第21話 逃亡
鈍い音が居室に響く。前髪を掴んで持ち上げられたアリーシャは、目の前の刑吏をじっと見上げた。
気の毒だ。彼らも実に仕事がやりにくいことだろう。相手を捕え、痛めつけることに特化した地下牢と違い、ここは元第一王子の部屋だ。憎らしい仇を甚振ることを王に指示されたところで、部屋を傷めず汚さず、その中でできることなど所詮限られている。
これならば娼館での折檻の方が余程激しかったなと、そのようなことを思いながらアリーシャは静かに目を閉じた。
暗い視界に衝撃と、もはや嗅ぎ慣れた血の匂い。男たちの息遣いと舌打ち。その向こう側に、微かに足音が聞こえた。苛立ちを隠そうともしない足取り。強く床を蹴り、何か濡れたものを踏んだ音がした。
はあ、とアリーシャがため息を吐き、重い瞼を持ち上げる。それとほぼ同時に、己を殴る男たちの背後で扉が勢いよく開いた。
「なっ……あ……ぐ……」
慌てた様子で振り返った刑吏の一人が意味のない断末魔を上げて床へと崩れ落ちた。反応の遅れたもう一人は背後を振り向くこともなく、アリーシャの方からは彼の喉より急に剣先だけが現れたようにも見えた。
瞬く間に二人を斬り殺した男は、血に濡れた剣を引き摺るようにしてこちらへと歩み寄ってくる。ぐしゃり、ぐしゃりと靴が濡れた音を立てた。返り血の他にどうやら片足を負傷したらしい。歩行の拍が普段より乱れている。
一切の会話がないまま、ぶつり、と剣がアリーシャを縛る縄を切った。アリーシャはよろめき立ち上がりながら、伏せた視線を床からゆっくりと持ち上げた。
倒れ伏した死体の血液で染まった足。すっかり汚れ切った鞘。少し荒い呼吸音に合わせて上下する肩。
乱れた黒い髪からは赤い液体が滴り、切り傷のある鼻先へと落ちている。不機嫌を通り越して憤怒すら浮かぶ表情。長い前髪の間からこちらを見据える紅は、一体どこで落としてきたのか、片方だけとなっていた。
床に刺した剣を支えに立つノルヴィスに向かい、アリーシャは困ったように目を細めた。
「随分なお顔に、なっておられますね」
「お前の方こそな。髪まで切られるとは、女の扱いを、知らんらし――」
言い終わる前にノルヴィスは一度深く咳き込んだ。吐き出すものには血が混じっている。
ぐらりと倒れ込んできた身体を抱きとめると、アリーシャは痛む足に何とか力を込め直した。ノルヴィスが少々痩せたところで、相手は自分よりも背の高い男だ。今や屋敷の大鍋も難なく取り扱えるようになってはいたが、やはりもう少し鍛えておくべきだったなと思った。
背中に両腕が回される。それらが微かに震えていることを傷付いた肌から感じ取った。
そこでついに、アリーシャは観念したように笑った。重い腕を持ち上げそっとノルヴィスの背に回すと、満身創痍の男を抱き締め返す。
「貴方のためであれば、どのような道でもお供できると思ったのです。しかし……貴方を魔に堕としたのは、他ならぬ私だったのですね」
まるで幼子に聞かせる子守唄のようにアリーシャが囁く。路地裏の地面を激しく叩く雨の音が聞こえた気がした。
今目の前にいる男は、誰より美しかったはずの泉の男は、今やまさしく私憤に塗れていた。
「ノルヴィス様――」
続けようとした言葉は、生暖かな空間へと飲み込まれた。
室内に充満する血潮の匂いよりずっと濃い血の芳香。このように口付けられるなど随分と久しぶりのような気がした。裂けた舌の合間をゆっくりと舌先でなぞられ、アリーシャは痛みに身を震わせた。
「何を、されるのですか」
解放された口を片手で押さえながらアリーシャは半分涙目で男を睨み上げた。
