気や魔族について詳しい者もあった。一度、角の古傷のせいで寝込んだ時、森にだけ生息する薬草を素知らぬ顔で差し入れられたこともある。王によって城内の記録が破棄され、改竄された今となってはその知識は貴重だ。各地の勢力纏めに奔走しているであろう者たちと共に、その彼もニコラとレオンハルトの力になってくれれば良いと思った。
「忘れ物でもしたか?」
腕に抱いたノルヴィスから問いがあった。どうやら刹那の物思いに気付かれたらしい。
アリーシャは視線を前方へと戻して首を横に振った。
「いいえ。存外、居心地の良い場所ではありましたが」
「そう思うのであれば、お前が励んだ証左だろうよ。筋が良いとは思ったが、まさかあの男に次ぐ剣士になろうとはな」
「お褒めに預かり光栄です。これでも好敵手だと仰って頂けたのですよ。街で剣術指南でもすればどうかと」
言い終わる寸前に、頭上の厚い雲の中が一瞬だけ光を放った。ごろごろと獣の唸り声のような雷音が聞こえる。
ふと、ある光景が思い浮かんだ。城下町の片隅にある小さな広場。光の差し込むその場所で、自分は子供たちを相手に訓練用の剣を振るう。そこにはこっそり城から抜け出したニコラが混じり、連れ戻そうと追って来たレオンハルトも結局剣術指南に熱を上げて、そして全員で不機嫌そうな顔のノルヴィスにこっぴどく叱られるのだ。
鼻に当たった冷たい水滴で我に返る。強風で流れ去っていった雲の最後の一つからは、雨が降り始めていた。透明な液体を弾き返すように、アリーシャは一度翼を強く羽ばたかせた。
黒く厚い雲からは冷たい雨粒が滴り落ちている。それらは身体の傷を洗い流し、ついでにあの部屋の気に食わない匂いも落としてくれるようだとアリーシャは思った。
濡れた手でノルヴィスを抱き締め直す。寒くないかと問うと、寒いに決まっているという返答があった。
「王は、ここからさらに西に行ったところです。森に攻め入るつもりでしょうが、日が昇り切るより前には追いつけるかと」
放った呪いの気配が確かに近付いている。そのことも合わせて伝えると、ノルヴィスからは小さな笑い声が返った。
「随分と便利なものだ」
「ええ。良い拾い物だったでしょう?」
「まったくだ。その翼は、混血の証といったか?」
ノルヴィスの問いにアリーシャは頷く。ばさりと一度大きく両翼を羽ばたかせると、本来忌み嫌われるものだと言って苦笑した。
不意に、さらりとした触感が首に触れる。飛行を続けながら視線を下ろすと、手にした羽の先端でノルヴィスがそこをくすぐっていた。
「あまり戯れられると、落としてしまいますよ」
「手持ち無沙汰でな。今更ではあるが、地下水道に至るまでのお前の話を聞いてもいいか?」
「ノルヴィス様の喜ぶようなお話はできませんよ」
「いい。俺が聞きたいと言うんだ」
いつかに聞いたようなやり取りだった。目的地まではまだ少し距離がある。暇潰しということならと、アリーシャは当時を回顧した。
「最初の記憶は、目です。大きな、嫌な目。父であった男に母は王国を追われ、幼子の私を抱いて森を逃げていました。それが、私が覚えている一番古い光景です」
恐らくは魔族の隠れ里へと続く深い森。身体が激しく上下に揺さぶられる感覚と、女の荒い息遣い。自分を抱き抱えて走る母の肩越しに、確かにあの目がこちらを睨み付けていた。
父と母との間に何があったのか。今となっては瑣末なことであり、もはや本人に聞くほか知る由もない。母親であったあの魔族の女が今どこでどうしているのか。生きているのかどうかも分かりはしないが。
「母親に捨てられたか」
「ええ。私は人間との混血で、しかも珍しい羽付きでしたから。魔族の間では凶事の象徴なのです。何でも昔、翼を持つ種族に滅ぼされかけたとか」
そう答えてアリーシャが軽く肩を竦める。
昔話の真偽は定かではないが、魔族が翼を嫌うというのは本当だった。混血に稀に顕れるという凶星を抱いて産まれた子、しかも王国の不義理により人間への嫌悪が高まっている頃。同族の排斥に耐え切れず、女が幼子を手放すのにそう時間はかからなかった。
「幸いにして歩くことはできましたからね。何とかその辺りのものを食い繋いで、たまたま通り掛かった荷馬車に潜り込んで、王国へと辿り着いた後のことは既に大体ご存知でしょう」
そこでアリーシャは話を一度終わらせた。
いつの間にか雨は止んでいた。頭上を覆う雲の終わりは既に見えており、その向こう側の空はほんの僅かに濃紺が薄くなり始めている。
ぺとり、と頬に濡れた感触があった。また視線を下ろすと、ノルヴィスは手にした羽の水滴を弾いているようだった。
「何かご質問が?」
アリーシャが問うと、ああ、という返事が返った。
返答を続ける前にノルヴィスが羽を宙に落とす。黒い羽は風に踊りながら後方へと消えていった。
「その人間の男というのは、俺の父殿のことだな」
「ええ。今まさに殺めに行こうとしているお方です。何か不都合でも? まさか今更、非道だと咎めますか?」
「いや」
そこで男の返事は止まった。羽を手放した指先がアリーシャの耳の辺りをくすぐる。
アリーシャがノルヴィスを軽く睨む。本当に落としたらどうするのか、と苦言を呈すると、俺の侍女は優秀だ、という返答があった。