対する男からは鼻で笑うような音が返る。
「お前がまたくだらぬことを言おうとするからだ」
「別に、謝罪しようと思ったわけではありません。ただ……幸運にして、明日は晴れそうだと。そう言おうとしただけです」
「それは身に余ることだな」
「ええ、本当に」
アリーシャの視線が窓の方を向く。固く締め切られたガラスの向こう側で、黒い夜空に雲が流れているのが見える。風の強さに対して窓の鳴き声は小さい。そこでこの部屋が王子の居室なのだと思い出した。
ノルヴィスはアリーシャの背に腕を回したまま、並び立つようにして同じく窓を見た。その横顔を見上げることなく、視線を窓から逸さぬままでアリーシャは囁いた。
「既に、呪いは差し上げております。このままでもひと月で身罷られるでしょうが、追いますか?」
「愚問だな。理解していることをわざわざ問うとは、あの男に影響されたか?」
「お拗ねになられないでください。……ええ、随分と長い間、お世話をさせて頂きましたからね」
「そうか」
そこで会話は途切れた。
ノルヴィスとアリーシャの足が迷うことなく窓の方へと向かう。あと二歩で辿り着くというところで、背後の扉の方からガシャンという重い音がした。
「アリーシャ! ノルヴィス殿下……!」
アリーシャが首だけで振り返る。少し前から足音が近付いて来ていたが、そこには想像通り、レオンハルトが肩を怒らせて立っていた。
ほんの一瞬の静寂。それを取り払うようにレオンハルトの足が一歩居室へと入り込んだ。
「殿下、どうかおやめください! あなたともあろうお方が、何故このような凶行を……!」
「くどいな。俺は二度同じことを言わん」
必死に訴えかけるレオンハルトとは対照的に、ノルヴィスは振り向くこともなくそう言って切り捨てた。
アリーシャは無言でレオンハルトの様子を窺う。ぐ、と彼は言葉に詰まったように見えた。しかしそれも数秒のことで、強い眼光が再びこちらへと向けられる。
「現在ニコラ殿下が魔族侵攻の反対派をまとめ上げ、一部の兵と共に森へと向かっています! どうかお待ちくださいノルヴィス殿下、アリーシャ! 貴方たちが手を下さずとも、事態はまだ止められる!」
「残念ですが団長……既に賽は投げられています」
そう静かに答えてアリーシャはレオンハルトに向かって軽く舌を突き出した。
そこに浮かぶ蔦のような紋様。レオンハルトが目を見開く。あの時の、という呆然とした呟きが漏れたかと思うと、硬く握られた拳が扉の枠を叩いた。
「何故だ……何故だアリーシャ! どうして私たちを待てなかった……! 君の処刑は、ニコラ殿下が既に手を回し撤回へと漕ぎつけた! かつてノルヴィス殿下と協力関係にあった各地の侯爵も呼び寄せて……本当に、あと一歩だったんだ……!」
「存じ上げておりますよ。何故なら、ノルヴィス様がこちらにおられます」
「つまり、粛清は全て終わったということだ。俺を除いてな」
アリーシャに続くようにノルヴィスが返答し、そこで彼はようやくレオンハルトを振り返った。
レオンハルトはノルヴィスの顔とそこに負った傷を見て一度息を飲み、そして二人の視線が真っ向からかち合った。
先に口を開いたのは、ノルヴィスだった。
「レオンハルト騎士団長殿。貴公に問う。貴公の信念は」
最初の茶会と同じ問いをノルヴィスは重ねた。
返答は変わらない、とレオンハルトが静かに答える。
「この剣で、守れる命を守ることです。皆がより良い明日を信じて眠りにつける、そんな正しい国を目指す。その為の剣となることです」
レオンハルトが静かに剣を抜く。切先は真っ直ぐにノルヴィスの喉元を向いた。
どちらのものとも知れない深い呼吸音。階下の喧騒が遠くなったように感じる。
まるで戦場を思い起こさせる空気に、アリーシャは背筋の震えを感じ、これももう幾度目のことかと密かに笑った。
「ノルヴィス殿下、そしてアリーシャ。私はこのまま君たちを行かせる訳にはいかない。城下での蛮行、王城での凶行、脱獄、そしてこれから人を殺めんとする者を、これ以上この剣が逃す訳にはいかない」
民が聞けば卒倒するような威圧感を含んだ低い声。アリーシャは耐え切れず、くすくすと笑い声を漏らした。
「この有様がお見えになられませんか? 手負いに向ける圧ではありませんよ」
「すまない」
いつもの謝罪に反して、レオンハルトは少しも動揺した様子も見せず一歩足を進める。
アリーシャは黙って男の一挙手一投足を観察した。じりじりと距離が詰まっていく。部屋の半分を過ぎたところで、レオンハルトがもう一度、すまない、と謝罪した。
「頼む。大人しく捕縛されてくれ。約束する。悪いようにはしない」
「どうやら、なかなか本心と見える」
「ええ、私の呪詛を受けてなお、この調子ですからね」
ノルヴィスとのやり取りを聞き、レオンハルトの肩が微かに揺れたことをアリーシャの目は捉えた。
その瞬間、窓辺の二人の足が同時に床を蹴った。レオンハルトが駆け出すも一歩遅く、派手な音を立てて窓が割れ、そうして二人の身体は高い塔の外へと投げ出された。
「アリーシャ! ノルヴィス殿下‼︎」
割れた窓枠で手が傷付くことも厭わずに、レオンハルトが外の闇に向かって叫ぶ。風が強い。遥か遠い地上から吹き上げる冷たい空気がレオンハルトの前髪を掻き上げた。
「アリ――」
再度声を張り上げようとしたレオンハルトが、そこで怒声を飲み込む。青い瞳は溢れんばかりに見開かれ、真っ暗な夜空を、正確にはそこへと舞い上がってきた女の姿を凝視した。
「お忘れですか、魔族には魔力がある。中には翼を持つ者だっております」
その言葉の通り、アリーシャの背には、夜空と見紛いそうな真っ黒な両翼があった。
角の折れた華奢な女が、男を抱きかかえて夜に浮かんでいる。
ばさり、という羽音でようやく我に返ったレオンハルトは、降ってきた黒いものを掴み取った。路地裏で何度も見かけた、あの黒い羽だった。
ノルヴィスに促され、アリーシャは空中で身を翻す。レオンハルトは慌てて窓枠から身を乗り出し、手を伸ばした。
「アリーシャ! 待て、駄目だ!」
「きっと当てずっぽうだったのでしょうが、団長の最初の推測は概ね外れていませんでしたよ。随分と調査に遠回りをされておりましたが」
そう背を向けたままで答えてから、アリーシャはくるりと振り返る。先程までいた居室は相当薄暗かったはずであるのに、それより真っ暗な外へと出た今、何やら妙に明るく見えた。そこから半身を突き出した男、瘴気の何たるかを必死に暗中模索していた男に向けて、アリーシャは揶揄するように続けた。
「逆です。魔族は瘴気を生み出す者ではなく、それに抗っている。湧き出るそれらを身に取り込み、土地の浄化を――いえ、時間がありませんね。詳細は屋敷の私の部屋、机の隠し底の中に残してあります。ニコラ殿下へお伝えください」
「ニコラを鍛えてやれよ」
呆れたような嘆息混じりにノルヴィスがそう言って、そこで二人の身体は落ちるように消えていった。
「待てっ……!」
レオンハルトは窓枠に両手を突いて更に身を突き出す。目を凝らすと、遥か遠く、闇に溶けるようにして、夜空を滑空する翼が見えた。
「――! ――!」
強風が逆巻く。レオンハルトの叫び声はそれに飲まれ、ただ星のない夜空へと運ばれていった。