「俺はあの男の血を引いていない。そのことにはむしろ安堵してきたが、ここにきて初めて、感謝すら覚えた」
「と言いますと?」
片眉を上げたアリーシャが先を促す。
ノルヴィスは何やら挑発的に口角を上げた。
「危うくお前に触れることが禁忌であるところだったと」
そうどこか冗談めいた声でノルヴィスが答えた。
「ふっ……ふふふふ……」
アリーシャの肩が震える。
揺れるぞ、と文句を言うノルヴィスに、それは申し訳ない、と笑い混じりに返した。
込み上げかけたものを飲み込み、アリーシャは遠い地上を見下ろす。深い森が一面に続いている。身体はちょうどあの泉の上空辺りにあった。
ふと、牢で見た夢のことを思い出す。来るなと告げた幼い声。見くびるなと返した優しい声。
アリーシャは両腕に少しだけ力を込めると、男の肩口に顔を埋めた。冷たい雨風で自分の頬も冷え切っているはずであるのに、それよりもずっと冷たい男の肌。流暢にやり取りしていることが嘘のような、まさに瀕死の身体。殆ど力が入らないのかぶら下がっているだけの片脚。
「ノルヴィス様」
一度名を呼び、アリーシャはそこで言葉を飲み込んだ。
貴方と出会えて良かった。救ってくれて嬉しかった。
告げるべきは、そんな陳腐な綺麗事ではなかった。
「ノルヴィス様、私は一つ、貴方に謝らなければなりません」
少し考えた末に、そのようなことを言うことにした。
ほんの僅かに間があってから、男の喉が動く。
「なんだ」
「貴方に頂いた命ではありますが、私はそれを正しく磨き上げることは叶わなかったようです」
告白を始めてしまえば、言葉はすらすらと喉をついて出た。
暗い視界。一方で脳裏には、あの太陽のような苛烈な男と、自分を姉と慕う青年の姿が思い浮かんでいた。似合いもしない不恰好な求婚をした、真っ直ぐで不器用な男。一介の騎士を捕まえて、己の不出来を指摘してくれと宣わった若き王子。それから共に剣の腕を磨いた同僚たち。仕入れで顔馴染みとなった街の商人。
「私を、善人だと言ってくださる方がおりました。私もまた一時は、そう在りたいと思ったのです。或いはそう在れるのではないかと。あの子たちと同じく、たとえ死後の身であっても、陽の下へと辿り着けるのではないかと」
ノルヴィスからの返答はなかった。
アリーシャは一度男の首から顔を上げ、周囲を見渡す。さほど時間に猶予はなさそうだ。
雲の終わりが近い。黒に近い紺だった空は、少しずつその色を淡く変化させている。
後方に続く厚い雲。その向こう側では日が昇り始めているのだろう。夜明けの上空は酷く寒い。散々痛ぶられた全身は、それ以上に両腕に抱く男の身体も、既に体温を失いかけているようで震えすら起こりはしない。
アリーシャがそっと口を開く。体内にはまだ熱が残っているらしい。は、と白い吐息が夜空に溶けた。
「私は、貴方に救われた身でありながら、貴方をお救いすることができませんでした。美しい貴方が夜を選び、私の在る泥底へと落ちてきてくださったことが……私は、こんなにも嬉しい」
そう絞り出すように告げて、アリーシャはまるで眩しさに目を細めるように笑った。
ノルヴィスの喉から押し殺したような音が漏れ出る。それは次第に大きくなり、やがてどこか楽しそうな笑い声へと変わった。
「よりにもよって、仕えた主君の墜落を喜ぶか。あの清廉な男のみならず、この国の誰に問おうとも咎めるか、或いは蔑むだろうな」
「ええ。王国広しといえども、貴方ぐらいなものですよ」
貴方だけです。そうアリーシャは静かに繰り返した。
ノルヴィスは何も返さなかった。一時の沈黙。不意にアリーシャの頬に手が触れた。末端などとうに冷え切っているはずだ。それなのに、確かな熱を感じた。
「温かい……」
目を閉じてアリーシャが呟く。熱い手のひら。あの泉でこの身を抱き上げたものと同じ、自分の知る限り誰より温かな手。
目尻を指先が拭う感触に、アリーシャはゆっくりと瞼を持ち上げ、少し揺れることを詫びた。
翼が風を切る。森に向け、身体が緩やかに下降し始める。
人間よりずっと鋭敏なアリーシャの目が、遠く、兵の隊列を見た。
ノルヴィス様、とアリーシャが囁く。睦言のような、子守唄のような、甘い囁き声だった。
「どこまでもお供致します。私たちの蛮行を完遂しましょう。貴方の名は稀代の大罪人として記され、そして貴方に取り憑いた魔として私の影だけが遺されるのです」
そう言ってアリーシャは微笑んだ。妖艶に笑ってやるつもりだったが、寒さで強張った頬が上手く動かず、果たしてそうなったかどうかは分からなかった。
ノルヴィスからは深いため息の音が返る。
「随分と大仰な言い振りだ。あの暑苦しい男にでも影響されたか?」
「ノルヴィス様もしばしば尊大で大袈裟な物言いをされておりますよ。まさかご自覚ありませんか?」
今度こそ挑発的に笑うと、アリーシャは拗ねたようなノルヴィスの尖った口先へと軽く唇を掠めさせた。
上空の影がぴたりと止まる。
「愛しております、ノルヴィス様。恩義を妄信し、私にとっての世界を、唯一を愛して、何か不都合はございますか?」
「ない。元よりお前が拒もうが手放してやるつもりもない。この身が地獄に落ちるまで、俺のそばを離れるな、アリーシャ」
「畏まりました」
そのやり取りを最後に、黒い影は森の隊列に向けて急降下した。




